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迷宮世界のオデュッセイア  作者: 諭吉
四章 燃ゆる槍と燻る弓
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93. 果てのないむなしさ

 日が暮れた頃に、ヘステスとモムルが目を覚ました老女を連れて戻ってきた。

 懸命な治療の甲斐あって、老女の立ち姿は怪我をする前よりもしっかりしているように見えた。曲がっていたはずの腰も、いくらかまっすぐに伸びているだろうか。


 モムルが寝転がるファンエーマを一瞥して、すぐに興味を失ったように視線を逸らした。

 隣のヘステスはまっすぐにファンエーマに近づいてきた。


「起きたな」

「……はい」

「どうやらおぬしに対して腹を立てておる者はおらんらしい。この島では人殺しは罪に問われないようじゃ。相変わらず気味悪いことじゃが、こればかりは運が良かったの」


 そう言いながら、ヘステスは膝を折り、オトの前で横たわるファンエーマの両目をのぞき込んだ。瞼を吊り上げて、おそらく瞳孔を観察している。

 やがて満足したのか、ぽん、と肩に手を置いてヘステスは立ち上がった。


「頭の治療はしばらく待っておれ。魔導を使いすぎた」


 不平を口にする訳にもいかず、ファンエーマは黙って頷いた。

 頭の芯に鈍い痛みが走った。


 まだらに赤く染まった白布を纏ったまま、ヘステスは老女の前に立った。


「では改めて問おう。テレミアとラズエイダはどこじゃ」


 老女は微笑みを浮かべた。


「大いなる海の御許に」

「それはもう飽きるほど聞いた。海の、どこにやったのかを聞いておる」


 微笑みを崩さないまま、老女は「でしたら」と答え始めた。


「〈界渦〉の底、と申し上げることができましょうか」

「何故に」

「〈ケカシェ〉としての務めを果たすためにございます」


 ヘステスは、ふぅぅ、と細く長く息を吐いた。

 怒りを押し殺そうとしているのが傍目にもよく分かった。


「その務めとは何か、ケカシェとは如何なる存在であるのか、洗いざらい説明するのじゃ」

「とても長くなりましょう。構いませんか」

「構わん。全て聞かせよ」


 ヘステスが老女を促し、老女は鷹揚に頷いた。


「かつて、海は海と呼ばれてはおりませんでした───」



かつて海は海ではなかった。

大陸と呼ばれるその地には、絶え間ない争いだけがあった。


人々の流した血は森を赤く染め、怨嗟の言葉は土を枯らし、苦しみの叫びは清水を毒に冒した。



かつて海は海ではなかった。

海という偉大な名前で呼ばれることはなく、ただそこに在るだけの大きな水の塊だった。


己が何者かであることすら知らず、誰の望みも叶えず、静かな殻の中に閉じこもっていた。



人々が大陸を穢し尽くした末に、あるとき、深い深い穴が空いた。

それは人が犯した罪の印だった。


空いた穴の奥底には、水の塊があった。

静かな殻に突然空いた穴から光が差し込み、海は自分が何者であるのかを知った。


海は、無色だったはずの自分が赤く染まり始めていることに気づいた。

海は初めて人の怒りを知った。

海は初めて人の叫びを聞いた。


海はそれをひどく悲しんだ。


海は殻の外に出ることを決意した。



海は人々が争わないよう、人の手から地を少しずつ切り取った。

地を奪い合うのが争いなのだから、地がなければ争いは起こらない。


大陸は広大だった。

海はかつてすみかにしていた殻を完全に脱して、ようやく大陸の全てを覆うことができた。


人は残された小さな島の中で、互いをたたえ合って生きることを覚えた。

争いは消え去ったのだ!




