89. 漂着
だんだんと島に近づくにつれ、その全景が鮮明に捉えられるようになってきた。
二つ並んだ島はどちらも高い山を持たず平坦で、双方に集落がある。森を切り開いて作ったらしい畑に囲まれた家々からは、炊事の煙がいくつか上がっている。建物の背丈はどれも低く、平屋ばかりが並んでいる。屋根は瓦ではなく、何かの植物で葺かれているらしい。少し探してみても、大規模な工場や船の工房は見当たらない。
族長屋敷に相当する大きな区画がないくらいで、ニラギで見た花の島の風景がテレミアの知る中だと最も近いだろうか。ルーダラムに近い場所にある島としては不思議なほどに、細々とした暮らしを送っているようだった。
やがて足が水底に着くようになり、腰ほどの水深になり、水の中を歩くような形になり、そして波が足を洗うようになった。もう大丈夫だろうとテレミアとラズエイダは変身を解き、二人に分かれた。
復元されたあれこれの持ち物を各人に配り、一つ息を吐く。
「ご苦労じゃった」
同じく人間に戻ったヘステスのねぎらいがかかった。
「ううん、苦労なんてしてないよ。本当に魚みたいに自由に泳げたし、楽しかったくらい」
老いた身体ではきっとぬかるむ海岸を歩くのに苦労するだろう、とテレミアは背中を押してやりながら、思っていたことをしみじみと言葉にした。
「すごい魔導だと思うよ。なんで使いたくなかったの?」
「……空を飛ぶ方がよほど気楽じゃて」
ヘステスは疲れた表情で肩をすくめてから、少し遠くに見える集落の方を眺めた。
「さて、どうにも妙な島にたどり着いたものじゃの。前時代的、と言えば良いであろうか」
「流石に港町くらいはあるでしょ。見た感じ島のこっち側にはなかったし、反対側にあるんじゃないかな」
「そうであろうな。この辺りの海は船を着けるには適さない遠浅じゃ」
「とりあえず誰でも良いから捕まえて話を聞けばいいかな……ええと、すみませーん!」
テレミアは辺りを見回し、海の近くにいた人影に向かって叫んだ。背中に籠を背負って藪の中にかがんでいるから、茸か山菜でも採っているのだろう。白い衣に長い髪を後ろに束ねている。どうやら女のようだ。年は三十を超えていない程度だろうか。
声を聞いて振り返ったその人物は、海からずぶ濡れになって上がってくる六人を見つけて目を丸くした。
「どうなさったのですか!」
そのまま彼女は靴が汚れるのも構わず海の近くまで駆け寄ってきた。
テレミアは苦笑いで彼女のことを制しながら、ヘステスを固い地面まで押し上げた。
「近くで船が大きな渦に飲まれて難破しちゃって……なんとかここまで泳いできたんですよ」
「! ……大いなる海の御意思は、時に私たちを私たちの身に余る力で導くものです」
不思議な言葉遣いで同情らしき感情を表明した女は、そっと胸に手を当てた。
「私の家にご滞在ください。しっかりと用意があります」
「え」
思わぬ展開にテレミアは面食らった。
確かに身体を休める場所が欲しいとは思っていたが、わざわざ人の家に滞在する理由はない。
「いやいや大丈夫です、お金は持ち出せたので町の方に連れてってもらえれば、あとは自分たちでなんとかします」
「どうかご遠慮なさらないでください。三組となると一部屋では足りないでしょうから……ええ、隣のエルマと三部屋を作りましょう。食事は魚でよろしいでしょうか、必要であれば貝や肉も用意しますが」
「ちょ、ちょっと」
想定外の返しに、慌ててテレミアは制止を図った。
「泊めてくれるって話かもしれませんけど、宿を紹介してくれればそれでいいんです。そこまで困り果てているわけじゃないので」
意図が伝わったことを祈りながら様子を窺う。
こてん、と女の首がかしげられた。
「やど、とは何ですか?」
「……え?」
さっきとは違う理由で面食らうことになったテレミアの前で、女は申し訳なさげに言葉を続けた。
「寡聞にして存じ上げないのですが、その、やど、というのが皆様の欲しいものなのでしょうか?」
しおらしい態度からして、おそらく嘘をついている様子ではない。彼女は本当に、「宿」という言葉を知らないのだろう。
「……客を泊める場所、って言ったら伝わりますか?」
女は少し考えた末に、「ああ」と表情をほころばせた。
「〈ケカシェ〉をもてなすために、私たちの家があります。それを皆様は「やど」と呼ぶのですね?」
今度はテレミアが首をかしげることになった。
「ケカ、え?」
「〈ケカシェ〉。皆様のうち誰かお二人を表す言葉です、ご存じありませんか?」
「そ、その……」
話がまるで通じる気配がない。
テレミアは助けを求めて周りを見回した。
視線の合ったヘステスが咳を払った。
「儂らは随分と北の方から旅をしてきた故、この辺りの風習には明るくないのじゃ。つまるところ、儂らは客人、お主らの言葉で〈ケカシェ〉ということになるのかの?」
「大いなる海の沙汰の下、〈界渦〉に運ばれ島に流れ着いた夫婦をそのように呼びます。私たち封海の民は皆、〈ケカシェ〉の来訪を迎えることを心待ちにして日々を生きております」
「待て待て、かいかとは何じゃ」
「大いなる海に時折現れる大渦のことでございます。皆様のおっしゃった渦とは船を沈めるほどのものであるのですから、〈界渦〉と呼ぶべきでしょう」
「……成程。次じゃ、儂らの中に夫婦の契りを結んだ間柄の者はおらぬぞ。〈ケカシェ〉とやらには当てはまらないのではあるまいか」
