浮羽湾奪取戦
血に染まる浮羽湾
夜は墨を浸したビロードのように重く垂れ下がり、テイワット大陸最南端のナタ諸島を覆い尽くしていた。浮羽湾の灯台は相変わらず鈍い黄色い光を回転させ、たまに通りかかる商船に航路を示している。島の住民の大半は眠りに落ち、波が岩礁を叩く音と遠く火山の噴火口から響く低い轟音だけが静寂を裂いていた。
港の夜番を務める二人のナタ守兵はあくびをこらえていた。二人の肌にはナタ人特有の濃い肌色と炎の紋様の刺青が刻まれている。若い方のバロは退屈そうに空の星を数え続けた。
「今夜は静かすぎるな」年長のカヌが槍の穂先を磨きながらつぶやいた。「魚が水面を跳ねる音さえ聞こえない」
「静かなのは悪いことじゃないさ」バロはだらりと体を伸ばした。「あと二時間で交代だ。妻が煮込む火山トカゲのスープを早く食べに帰りたい」
カヌが返答する前に、外海からゆっくりと近づいてきた中型の商船が二人の目を引いた。船帆には稲妻の三重巴紋が描かれ、月光の下で暗い紫色に鈍く輝いている。
「稲妻の船か?こんな夜中に入港するとは」カヌは槍を強く握り、眉をひそめた。
バロは立ち上がって目を細め遠くを眺めた。「商船のように見える。嵐で航路を狂わされたのだろう」
船は岸に接岸し、舷梯が下ろされた。着物を身にまとった中年の男が船から降り、その後ろから十数名の船員が頭を垂れ、密閉された木箱を運んでくる。
「止まれ!」カヌは一歩前に出てナタの言葉で怒鳴った。「夜間の緊急入港には書類検査が必須だ」
先頭の男は軽く腰を曲げ、訛りはあるが流暢なテイワット共通語で答えた。「長谷川一郎と申す。稲妻離島より出航し、絹と漆器を運んでおります。嵐により航路が逸れ、三日遅れてしまいました。どうかお許しください」
彼は巻物状の公文書を差し出した。カヌは念入りに確認し、稲妻公認の印章は鮮明で、貨物リストも詳細に記載されていた。バロは木箱の周囲を回り、槍で軽く叩くと鈍い反響が返ってきた。
「一つ開けて確認せよ」カヌは命じた。
長谷川——すなわち商人に偽装した織田信忠の目には捉えがたい冷たい光が一瞬過ったが、すぐに穏やかな笑みで覆い隠した。「どうぞご確認を」
部下に木箱を開けさせると、中には鮮やかな色合いの上質な稲妻絹が敷き詰められていた。バロは布に触れて頷き、カヌに大丈夫だと合図した。
カヌは最終的に書類を確認した後、ため息をついた。「港内の倉庫地区に一晩限り停泊を許可する。明朝正式な入港手続きを行え。住民地区への侵入は固く禁じる」
「寛大なご配慮、厚く御礼申し上げます」織田信忠は再び礼を述べ、瞳に満足の色が宿った。
忍者に偽装された船員たちは荷物を港脇の空き倉庫へ運び始めた。その動作は整一で恐ろしいほど静かで、重い荷物を運びながらもほとんど音を立てない。カヌは彼らの背中を眺め、心の奥底に不安がよぎった。
「あまりに静かすぎると思わないか?」バロに小声で問いかけた。
バロは肩を竦めた。「稲妻の人間は皆こうだろう。璃月港で見た稲妻商人も石のように無口だった」
カヌは首を振り、哨戒の位置へ戻った。倉庫の扉が静かに閉まり、内部の一切が外界から遮断された。
倉庫内部
織田信忠は稲妻着物の外層を脱ぎ捨て、軽量な鎧を姿を現した。柔和な商人の雰囲気は完全に消え、鋭い眼差しと剛毅な顔立ちが露わになる。偽装していた船員たちも仮面を剥ぎ、目だけを出す黒い忍装束に身を包んだ。
「風魔」信忠は低く呼びかけた。
影から細身の忍者が現れる。風魔小太郎その人であり、冬の星のように冷徹な目をしていた。
「若殿、島内守備の配置図は把握済みです」風魔は手描きの地図を広げた。「常備兵は約千人で四つの哨戒所に分散しております。中央陸上兵営に三百人、港に百人、東方見張り塔に五十人、残りは巡回部隊として散在しています」
信忠は頷き、問うた。「民間人はどうか?」
「島に五つの集落が点在し、総人口は約五千人。最大の村は南部の温泉地帯近くに位置します」部下の忍者が補足した。
