↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
103/130

鴨緑江合流

風龍越境(ふうりゅうえっきょう)


層岩巨淵の戦いより四十七日目、未明のモンド・風立ちの地。


七本の古木に囲まれた草原に、ありえない部隊が集結していた。夜明けが地平線を割く前、七天神像の微かな光と風元素の提灯だけが暗闇を照らしている。


イェランは古木に身を寄せ、手首の青幽な糸が薄闇の中でかすかに煌めいていた。コクセイは匣の龍吟剣を点検し、刀身に夜明け前の漆黒の空が映り込む。カンウの弓紐には細やかな氷晶が結びつき、シンカクは瞑想にふけり、体周りに淡い仙気がたゆたう。シトラリは弩矢を一本ずつ三度も確認しながら調整を重ねていた。


フータオは戦時用往生堂道具箱を縄で固定しようと悪戦苦闘していた。その巨大な箱には往生堂の宣伝文句が貼られている——「渡海葬送、専門かつ行き届き。二基目の墓石は半額」。シャンリンは調理道具を数え、巨大な行軍万能鍋を専用の背負い台に固定し、鍋の縁から顔半分がはみ出している。


八重神子は神像の台座に腰掛け、足をゆらゆらと揺らしながらパイプから淡い紫の煙を吐き、空中に戦況図を結び上げた。「最新の情報によると、李如松率いる明軍は鴨緑江東岸に橋頭堡を築いた。だが小西行長の日本軍は平壌郊外まで迫っている。我々が向かう先は本物の最前線だよ~」


「神子様」旅人は東の空を眺めて問うた、「ウェンティは本当に来てくれるのか?」


言葉が消える間もなく、風が立ち起きた。


自然の風ではない。太古の巨竜が翼を羽ばたかせて起こす、古き気息を帯びた強風だ。七本の古木の枝葉が激しくなびき、草の露が細かい水煙に巻き上げられる。皆が空を仰ぐと、巨大な影が雲間からゆっくりと舞い降りてきた。鱗は朝焼けに青く輝き、翼は空を覆い隠すほど広大で、琥珀色の竜瞳は二つの満月のように煌めいている。


風竜ドヴァリンである。


竜の背中から、緑の衣の人影が軽やかに飛び降り、天空の琴を弾いて軽やかな調べを響かせた。「やあ~長らく待たせたね。東方の救援へ赴くと聞いて、ドヴァリンも張り切っているんだ」


ウェンティは着地し、にっこり笑いながら竜の爪を叩く。「この子は久しぶりに長距離を飛ぶから、体を動かしたいと言っているよ」


ドヴァリンは低く唸り、風元素の息吹で一同の衣をなびかせる。大きな頭を垂らし、琥珀の瞳が一行を見渡し、シンカクとカンウの前で少し視線を止めた——人ならざる存在同士の共鳴を感じ取ったのだろう。


「それでは」ウェンティは笑みを消し、珍しく真剣な面持ちになる。「飛行ルートは決定した。ドヴァリンが渤海上空を越え、直接鴨緑江河口まで運んでくれる。地上部隊に察知されぬよう、雲上高度を保つ。かなり冷える覚悟をしておけ」


彼はシャンリンの大鍋とフータオの大箱を眺めて問う。「これらも全部乗せるつもりか?」


「当然!」フータオとシャンリンは声を揃えて答えた。


ドヴァリンはため息のような深い唸りを上げながら、身を低く屈めた。ウェンティの風元素の補助を借り、全員が無事に竜の背中へ登り込む。ドヴァリンの背中は小さな広場ほどに広く、硬く滑らかな鱗には体を安定させる溝が自然に刻まれている。


「しっかり掴まって!」竜の首元に座ったウェンティは、天空の琴で勇ましい旋律を奏でた。


ドヴァリンが翼を広げる。一度の羽ばたきで強風が吹き荒れ、地面の草がひれ伏す。二度目で巨体が地面を離れ、三度目に空高く雲の中へ突進していった。


眼下の風立ちの地、モンド城、果酒湖は玩具のように縮小し、やがて雲海に飲み込まれる。


雲の上はまるで別世界だ。昇る太陽が雲海を金紅に染め、ドヴァリンが雲頂を滑空し、翼の両側に白い気流の筋が伸びる。気温は急激に低下し、吐く息は瞬く間に白い靄に変わる。