「包み隠す必要はございません、皆様は大いなる海の沙汰によってこの島に流れ着いたのです。大いなる海は皆様のうちどなたかお二人を夫婦としてお認めになっています」
「……儂らは夫婦ではなくともこの島で〈ケカシェ〉として扱われる、ということか」
「どなたが〈ケカシェ〉であられるのかを見いだすまでは、その通りでございます」
そこで女は深く頭を垂れた。
「大いなる海は私を〈ケカシェ〉の〈遇者〉としてお選びになりました。よって、私には皆様を丁重にもてなす義務があります。望むことがあればどうぞなんなりとお申し付けください、決して不自由はさせません」
「……つまるところ、この島に住まう民のしきたりとして、お主は〈ケカシェ〉たる儂らを世話するのじゃな」
「仰せの通りでございます」
「そうか」
ヘステスは短い了解を述べた。声色には肉体由来ではない疲れが色濃く滲んでいた。
女は顔を上げ、島の奥にテレミアたちを誘導する姿勢を取った。
挨拶が終わったという判断に達したのだろう。
「どうぞこちらへ。ご案内いたします」
奇妙な風習の島に流れ着いてしまったものだ。
そうは思いながらも「丁重にもてなす」と申し出てくれた相手を邪険に扱うことも考えにくく、テレミアはヘステスと目配せし合ってから女の示す方へと足を向けたのだった。
女はチェリと名乗り、獣道をかき分けて六人を先導しながら投げかけられるヘステスからの質問に丁寧に答えていった。
時折かみ合わなくなる会話に苦労しながらも、ヘステスはどうにかこの島に関する情報を拾い集めてつなぎ合わせていった。
どうやらこの双子島───二つ並んだ島をそれぞれ黒島、白島と呼ぶらしい───には、宿はおろか、港らしい港がない。封海の民を自称する人々は外の世界とは全く独立して暮らしており、時折こうして渦に揉まれた人間が〈ケカシェ〉として流れ着く他には一切の交流を持たないらしい。
島々を巡る人々の存在を知らないわけではないのにどうして閉じこもっているのか、と問われたチェリは、一切の陰りのない微笑みを浮かべ
「大いなる海の御意思に逆らう必要がありますか?」
と答えた。
この「大いなる海」という概念について、テレミアはおろかヘステスすらも、未だに何を意味するのか掴みかねていた。
チェリの発言の節々から垣間見える封海の民の暮らしは、どうにも海の意思という得体の知れない何かにただ盲目的に従うものであるように思われた。
海はただの水溜まりに過ぎないのだから、意思を持つことはないはずだ。何か比喩的な表現なのか、とヘステスが問いただしても、答えは的を射ないものに終始した。
「大いなる海を信じる限り、未来永劫の繁栄が約束されます」
「大いなる海の怒りは、私たちの怒りとなります」
「大いなる海の喜びは、私たちの喜びとなります」
「大いなる海に導かれることは、私たち封海の民が享ける唯一にして最大の幸福です」
「大いなる海」という架空の存在に自己決定の権利を完全に委ねる───そんな奇怪な理屈がチェリを満たしていることが、聞けば聞くほどにはっきりしていった。
ヘステスは途中から完全に興味本位で質問を積み重ね、やがて話題は島そのものに関するところから大きく逸脱し始めた。うんざりしたテレミアの顔を見たラズエイダがヘステスを静止することで、終わりのないようにも見えた問答は終結した。
「王権を海そのものに委譲する形を取る、人々が身分の上下を持たず平等な立場で治世にあたるような社会の設計なのではないか」というラズエイダが口にした解釈で、ひとまずヘステスは納得している。
それから少しして、チェリに率いられた六人は藪を抜け村と呼べるような場所にたどり着いた。
すぐにテレミアは自分たちに向けられるいくつもの視線を感じた。
ずぶ濡れのままで歩いている姿が目に留まるのだろうか───と最初は考えていたテレミアだったが、村の中を歩くうちにそれとは異なる理由が浮き彫りになっていった。
人々は皆、完全に同じ格好をしていた。
チェリが着ているのと同じ、白い装束に黒い腰帯。男女問わず茶色の長い髪を後ろにしているところまで一致していた。
そんな中に突如色とりどりの服を着た集団が現れたなら、目立ってしまうのも当然だろう。
モムルとファンエーマがテレミアを守るような立ち位置を取ってからは直接の視線を向けられることは少なくなったものの、四方八方から伸びてくる画一的な微笑みの中の遠慮ない視線は、決して小さくない居心地の悪さをテレミアに与えていた。
視線のない場所を探して顔をあちらこちらに向けていると、角を折れた先に石像が建っているのが見えた。
遠目に見ても驚くほどに精巧な石像に興味を持ったテレミアは、チェリに一言断ってから道を逸れて近づいた。
「……なにこれ、すっごい……」
思わず声が漏れた。
テレミアの前に立つのは年老いた男性の裸像で、禿げかかった頭髪から足先の爪に至るまで、その精緻極まる質感はまるで生きた人間がそのまま石の姿に移り変わったかのようだった。
「大いなる海の御意思の下に定めを果たされた、偉大なお人です」
チェリの声がして、テレミアはそちらを振り返った。
歩み寄ってきた彼女はテレミアに微笑みかけてから、石像の足下に並んでいた貝殻を綺麗に整えた。
「これ、どうやって彫るんですか」
「彫るのではありません。この人が望まれたことです」
「……え?」
にこり、と微笑みを浮かべるだけで、チェリはテレミアの疑問には答えなかった。
「さて、元の道に戻りましょう。目指す場所はもうすぐです」




