92. 己のために振るう槍
黒い霧が目の前を舞って、消えていったような気がした。
「───うことじゃ!」
不自然に途中から聞こえた声はヘステスの叫びだった。
もやがかったような視界を、頭を振って無理矢理に晴らす。
「……え?」
目に飛び込んできたものを理解することができず、一度ファンエーマは目を閉じ、開き直した。
一瞬にして、目の前に広がる情景は一変していた。
狭い家の中を人がぎっしりと埋めていたはずなのに、チェリと、あの老女、そしてせいぜい二、三人が歩き回っているばかりになっている。
「こ、これは……?」
呟いたファンエーマはおずおずと辺りを見回した。
すぐに信じられないものが見つかった。
「───っ!」
モムルの姿をそのまま写し取ったような石像が、彼が立っていたはずの位置、そして姿勢のままに、形作られていた。手にはボウガンまで握られている。石像に巻き付けられている白布の乱れ方は、オトが面白がって彼の身体に巻き付けた形のままだった。
モムルの姿を模した石像の近くに、オトの石像もあった。
「これは何の真似じゃ……っ!」
「ですから、大いなる海の御許へと勤めを果たすため向かわれたのです」
「そのような、そのような勝手がまかり通ると思うてか!」
我を忘れたような勢いでヘステスが激昂している。
まだ数ヶ月ほどの付き合いでしかなかったが、彼がこれほどまでに取り乱す姿をファンエーマは知らない。
そのヘステスと自分の他に、仲間たちの姿はない。
二人分の服、テレミアが腰に帯びていた突剣、そしてラズエイダが船から持ち出した紙束が、机の上に静置されていた。
「───イダ様?」
背筋に走る寒気に衝き動かされるように、ファンエーマは己の主君の姿を探した。
ついさっきまで、確かに、身を投げ出せば庇える場所にいたはずだったラズエイダは、忽ちの内に消え去ってしまっていた。
自分と同じ白い髪の、自分と比べれば少し背の低い主君の姿を、家の隅々まで探して回った。
何度も頼ってもらった自慢の耳を澄ませ、聞き慣れた足音を探した。
いつしか血の臭いを覚えてしまった敏感な鼻を利かせ、親しんだ香りを探した。
「イダ、様?」
気配すら感じられない。
そのとき、ヘステスの横から男が一人進み出てきた。彼の手には、光を透かす不思議な見た目をした白い棒が握られていた。
男はその白い棒を、何を思ったかモムルの姿を模した石像に寄せて、すっ、と差し込んだ。半透明の棒は、硬い表面を持つはずの石像の中へと簡単に沈んでいった。
直後、棒が淡い光を放った。
モムルの像にヒビが走り、ゆで卵の殻が剥かれるようにぽろぽろと表面だけ崩れて、破片は塵と化して消えていく。
中から、ファンエーマもよく知っている黒い肌が姿を現した。
「……うん?」
血の色を取り戻した唇から零れたのは、紛れもない、モムルの声だった。
「吐け、今すぐに、二人をどこにやったのかを吐くのじゃ!」
ヘステスの怒声が響く。
「大いなる海の御許に」
「ふざけたことを抜かすでないわ!!」
それで、ファンエーマは全てを理解した。
この島の人々は、邪魔な四人を石に変え無力化した間に、テレミアとラズエイダを連れ去ったのだ。「大いなる海の御許」へと。
命に代えても守り抜くと誓った宝石は、もうこの手が届く場所にはいない。
「あ、あ、アァァア……ッ!!」
喉から絞り出された声は、まるで獣の吠え声かのように歪んでいた。
気づけば、ファンエーマは近くにうち捨てられていた槍を手に取っていた。
気づけば、ファンエーマは固く固く握りしめた槍を振りかぶっていた。
「貴様らあアッ!!」
突き出した槍が老女の身体に届くよりも先に、ヘステスが手を伸ばした。
「『出でよ氷壁』!」
ファンエーマは構わず槍を振り抜いた。
パリン、と音を立てて氷の盾は砕け散った。
