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迷宮世界のオデュッセイア  作者: 諭吉
四章 燃ゆる槍と燻る弓
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88. 魚人

「……嘘でしょ?」


 聞き間違えたのかと思いながら、テレミアは訊き返した。


「信じらんねえとは思うが、マジだ。この船がえげつない揺れ方してんのは、水面があり得ねえほど傾いてるからってのもある」


 モムルは大真面目な声色を崩さないでいる。

 あまりにも荒唐無稽に思えたのでちらりとファンエーマの方を窺うも、どうやらファンエーマもモムルの言葉を否定する気配がない。


 そこでまた船が大きく傾いた。モムルは扉枠に体重を預けてそれをやり過ごし、全員が落ち着いた頃合いを見計らって「いいか、良く聞け」と語り始めた。


「陸付け用の小舟がいくつかあった。とっくに他の奴らが取り合ってるから、さっさと奪わねえと俺たちの分がなくなっちまう」


 脱出の算段を立ててきたらしいモムルは、割裂音が鳴り響く中で、「外に出るんだ、早く」と背後の扉を指した。


「いや、ちょっと待って」


 その大渦というのが真実であるのなら、小舟で脱出しようというのはかなり困難なことではないのか。


 疑問に思ったのはテレミアとラズエイダだけではなかったようで、制止されてモムルが黙った隙に「恐れながら」と別の声が割り込んだ。


「小舟であの渦を乗りこなすのは、あまりに危険すぎます」


 滅多なことでは自分から意見を発さないファンエーマが放った芯のある言葉は、モムルの額に青筋を浮かべた。


「ああ、そうだろうよ。んなことが俺に分からないとでも思ったか? 他に取れる手なんざないだろうが」


 モムルはドスの利いた声でファンエーマを圧した。

 馬鹿にされたと感じたのだろう、その態度には怒りと苛立ちが強く表れていた。


 しかし、にらみ付けられたファンエーマは大男の顔を気丈に見返した。


「まだこの船のマストは健在です、強い風を吹かし当てれば渦の外に出られる可能性があります」

「馬鹿言ってんじゃねえよ、お前も見ただろうが。この船はもうお終いなんだよ」

「しかし、ヘステス様と主様の風魔導は卓越したものです。渦に抗って船を押し戻すことを諦める必要はないでしょう」

「……チッ」


 舌打ちを盛大に響かせ、モムルは大きく息を吸う。


「マストに下手に力をかけてみろ、余計に船が壊れるに決まってるだろ! 竜骨が割れてるかも分かんねえのに風を当てる馬鹿がいるか!?」


 耳が痛くなるほどの大声に対して、ファンエーマは歯を食いしばった。


「この大渦の中に小舟で乗り出す方がよほど、ば、馬鹿と、言えるのではありませんか!」


 ファンエーマはとても言いにくそうに馬鹿と口にしてから、顔を赤くして声を張り上げた。


「私は自分の本分を忘れてはおりません! テレミア様、イダ様のお二人は、私どもを助けようとさえ思わなければご自身で空を飛んで生き残ることができるのです! それを、自分が助かりたいばかりに、わざわざ小舟で進み出るような危険な真似を強いるというのですか!」

「なっ」


 モムルの顔が凍り付いた。

 なおもファンエーマは畳みかけようとする。


 そのとき、

 

「『魔闘・召盾』」


 光の壁がモムルとファンエーマの狭間を埋めた。


「おぬしらが言い争って何になる。所詮儂らに頼らねば何も出来はしないというに」

「……!」

「っ」


 ヘステスの叱責は、口角泡を飛ばす二人から言葉を奪い去った。


「少し部屋を見回してみよ。ボウガンも槍も残っておらんじゃろう」


 光の壁が薄れて消える。

 モムルはファンエーマをにらみ付けてから、ファンエーマは恥ずかしそうに俯いてから、それぞれ船室を見回した。

 やがてヘステスの言うとおりに己の得物が見当たらないことを悟って、モムルが一つの帰結を導いた。


「……こいつらが()()()()のか」

「そうじゃ」


 当然、緊急時用の対処法は、モムルとファンエーマにも丁寧に説明してあるものだ。

 何故か二人が青肌姿になっていることと、己の得物が見当たらないことを繋げる説明に思い至るのは、さして難しくもなかっただろう。


「何のために儂はこの壁を破ったと思う? 何故儂はテレミアとラズエイダにおぬしらの武器もまとめて運ばせようとしていると思う? 全員で生き残れる策がなければ、このような無駄な真似はせん」


 静かになった二人にヘステスは厳しめの声色をぶつけて、そしておもむろにテレミアとラズエイダの方を向いた。


「テレミア、ラズエイダ、よく聞くのじゃ」


 察するに、これからの話が「策」の中身なのだろう。


 仕草だけで続きを促す。

 ヘステスは真剣な眼差しで語り始めた。


「海を自由に泳ぎ回るための魔導がある。遙か南の果てに棲む青龍の魔導じゃ。ちと詠唱が長い、聞き逃すでないぞ───『大海に御座す青龍よ、我が身を堅牢なる鱗、流麗なる尾鰭によって飾り賜え』」


