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迷宮世界のオデュッセイア  作者: 諭吉
四章 燃ゆる槍と燻る弓
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92. 己のために振るう槍

 黒い霧が目の前を舞って、消えていったような気がした。


「───うことじゃ!」


 不自然に途中から聞こえた声はヘステスの叫びだった。

 もやがかったような視界を、頭を振って無理矢理に晴らす。


「……え?」


 目に飛び込んできたものを理解することができず、一度ファンエーマは目を閉じ、開き直した。


 一瞬にして、目の前に広がる情景は一変していた。


 狭い家の中を人がぎっしりと埋めていたはずなのに、チェリと、あの老女、そしてせいぜい二、三人が歩き回っているばかりになっている。


「こ、これは……?」


 呟いたファンエーマはおずおずと辺りを見回した。

 すぐに信じられないものが見つかった。


「───っ!」


 モムルの姿をそのまま写し取ったような石像が、彼が立っていたはずの位置、そして姿勢のままに、形作られていた。手にはボウガンまで握られている。石像に巻き付けられている白布の乱れ方は、オトが面白がって彼の身体に巻き付けた形のままだった。

 モムルの姿を模した石像の近くに、オトの石像もあった。


「これは何の真似じゃ……っ!」

「ですから、大いなる海の御許へと勤めを果たすため向かわれたのです」

「そのような、そのような勝手がまかり通ると思うてか!」


 我を忘れたような勢いでヘステスが激昂している。

 まだ数ヶ月ほどの付き合いでしかなかったが、彼がこれほどまでに取り乱す姿をファンエーマは知らない。


 そのヘステスと自分の他に、仲間たちの姿はない。

 二人分の服、テレミアが腰に帯びていた突剣、そしてラズエイダが船から持ち出した紙束が、机の上に静置されていた。


「───イダ様?」


 背筋に走る寒気に衝き動かされるように、ファンエーマは己の主君の姿を探した。

 ついさっきまで、確かに、身を投げ出せば庇える場所にいたはずだったラズエイダは、忽ちの内に消え去ってしまっていた。


 自分と同じ白い髪の、自分と比べれば少し背の低い主君の姿を、家の隅々まで探して回った。

 何度も頼ってもらった自慢の耳を澄ませ、聞き慣れた足音を探した。

 いつしか血の臭いを覚えてしまった敏感な鼻を利かせ、親しんだ香りを探した。


「イダ、様?」


 気配すら感じられない。


 そのとき、ヘステスの横から男が一人進み出てきた。彼の手には、光を透かす不思議な見た目をした白い棒が握られていた。

 男はその白い棒を、何を思ったかモムルの姿を模した石像に寄せて、すっ、と差し込んだ。半透明の棒は、硬い表面を持つはずの石像の中へと簡単に沈んでいった。


 直後、棒が淡い光を放った。


 モムルの像にヒビが走り、ゆで卵の殻が剥かれるようにぽろぽろと表面だけ崩れて、破片は塵と化して消えていく。

 中から、ファンエーマもよく知っている黒い肌が姿を現した。


「……うん?」


 血の色を取り戻した唇から零れたのは、紛れもない、モムルの声だった。


「吐け、今すぐに、二人をどこにやったのかを吐くのじゃ!」


 ヘステスの怒声が響く。


「大いなる海の御許に」

「ふざけたことを抜かすでないわ!!」


 それで、ファンエーマは全てを理解した。


 この島の人々は、邪魔な四人を石に変え無力化した間に、テレミアとラズエイダを連れ去ったのだ。「大いなる海の御許」へと。


 命に代えても守り抜くと誓った宝石は、もうこの手が届く場所にはいない。


「あ、あ、アァァア……ッ!!」


 喉から絞り出された声は、まるで獣の吠え声かのように歪んでいた。


 気づけば、ファンエーマは近くにうち捨てられていた槍を手に取っていた。

 気づけば、ファンエーマは固く固く握りしめた槍を振りかぶっていた。


「貴様らあアッ!!」


 突き出した槍が老女の身体に届くよりも先に、ヘステスが手を伸ばした。


「『出でよ氷壁』!」


 ファンエーマは構わず槍を振り抜いた。