信忠の指は地図をなぞり、中央兵営の箇所で止まった。「まず巡回兵と哨戒兵を制圧し、一気に兵営へ攻め寄せよ。速く、静かに、一切の生き残りを許すな」
「民間人の処遇は?」風魔が問う。
信忠は一瞬黙り込み、父の言葉が脳裏をよぎる。「信忠よ、覇業を成すには鉄の心を持たねばならない。このテイワットの大地はいずれ織田家のものとなる」
「父上が璃月侵攻の前線拠点としてこの島を必要としている」その声は鉄のように冷硬だった。「邪魔となり得る者はすべて消し去れ。生き証人も一人も残すな」
風魔小太郎は深く頭を下げた。「御意。承知いたしました」
「行動開始」
命令が下された瞬間、忍者たちは墨が水に溶けるように夜の闇へと紛れ、四組に分かれ各目標へ散っていった。その動きは敏捷かつ無音で、ナタ特有の蛍光草を一つも揺らすことなく進んだ。
港の哨戒所
バロが百二十三番目の星を数え終えた瞬間、栓が抜かれるような微かな「プス」という音が響いた。振り返るとカヌが首を押さえ、目を見開いたまま指の隙間から血が溢れ出している。カヌの唇は動いたが声は出ず、そのまま地面に崩れ落ちた。
バロは恐怖で叫び声を上げようとしたが、後頸に冷たい刃が突き刺さり、瞬く間に暗闇へ落とされた。
同じ惨劇が浮羽湾全域で同時に起きた。東方見張り塔の二人の守兵が前夜の火山噴火の話をしている最中、影から二つの短刀が心臓を貫いた。五人一組の巡回部隊が海岸沿いを進むと、不自然な足音に隊長が停止を命じたが、時既に遅し。岩陰や茂み、足下の影から黒い忍びが飛び出し、月光の下で刃が煌めき、五つの命が音もなく絶たれた。
最も激しい戦いは中央兵営で繰り広げられた。ここには火の紋様を刻まれた経験豊かなナタ戦士三百人が駐留し、危機時に微弱な元素力を行使できる。だが忍者の奇襲はあまりに唐突で、最初の歩哨が倒れた時、兵営の大半の兵士は眠りの中にあった。
風魔小太郎自ら主力を率いて攻め込む。まず外部との通信陣を破壊して連絡を遮断し、四方から潜入を開始。喉を斬り、毒針を首に打ち込み、手裏剣は急所を正確に捉えた。一部のナタ戦士が目覚めて抵抗したが、暗闇で敵味方の区別がつかず、忍者は影のように捉えどころがなかった。
百人隊長が喉を斬られる寸前に最後の咆哮を上げ、夜空に響き渡った。この声で一部の兵士が覚醒し、暗殺は乱戦へと変わった。ナタの戦士たちは槍と斧を振るい、体に微弱な火が浮かぶが、忍者は煙玉と分身術で混乱を広げ、一人ずつ確実に討ち取っていった。
戦闘は三十分も経たないうちに終結し、兵営は死の静寂に包まれた。風魔は死体の山の中に立ち、黒い面を血で染めながら戦死者を確認した。「我方戦死七名、軽傷十五名です」
駆けつけた織田信忠は無表情に頷き、南側の大きな集落へ視線を向けた。五千人の民間人はまだ眠りにつき、迫り来る虐殺を知る由もない。
「ライフル部隊を上陸させよ」信忠は命じた。
商船内部
「絹と漆器」と標記された木箱が開けられ、整然と並んだボルトアクションライフルが姿を現した。これらの兵器はテイワットのどの武器とも異なり、異界とこの世界の技術を融合させ、織田家がこの地へ渡った後に製造した殺戮の道具である。
二百名の織田精鋭ライフル兵が統一された濃い青の軍服を身にまとい、整った隊列で上陸した。忍者の隠密な戦法と対照的に、正規軍の厳格な規律が滲み出ている。
「全ての集落を包囲し、脱出路を完全に封鎖せよ」信忠の声は静かな夜風に鋭く響いた。「合図と同時に一斉射撃を開始せよ」
ライフル兵は五隊に分かれ、忍者の誘導で各集落へ静かに進軍した。信忠は主力を率いて南部の本集落へ向かい、風魔が従う。
温泉地の隣に建つこの村は火山岩と木材で築かれ、屋根には厚い藁が敷かれている。中央には普段市場や集会に使われる石の広場があるが、今は無人で、数個の行灯だけが風に揺れていた。信忠は入り口に立ち、家の窓から漏れる微かな灯り、遠くの子供の泣き声や犬の遠吠えを聞いた。ここには家族と夢を持つ生身の人間が暮らしているのだと、はっきり自覚していた。