「寒い…」シャンリンは身震いし、火を起こそうと手を伸ばしたが、イェランに止められた。


「高空で火を使うのは極めて危険だ」イェランは荷物から厚手のマントを取り出し配った。フォンテーヌ製の特殊な布地で、軽量ながら保温性に優れている。


マントを身にまとったフータオは、わくわくと竜の縁から下を覗き込む。「わあ、これが飛行の感触かしら?往生堂で『風竜送葬サービス』を始めたら、大人気間違いなしだよ…いてっ!」


コクセイが彼女の額を軽く叩いた。「ふざけるな。我々は観光に来たのではない」


カンウは眼下の雲海を眺め、静かに呟く。「これほど大規模な渡海遠征を行ったのは、魔神戦争以来のことだ…」


「その通り」八重神子が続け、狐耳が風に揺れる。「あの頃はこんな快適な乗り物などなかった。かつて影様と共に海祇島へ遠征した際は、雷元素で動く木船に揺られ、三日間何も食べられなかったもの」


シンカクは瞑想を続け、周囲の環境に一切乱されない。シトラリは飛行データを記録し続けている——フォンテーヌ学士院から依頼された、風竜の飛行能力調査任務である。


旅人はウェンティの後ろに座り、果てしない空と海を眺め、複雑な思いに駆られていた。テイワットから朝鮮へ、元素の戦いから人間同士の殺し合いへ。この一歩は地理的な距離だけでなく、自らの認識の境界をも越えるものだ。


「緊張しているか?」ウェンティは振り返らず問い、琴の調べが柔らかく変わる。


「少しだ」旅人は素直に答えた。「テイワットなら戦いのルールを理解できる。だがあちらでは…」


「ルールは人が定めるものだ」ウェンティは語る。「音楽も戦争も、愛さえも、本質は『意思の伝達』でしかない。旋律で伝える者もあれば、刀剣で示す者もあるだけだ」


彼は振り向き、朝日に澄んだ緑の瞳を向ける。「旅人よ。お前が持ち込むのは戦闘力だけではない。テイワット七国が共に抱く信念——侵略者は必ず敗れ、団結した民は誰にも打ち負かされぬ、その理念なのだ」


旅人は黙って思索にふけった。


飛行は丸一日続いた。ドヴァリンは時折海面すれすれまで降下し、大魚を捕らえて食糧とする。シャンリンは風の力で火を起こし、竜の背中で魚汁を煮上げた。危うい状況だったが、熱いスープは高空の寒さをしっかりと払ってくれた。


日没時、前方に陸地の輪郭が現れた。


「あれが朝鮮半島だ」ウェンティが指し示す。「鴨緑江河口は真っ先方にある。ドヴァリン、降下を開始せよ!」


風竜は長く咆哮を上げ、旋回しながら降下し始める。雲を抜けると下の景色が鮮明になる。太い川が竜のように大地を蛇行し、土地を二つに割っている。東岸には碁盤の目のように軍営が広がり、明軍の旗が夕闇になびく。西岸には茫々たる山地と、微かに煌めく日本軍の篝火が見え隠れする。


ドヴァリンは東岸の人里離れた谷間に着地した。翼が巻き起こす強風が草木をなびかせ、森の鳥を一斉に飛び立たせる。


巨竜が地面に着くと、大地が微かに揺れた。待機していた明軍騎兵隊が駆け寄り、隊列の先頭には李如松将軍が立っている。百戦錬磨の老将でさえ、眼前の風竜を見て驚きを隠せない。


「李将軍」旅人は竜の背中から飛び降り、抱拳礼を捧げる。


李如松は礼を返し、奇妙な一行を順に眺め渡す。狐耳の女、大鍋を背負う少女、梅の瞳の堂主、仙気をまとう女——どれも人の常識を超えた存在ばかりだ。


だが彼はすぐに落ち着きを取り戻す。「旅人殿、諸君、ようこそ。営内に湯と食事を用意してある。どうぞお供を」


ウェンティはドヴァリンの首を軽く叩く。「ここまでの案内は私までだ。ドヴァリンはモンドへ戻らねばならない。長く風竜廃墟を離れると、あの地の風元素が均衡を崩してしまう」