しかし勢いを削がれた槍では、老女の胸骨を貫くには至らない。
崩れ落ちた老女にとどめを刺すため、ファンエーマはしなびた身体を槍で地面に縫い付けた。
「『飛べ氷杭』!」
力を込めようとした右手を、氷の杭が貫いた。
気を失いたくなるほどの痛みの辛さは、滾る怒りの前では大海の中の一滴の雫にも満たなかった。
残った左手を槍に添え、老女の身体に向けて力を込める。
めりめりと肉を破る感触が伝わる。
「『魔闘・天衣』───止めんかっ!」
「がッ」
顎を蹴り飛ばされて、ファンエーマの視界には星が散った。
「愚かな真似をするでないわ! 『治癒の力よ、この者の身を在るべき姿で形どれ、新たなる心臓、肺臓を与えよ』!」
テレミアとラズエイダを殺した、狂うほどに憎いはずの老女を、ヘステスは必死になって治療している。
「どう、して、ですか……!」
ぐらぐらと揺れ動く世界の中、ファンエーマはなんとか疑問を言葉にした。
「手がかりを吐かせるために決まっておるじゃろう、阿呆!」
おびただしい量の血が、ヘステスの纏う白布を真っ赤に汚していく。
「ファンエーマ、一つ答えよ」
「はい……っ」
立っていることもままならない状態で、ファンエーマは必死に意識を保った。
老女の傷を必死に癒やしながら、ヘステスはファンエーマに問う。
「首輪はまだ生きておるな?」
「───!」
ファンエーマは左手を首に伸ばした。
そこには、あの忌々しい奴隷商に嵌められた隷属の首輪が収まっている。
隷属の首輪は、主人と奴隷の間に魔素的な繋がりを形成する。
奴隷契約が破棄されるか、主人が死なない限り、その繋がりが途切れることはない。
ファンエーマは必死に、主人と自分をつなぐものを探した。
確かに、テレミアの気配をどこかに感じることができた。
「生きて、います……!」
「ならばよい。しばらく黙っておれ」
ぴしゃりと叩きつけたヘステスは、ファンエーマから完全に意識を切り離したようだった。
安堵に胸を包まれた瞬間に、ファンエーマの頭を痛みが灼いた。
力なく地面に倒れ伏し、目を閉じる。
すぐに、音も匂いも気配も、何も分からなくなった。
鈍い頭痛と共に、ファンエーマは意識を取り戻した。
「……っ、うう」
身を起こそうとして、頭痛にそれを阻まれる。
喉から苦悶の声が漏れた。
頬を柔らかい何かが覆って、動くに動けないでいたファンエーマのことをそっと押し返した。
「ファンエーマ、落ち着いて」
涼やかな声が耳元で囁く。
「オト、様……?」
「いいから」
頬に触れる手の柔らかさに促されるまま、ファンエーマは身体から力を抜いた。
ふに、と後頭部に触れる温かい感触は、オトの太ももなのだろう。
「頭を揺らされたって聞いた。動いたらだめ」
そうだ、ヘステスに顎を蹴られたのだった。
何があったのかを順に思い出していく。
「……どれほどの間、私は気を失っていたのですか」
「分からないけど、私が目を覚ましてからそんなに時間は経ってない。小指くらいの蝋燭も燃え尽きないと思う」
「そうですか」
「だから、まだ頭は治ってない。動かないで」
優しい声に諭されながら、ファンエーマはヘステスの姿を探した。
仮に彼が望んでいたとおりに事が進んでいるのなら、今頃老女を相手に質問を浴びせ続けているはずだった。
「ヘステス様はどちらに?」
「隣の部屋。あのお婆さんが目を覚まさないから、ちゃんとした寝台に寝かせに行った」
そう聞いて、ファンエーマの心は深く沈んだ。
「……私のせい、なのでしょうね……」
しばらくオトは答えなかった。
何度か息を吸う音がしたのは、喉まで出かかった言葉を飲み込み、また選び直しては飲み込みを繰り返していたからなのだろう。
「……きっと、私もそうした」
ようやく生み出された短い慰めと共に、小さな手がファンエーマの頭を撫でていった。