「若殿、夜明けが迫っております」風魔が焦りを込めて囁いた。
信忠は目を閉じ、深く息を吸い込む。再び瞳を開いた時、全ての逡巡は消え失せ、冷徹な決意だけが残った。
「開始せよ」
手を高く掲げ、勢いよく振り下ろした瞬間、雷鳴のような銃声が轟き、ナタの夜の平穏が打ち砕かれた。第一射の一斉射撃で数百発の弾丸が木戸と障子を突き破り、眠る民衆を襲う。悲鳴、泣き叫び、哀願の声が延々と響く銃声と絡み合い、地獄の調べとなった。
民衆は家から逃げ出すも、第二、第三の射撃に次々と倒れていく。農具や粗末な武器で抵抗しようとする者もいたが、銃の火力の前には無力だった。広場の真ん中に立ち上がった年老いたナタの長老は両手を挙げ、体に強烈な炎を迸らせた——村で最後の元素使いである。だが十数発の弾丸が同時に彼を撃ち抜き、炎は一瞬で消え、体は古布のように地面に崩れた。
織田信忠は無表情にこの光景を眺め続けた。走り回る子供、子を守ろうとする親、共に死を迎える老夫婦。倒れる一人一人が心を締め付けるが、彼はその感情を無理矢理押し殺し続けた。
「速度を上げよ。夜明け前に全て終わらせろ」
銃声はさらに激しくなる。ライフル兵は家屋を一軒ずつ進み、隅々まで確認し生き残りを殲滅していく。兵士の中には憐れみに顔を曇らせる者もいたが、厳格な軍規と信忠の冷たい視線の前で、射撃を止めることはできない。
虐殺は二時間続いた。東の空が魚の腹のように白み始めた時、南部の村に生きている者は一人もいなくなった。広場も道も家も死体で埋め尽くされ、血が小川のように流れて温泉へと注ぎ、澄んだ湯を濃い紅色に染め上げた。
他の集落からも続々と報告が届く:全域制圧完了。
浮羽湾というナタ諸島の小さな島は、一夜にして生き地獄と化した。守兵千人、民間人五千人、一人も生き残らなかった。
夜明け
朝日が昇ると、浮羽湾最も高い崖に織田家の木瓜紋旗が掲げられ、テイワットの空に不釣り合いに翻っていた。
港の倉庫は兵営と物資貯蔵庫へ改装され、忍者たちは死体の処理を進め、ライフル兵は要所に哨戒陣を張っている。外海から三隻の正規織田戦艦がゆっくりと湾内へ進入し、新たな兵員と補給物資を運び込んでいた。
風魔小太郎が信忠の元へ報告に訪れた。「若殿、被害状況の暫定集計が終わりました。我方戦死二十三人、負傷四十一人。接収物資は現在計算中です」
信忠は頷いた。「防御施設を築き、通信陣を修復せよ。父上へ報告せよ:浮羽湾は確保完了、次段階の作戦を開始可能と」
「御意」
風魔が退いた後、信忠は一人崖に佇む。海風が顔をなで、濃厚な血の鉄臭が漂ってくる。彼は西の方角、璃月と層岩巨渊の方を眺めた。一年前、父の織田信長はその地で討ち死にし、最期に「本能寺」と叫び、無念に満ちた瞳を閉じたと伝わっている。
「父上、これは最初の一歩に過ぎない」信忠は小声で呟いた。「あなたが叶えられなかった覇業、私が必ず継ぐ。テイワットの大地はいずれ織田家のものとなる」
彼は固い足取りで崖を離れた。朝日が島全体を照らし、浜辺に積まれた死体の山、血に染まる温泉、そして信忠の瞳に燃え盛る冷酷な野望が露わになる。
この島は織田家のテイワット侵攻最初の足場となる:海上補給拠点であり、璃月へ進撃するための踏み台だ。そして浮羽湾の虐殺は、始まりに過ぎない。
遠く、死体の上から一頭のナタ特有の炎蝶が舞い上がり、羽に血の滴を宿して陽光の下で妖しく煌めいた。蝶は数回旋舞した後、ナタ本島の方へ飛んでいった。まるでこの地の最後の鎮魂歌を届けるかのように。
織田信忠はこの蝶を見ることはなかった。彼の思考は既に次の計画へ向いている:防御強化、物資備蓄、兵士訓練、ナタの反撃、あるいは璃月の報復への備え。
戦火は燃え上がり、長い闇夜はまだ終わらない。