ドヴァリンは唸り、琥珀の瞳で旅人を見つめ、何かを伝えようとする。ウェンティが代弁する。「緊急退避が必要な時、これで呼べばどこにいても駆けつける」


彼は胸から風元素が凝縮された羽根を取り出し、旅人に手渡す。「元素力を込めれば感知される。一度きりの使用なので、慎重に」


「ありがとう」旅人は真剣に受け取った。


ドヴァリンは再び翼を広げ、夕闇の空へ舞い上がり、やがて雲の彼方へ消え去った。


李如松は竜の影が消えた空を眺め、つぶやく。「この目で見なければ、この世にこれほどの神獣が存在するなど、到底信じられぬ…」


「将軍」旅人が話を戻す。「戦況はいかがでしょう?」


李如松の顔つきが険しくなる。「ついてこい」




軍営の大幕の内、巨大な砂盤に赤と青の小旗が刺されている。赤は日本軍で、朝鮮南部の大半を支配し北上を続けている。青は明・朝鮮連合軍で、平壌以北の狭い地域だけを死守している。


「小西行長の第一軍五万が、平壌城を包囲している」李如松が砂盤を指す。「朝鮮守備兵は二万人に満たず、士気は崩壊寸前だ。我が本隊はまだ集結中、早くても七日後まで援軍は到着できない」


彼は旅人を見て問う。「先ほど言及した特殊部隊で、城の守りを補佐できると?」


「承知しております」旅人は肯き、仲間たちを見渡す。「シンカク、コクセイ、シャンリン——お前たち三人で平壌を守れ」


コクセイは眉をひそめる。「三人で?城はあまりに広大です…」


「城全域を守る必要はない」旅人が解説する。「要所だけ抑えればよい。城門、弱い城壁、穀倉、水源。日本兵には神の眼も元素力もない。我々の術は彼らにとって神の奇跡に等しい。上手く使えば敵の士気を完全に崩せる」


シンカクは冷ややかに口を開く。「殺戮に制限はないのか?」


「いかん」旅人は首を振る。「直接的な殺害は極力避けよ。任務は防御と威嚇だ。平壌に人ならざる守護者がいると敵に悟らせ、本隊到着まで時間を稼ぐのが目的だ」


シャンリンが手を挙げる。「私だって戦えます!この鍋で——」


「お前の鍋にはもっと重要な役目がある」旅人は真剣に告げる。「城内には飢え、傷、恐怖にさらされた難民があふれている。お前の料理で腹を満たし、薬湯を煮立てられる。時に一碗の熱い汁は剣よりも人々の心をまとめる力を持つ」


シャンリンの目が輝く。「わかりました!師匠の言う通り、台所も戦場なのです!」


李如松は思案にふけりつつ頷く。「奇跡で敵を脅し、温もりで民をまとめる…型にはまらぬ戦術だが理にかなっている。三日から五日でも敵を足止めできれば、戦況は一変する」


八重神子が砂盤に近づき、平壌南門を指で突く。「シンカク殿、ここに氷結陣を張れ。人間の軍勢は寒さを最も恐れる。城壁を凍らせれば攻城梯子は立てられぬ」


次に城西の穀倉を指す。「コクセイ殿、穀倉周囲に雷の結界を張れ。殺す必要はない。触れた者に痺れを与えるだけで、人々には天罰と映る」


最後に城内広場を示す。「シャンリン殿、ここに粥小屋を設けよ。守備軍に食料の余裕があると民に示せば、人心は安定する」


三人は肯き、任務を刻み込む。


「残る諸君は」旅人はイェラン、カンウ、シトラリ、フータオ、八重神子を見渡す。「私と共に全羅道へ向かい、李舜臣将軍を探し出す」


李如松は驚きを隠せない。「李舜臣は十数隻の亀船を率い、南海で遊撃戦を続けている。どうやって居場所を探し出す?それに全羅道は敵の最深部、危険が満ちているぞ」


イェランは柔らかく笑い、詳細な海図を広げる——フォンテーヌ情報部から入手した最新の東アジア海図には、海流、季節風、暗礁まで記載されている。「我々の手段があります」