 そう遠くない昔に耳にした、隠れた船を暴く魔導と似た詠唱だった。

 ヘステスが口を閉じた直後に、その身体に青い光のさざめきが走った。


 あれよあれよという間にさざめきは大きくなり、老人の輪郭を壊していく。

 壊れた輪郭の内側に青い光が入り込み、白と薄橙で作られていたはずのヘステスの肉体は水色に染まりながらぶくぶくと膨らんでいく。

 やがて光が薄れてなくなった後に現れたヘステスの身体は、まるで人間のものとは思えない異形の姿へと移り変わっていた。

 服の代わりに水色の鱗が全身を覆い、脊椎に沿って魚のものとしか思えないヒレが生えそろっている。腕と脚からは本来あるべき筋肉や骨格の形が失われ、とってつけたような歪な形にまとまっている。首に相当するくびれが消失した胸から頭にかけては、魚の頭をそのまま膨らませて人間の銅につなぎ合わせたような見た目をしている。

 悍ましい、と表現するのが最も簡単な、醜悪な姿の怪物がそこにいた。


「……」


 単色の魚眼がぎろりとテレミアとラズエイダの方を向いた。


「……魚、だな」


 どうにかラズエイダが絞り出した反応に対して、ヘステスだったものはゆらゆらと身体を揺らすことで返事としたようだった。


 その直後に、部屋の中に再び青い光が舞った。今度は水色の身体から飛び出していく向きに光は強まり、やがて青色のさざめきとなって空気に溶けていった。

 靄がかっていた空気の向こうから人間の姿に戻ったヘステスが現れた。


「……あまり好き好んで使いたい魔導ではないが、背に腹は代えられぬ。おぬしらにはこの魔導を使い、魚人に変身してもらう。呼吸を除けば海の中では自由自在に動ける故、足手まといを連れて渦を泳ぎ抜けることも十分叶うじゃろう」

「分かった」


 二人は神妙な面持ちで頷いた。


 それからヘステスはテキパキと今後の動き方を説明していった。


 テレミアとラズエイダの二人は、まず魚人に変身してから適当な服を着込む。人間の三人が掴む取っ掛かりとするためだ。そして同じく魚人となったヘステスと先に海に飛び込み、残りが海に飛び込むのを迎え入れる。一気に渦から泳ぎ出たら、後は辺りの島を探してそちらを目指すことになる。

 オト、モムル、ファンエーマが生き残るためには絶対にテレミアとラズエイダの着る服を手放してはいけないから、ラズエイダの練習のおかげで大量に余っている符紙を使い少しでも力を積み増しておく。

 どこかでヘステスは魔素切れによって魔導を維持できなくなるだろうから、それまでに陸地にたどり着けていることが望ましい。


「以上───何か質問はあるかの?」

「ヘステスが人間に戻ったとき、まだ陸地に着けてなかったら、どうするの」


 静かな声でオトが尋ねた。

 ヘステスはわざとらしく肩をすくめた。


「はてさて。儂には服を掴んでいつまでも引きずられていくだけの力など残っておらんじゃろうからの。皆の心意気次第じゃ。儂を見捨てなければ自分が死ぬ、と思うたなら儂のことを捨て置けば───」

「そんなことはしない」


 テレミアとラズエイダは強い意志を込めてヘステスの発言を遮った。

 ヘステスは「ふん」と鼻で笑った。


「おぬしらならそう言うじゃろうな。好きにせい、どう転んでもおぬしらは死なぬ。他には?」


 特に声が上がらないことを確認したヘステスは、おもむろに手を船の外壁の方に向けた。


「テレミア、ラズエイダ。先に壁に穴を開けるのじゃ。魚人に変身した後は人間の言葉を話せぬ故魔導が使えぬ。船の外までの通り道を確保してからことを進めるぞ」

「わかった」


 指示通りに二人は魔導を放つこととした。

 先程ヘステスが放ったような大きな氷の槍を想像する。


〈──〉


「『飛べ氷槍』」


 大きな破砕音と共に氷槍が遙か彼方へと飛んでいき、壁に大穴が空いた。


 その先に広がった光景に、テレミアとラズエイダは思わず息をのんだ。


 モムルが言っていた通り、船の何十倍ほどにも大きな渦が、何もかもを冷たい水の中へ引きずり込まんと大きな口を広げていた。

 船は既にすり鉢のように窪んだ海面の中腹ほどにまで落ち込んでしまっていた。渦が大きすぎることが幸いして逆に一時的な安定を得ているようだったが、海の藻屑となるまでにもう長い猶予は残っていないだろう。