ところが、人は強欲だった。


海によって隔てられたなら、船をつくればいいのだ、と誰かが思いついた。


船を作った人は、次に隣の島に攻め込んだ。

隣の島を滅ぼしたなら、また隣の島へと攻め込んだ。


やがて、船を持つ人同士での争いが始まった。

海の上は、絶え間ない争いで満たされてしまった。


人々の流した血は海を醜く濁らせ、苦しみの涙は清水を塩に冒した。


そして、人々が海を穢し尽くした末に、ついに海の底に穴が空いた。


かつて水が満ちていたその奥には、今はもう何も残っていない。

海はなすすべもなく、穴の奥、無の世界へと引きずり込まれた。


海は数少ない平和を愛する人に助けを求めた。

どうか我が身を引きずり込む穴を塞いで欲しい。


人は答えた。

人の怒りによって空く穴は、人の愛によって埋まるのでしょう。



ある夫婦が、穴に通じる渦に身を投げた。

すると見事に穴は塞がり、海は平穏を取り戻したかに見えた。


海の底で、人は生きられない。

すぐに愛は夫婦の命と共に消え失せ、二人の死にゆく苦しみが、海の底にさらに大きな穴を開けた。


海は水の中でも人が生きていられるような技を捜し求めた。



ついに見つけたのが、隣り合う二つの島に生きる人々だった。

隣り合う二つの島には、互いを攻め滅ぼすことを望まない、和を知る人々が住んでいた。


そして何よりも大切なことに、彼らは死を打ち消すための方法を知っていた。


海は彼らに頼み込んだ。

どうか我が身を引きずり込む穴を塞ぎ、我が身を現世に封じて欲しい。


島の人々は答えた。

大いなる海よ、あなたの頼みであるのなら、叶えて見せましょう。


一組の互いを愛する男女が選ばれ、石となって永遠の命を手に入れ、穴に通じる渦に身を投げた。

見事に穴は塞がり、そして再び開くことはなかった。



大いなる海の喜びを自らの喜びとした封海の民は、大いなる海に安寧を約束した。

感銘を受けた大いなる海は封海の民に恵みをもたらし、未来永劫の繁栄を約束した。


大いなる海と封海の民は、それから互いを支え合って生きている。



「───絶えない争いによって、今でも時折無の世界と我ら人の世界を隔てる壁には大きな穴が開き、大いなる海を闇の奥底へと引き込もうとします。それを塞ぐために、大いなる海は互いを愛し合う二人を選び、我ら封海の民に託すのです」


 長い物語が結びを迎えた。

 ヘステスは長く息を吐いて、落ち着き払った声色で尋ねた。


「それが〈ケカシェ〉、というわけじゃな」

「はい。大いなる海の中で永遠に互いを愛し、互いを愛することで大いなる海を永遠に護り続ける、誉れある任でございます」


 ───誉れも何もあったものか。結局、イダ様は何も知らないままに殺されたも同然ではないか。


 ファンエーマは己の身を冒す黒い衝動を必死に抑えつけながら、恍惚とした表情の老女をにらみ付けた。


「……つまり、テレミアとラズエイダは、お主らが〈界渦〉と呼ぶ大渦に、石像と化した姿で放り込まれたのじゃな」

「はい。まだ渦は収まっておりませんが、おそらくは二、三日のうちに綺麗に消え去るのでしょう。百二十年ほど前に生まれた〈界渦〉も、〈ケカシェ〉が大いなる海の御許に向かわれてより数日ほどで無くなったのだと聞き及んでおります」


 微妙にずれた答えを返す老女の言葉に、罪悪感らしい感情は一切感じられない。


「皆様には、お約束通りに船を差し上げましょう。皆様が乗るような船とは比べようもない小船ではございますが、〈ケカシェ〉が穴を塞ぐことで、大いなる海は安寧を取り戻します。その最中(さなか)を進めば、大いなる海の怒りを買うことなく別の島へと無事に渡ることも叶いましょう」

「ラズエイダがお主と約束したのは、六人全員が無事に島を出ること、であったはずじゃ。いかにしてお主らはテレミアとラズエイダを海の底から救い出すつもりか」


 問われた老女は、こてん、と首をかしげた。


「既に〈ケカシェ〉のお二人は()()()()()()()()()()()()()()()()()()。救う、とは何を意味するのでしょうか?」


 老女が言い切るとほぼ同時に、がん、と凄まじい音がした。

 モムルが傍らの机を殴りつけた音だった。

 彼の腕には、血管がまるで這い回るミミズのように浮き上がっている。


 それが何を意味するのか、ファンエーマに分からないはずもなかった。


「……なあ、爺さん」

「何じゃ」

「この島では、人殺しは罪に問われないつったな」

「確かにそう聞いた。石の姿となれば永劫に生き続けられるから、という理屈らしい」

「確認なんだが、聞きたいことは大体聞いたな」

「うむ。これ以上深掘りしようと、ただ胸糞悪くなる一方じゃろう」

「なら、()()()()んだよな?」


 モムルはゆらりと立ち上がった。


「難しいやもしれんが、一発で終わらせるのじゃぞ。痛みに叫ばれては余計な面倒を生みかねん」

「はっ、嫌だね」


 ヘステスの注意を聞いたモムルは、乾いた声でそれを笑い飛ばした。


「喉か肺を潰せば良いだろ」

「……成程、その通りじゃ」


 モムルは矢筒に手を伸ばし、短矢を手に握った。

 そして、ボウガンにつがえることなく、腕の力だけで鏃を老女の喉に突き込んだ。


 真っ赤な噴水が吹き出る。

 老女の目は大きく見開かれて、今にも顔から眼球が飛び出そうだ。


 痛みにバタバタと足掻こうとするその身体を力ずくで抑え込み、モムルは何度も、何度も、滾る怒りを刻み込むように、鏃を老女の身体に突き刺す。


 その光景は、ファンエーマの身体を隅々まで満たしていたどす黒い渇望を、至上の鮮やかさで満たしていった。

 渇望が満たされた後には、果てのないむなしさだけが残った。



 やがて力を失った老女の身体を地面に横たえたモムルは、隣で待っていたヘステスに何か合図を送った。

 するとヘステスは老女の懐を探り、黒い棒を取り出した。


「目を閉じておれ」


 指示に素直に従い、目を閉じる。すぐに「もう良い」と続けられたので、目を開け、顔を上げる。


 ヘステスが冷たい目で見下ろす先には、真っ赤な衣を纏った老女の石像が転がっていた。


「……さて、この場を離れるとするかの」


 手の中で白い光に溶けていく黒い棒を放り捨てて、ヘステスが言った。


「邪魔の入らぬ場所で考えをまとめねばならん」

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