「敵地深入りは我々の得意とするところです」カンウが補足する。


フータオは往生道具箱を叩く。「戦後の葬送プランまで完璧に考えてあるのに、危険など恐れるものか?」


李如松は一行を眺める。旅人を除き全て女身だが、誰もが揺るぎない決意を瞳に宿していた。父・李成梁の言葉が脳裏を過ぎる——真の戦士は性別、年齢、容姿で測るものではない。


彼は固く抱拳する。「ならば平壌の守りをシンカク殿たち三人に託そう。親衛隊を派遣して入城まで護衛させよう」


「護衛は不要」シンカクが淡く告げる。「我々だけで向かう」


「人数が少ないほど、目立たず潜入できる」コクセイも肯く。


シャンリンは大鍋を背負い上げる。「日が完全に暮れる前に行きましょう!」


三人は幕を出て行く。シンカクが仙術を用いて姿を薄め、夕闇の中に完全に消え去った。時間は長くないが、平壌へ忍び込むには十分だ。


李如松は消えた彼らの背中を眺め、長い間黙り込んでいた。


「将軍」旅人が語りかける。「我々も出発します。陸路では遅すぎる。船が必要です」


李如松は我に返る。「港に偵察用の快船が三隻係留されている。好きな一隻を使え」


「一隻で十分です」八重神子が微笑む。「大きな船は目立つだけだ」


真夜中、目立たぬ単桅船が鴨緑江河口を静かに抜け、夜の闇に紛れて南方の海へ進んでいった。


船首に立つ旅人は漆黒の海面を眺める。左には朝鮮半島の霞んだ輪郭、右には果てしない大海。前方には全羅道、李舜臣、そして新たな試練が待ち受けている。


イェランが隣で海図を広げ、指で予定航路をなぞる。「順風が続けば五日で麗水港沖まで到着できる。問題は李舜臣とどう連絡を取るか。無闇に海上を彷徨って日本水軍に捕まるわけにはいかない」


八重神子が船室から出て、雷光に煌めくお札を手に乗せる。「それは簡単だ。影様から預かった小道具がある」


お札を空へ投げると、雷で形作られたアホウドリに瞬く間に変わり、夜空へ飛び去った。「海上の朝鮮船を探し出し、我々を誘導してくれる」


カンウはマストの見張り台に立ち、氷元素の望遠鏡で周囲の海域を監視する。シトラリは船に積まれた明軍小型弩砲を点検する——粗末だが無いよりはましだ。


船室の中、フータオは葬送道具を整理しながらふと顔を上げる。「ねえ旅人、李舜臣将軍ってどんなお姿なの?」


旅人は李如松が見せてくれた肖像を思い浮かべる。「四十代前後、引き締まった顔立ちに髭を生やしている。目は細いが、鋭い眼光を放つと聞いた」


「なるほど」フータオはふざけた調子で呟く。「お会いしたら、往生堂専用将軍葬送パッケージを提案しよう。内容は——」


「フータオ」旅人は困り顔で遮る。


「わかってるわよ、冗談だもん」彼女は舌を出し、すぐに表情を引き締める。「戦いは戯れじゃない。層岩巨淵で帰らぬ人たちをたくさん見てきたから…」


船室は静まり返る。波が船腹を叩く音、帆が風で膨らむ音、遠くから響く鈍い轟音——雷なのか、砲撃なのか。


夜は更けていく。船は暗闇を進み、嵐へ向かう一葉の小舟のように。


一方平壌城内では、シンカク、コクセイ、シャンリンが密かに入城を済ませていた。城壁の上に立ち、南方に広がる日本軍の篝火を眺める。まるで地獄の眼が開いたかのように、果てしなく煌めいている。


「始まるわ」コクセイが静かに呟く。


シンカクは肯き、氷のお札を指の間で編み始めた。


シャンリンは大鍋に火を点け、最初の一杯の熱い汁が煮立ち始める。


東の空に、夜明けが迫っている。


二つの戦いが、同時に幕を開けようとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。