「ヘステス、詠唱をもう一度教えてほしい」

「大海に御座す青龍よ、我が身を堅牢なる鱗、流麗なる尾鰭によって飾り賜え、じゃ。短縮が効くかは分からぬ、試したことがない」

「問題ない、覚えた」

(───テレミア)

(任せて)


 ラズエイダが思考の中に刻み込んだ文字の流れが溶けて消えてしまう前に、テレミアは想像を深め始めた。


 ヘステスが見せてくれたあの悍ましい異形の姿を強く思い浮かべ、自らの身体に重ね合わせる。

 荒れ狂う海の中を泳いで渡ることができる、強靱な肉体がこの身と成り代わることを強く思い浮かべる。


〈──〉


「『大海に御座す青龍よ、我が身を堅牢なる鱗、流麗なる尾鰭によって飾り賜え』」


 魔導の発動を示す四角の枠が半分に満たないほど埋まり、続いて二人は身体にくすぐったさを覚えた。

 初めは背中を中心にしていた妙なむず痒さは、すぐに全身に波及していった。

 二人は思わず身震いした。それは決して快いものではなかった。

 身体の芯が潰され捻られ捏ねられる、そんな息の詰まる感覚と共に、手脚が歪み、視界がぼやけながら広がっていく。


 しばらく我慢していると、何の前触れもなく唐突に、変化が終わったことが知覚された。

 自分の顔を見ることはできなかったが、動かない首をなんとか折り曲げて見た限りでは、先のヘステスと同じように奇妙な形の手脚が胴から生えていた。色はヘステスのものよりも青みが強いだろうか。


 満足に手脚を動かせない二人のため、ファンエーマが二人に服を羽織らせ、帯を硬く締めた。

 これで準備ができたことになる。

 二人は合図代わりに皆に目配せをしてから、海に向かって身を投げた。


 渦巻き、泡立つ水面がぐんぐんと近づいて、すぐにひっぱたかれるような痛みが全身に走った。

 なんとか息を吐かないままに堪えて、遠くなった水面を目指す。


 一つ脚を振ると、面白いように魚頭が水を切った。

 一つ手を搔くと、生きとし生けるものを飲み込まんと荒れ狂う海は二人にとってただの情景に成り下がった。

 見てくれこそ醜悪だったが、魔導の効果は素晴らしい物だった。


(……昨日の今日で魚になれちゃったなぁ)

(何の話だ?)

(オトと遊んだときに、「魚になりたい」みたいなことを言ったんだよね)


 周囲では恐ろしいほどの勢いで水が蠢いているというのに、二人には軽く雑談をするほどの余裕すらあった。


 水面に頭を突き出して、次に飛び込んでくるヘステスのために場所を空ける。

 すぐに水色の魚人が舞い落ちてきて水しぶきを上げた。

 その後に、オト、ファンエーマ、モムルの順で三人が船を飛び出してきた。

 ヘステスが水に揉まれる前に彼らを助けあげ、テレミアとラズエイダの纏う布を掴ませる。

 そして、人間三人と魚人二匹は傾く水面を勢いよく泳ぎ登り始めた。

 自由に身体を動かせていたときと比べれば多少の抵抗こそあったが、ヘステスの後押しも加えた推進力は渦巻く海水をかき分けるのに十分なものだった。


 必死に縋り付く三人が振り落とされないかどうか常に注意を振り向けながら、脚を振り、手で姿勢を整え続ける。

 だんだんと傾斜が緩み、水の流れが緩やかに変わっていく。


 やがて、身体を引き込む力が明確に弱まった。


(……もう大丈夫かな。よかった、みんな無事だ)

(後は三人の負担にならないようゆっくり泳げば良いだろう。近くに島もあるらしい)


 当然、テレミアも既にラズエイダが話題にしたその島には気づいていた。

 そう遠くない場所に、二つのこぶが並んで海面から突き出ていた。こぶとこぶの間には水面が広がっているようだから、双子島なのだろう。


 ほっと息を吐いた瞬間に、背後からバキバキという音がいくつも連なって響いてきた。

 渦の中を見ることはできずとも、船が完全に砕けてしまったのだろうと想像が付いた。

 海の上に小舟の姿はない。気の毒なことに、脱出を試みた勇敢な人々の乗る小舟は全て転覆してしまったらしい。船にはそれなりの腕を持つ風魔導士が乗っていたはずだが、荒れ狂う海の中で枯れ葉のような小舟を操ることなど到底叶わなかったのだろう。


(……ひどいね)

(僕達をおいて全員海の底、か。海は畏れすぎるくらいが丁度良いとはよく言ったものだな)

(こんなことになるなんて、いくら畏れたって想像もできなかっただろうけど)

(ああ。恐ろしい光景だった)


 思い出すだけで身体が震えるような恐怖が蘇る。

 二人は余計なことを考えないよう、ただ愚直に海をかき分け続けた。

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