 パリン、と音を立てて氷の盾は砕け散った。

 しかし勢いを削がれた槍では、老女の胸骨を貫くには至らない。


 崩れ落ちた老女にとどめを刺すため、ファンエーマはしなびた身体を槍で地面に縫い付けた。


「『飛べ氷杭』!」


 力を込めようとした右手を、氷の杭が貫いた。

 気を失いたくなるほどの痛みの辛さは、滾る怒りの前では大海の中の一滴の雫にも満たなかった。


 残った左手を槍に添え、老女の身体に向けて力を込める。

 めりめりと肉を破る感触が伝わる。


「『魔闘・天衣』───止めんかっ!」

「がッ」


 顎を蹴り飛ばされて、ファンエーマの視界には星が散った。


「愚かな真似をするでないわ! 『治癒の力よ、この者の身を在るべき姿で形どれ、新たなる心臓、肺臓を与えよ』!」


 テレミアとラズエイダを殺した、狂うほどに憎いはずの老女を、ヘステスは必死になって治療している。


「どう、して、ですか……!」 


 ぐらぐらと揺れ動く世界の中、ファンエーマはなんとか疑問を言葉にした。


「手がかりを吐かせるために決まっておるじゃろう、阿呆!」


 おびただしい量の血が、ヘステスの纏う白布を真っ赤に汚していく。


「ファンエーマ、一つ答えよ」

「はい……っ」


 立っていることもままならない状態で、ファンエーマは必死に意識を保った。

 老女の傷を必死に癒やしながら、ヘステスはファンエーマに問う。


「首輪はまだ()()()()()な?」

「───!」


 ファンエーマは左手を首に伸ばした。

 そこには、あの忌々しい奴隷商に嵌められた隷属の首輪が収まっている。


 隷属の首輪は、主人と奴隷の間に魔素的な繋がりを形成する。

 奴隷契約が破棄されるか、主人が死なない限り、その繋がりが途切れることはない。


 ファンエーマは必死に、主人と自分をつなぐものを探した。

 確かに、テレミアの気配をどこかに感じることができた。


「生きて、います……!」

「ならばよい。しばらく黙っておれ」


 ぴしゃりと叩きつけたヘステスは、ファンエーマから完全に意識を切り離したようだった。

 安堵に胸を包まれた瞬間に、ファンエーマの頭を痛みが灼いた。

 力なく地面に倒れ伏し、目を閉じる。

 すぐに、音も匂いも気配も、何も分からなくなった。




 鈍い頭痛と共に、ファンエーマは意識を取り戻した。


「……っ、うう」


 身を起こそうとして、頭痛にそれを阻まれる。

 喉から苦悶の声が漏れた。


 頬を柔らかい何かが覆って、動くに動けないでいたファンエーマのことをそっと押し返した。


「ファンエーマ、落ち着いて」


 涼やかな声が耳元で囁く。


「オト、様……?」

「いいから」


 頬に触れる手の柔らかさに促されるまま、ファンエーマは身体から力を抜いた。

 ふに、と後頭部に触れる温かい感触は、オトの太ももなのだろう。


「頭を揺らされたって聞いた。動いたらだめ」


 そうだ、ヘステスに顎を蹴られたのだった。


 何があったのかを順に思い出していく。


「……どれほどの間、私は気を失っていたのですか」

「分からないけど、私が目を覚ましてからそんなに時間は経ってない。小指くらいの蝋燭も燃え尽きないと思う」

「そうですか」

「だから、まだ頭は治ってない。動かないで」


 優しい声に諭されながら、ファンエーマはヘステスの姿を探した。

 仮に彼が望んでいたとおりに事が進んでいるのなら、今頃老女を相手に質問を浴びせ続けているはずだった。


「ヘステス様はどちらに?」

「隣の部屋。あのお婆さんが目を覚まさないから、ちゃんとした寝台に寝かせに行った」


 そう聞いて、ファンエーマの心は深く沈んだ。


「……私のせい、なのでしょうね……」


 しばらくオトは答えなかった。

 何度か息を吸う音がしたのは、喉まで出かかった言葉を飲み込み、また選び直しては飲み込みを繰り返していたからなのだろう。


「……きっと、私もそうした」


 ようやく生み出された短い慰めと共に、小さな手がファンエーマの頭を撫でていった。

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