87. 割裂音
ルーダラムまで七日間の船旅の、三日目の早朝。
何の前触れもなく、それは起こった。
突如寝台から弾き飛ばされて、テレミアは頭から床に叩きつけられた。
「っ、ぁ!?」
「っぐ、ぅうっ」
隣ではオトが同じように崩れている。肘を押さえていて、顔が歪んでいる。強く打ってしまったらしい。
ファンエーマは流石の身体能力で傷を負うことは免れたようだった。
「大丈夫───っ!?」
気遣う間もなく、再び船が大きく揺れた。
籠も毛布も、据え付けられていないものは何もかもが宙を舞い、客室は一瞬にして盗人に荒らされた後であるかのような有様となった。
テレミアとオトは床をあちらこちらに転がっては身体の各所を打ち付けた。
どうにか捕まる場所を見つけて手を伸ばす。
ギイギイと軋みをあげて、相変わらず船の揺れは止む気配がない。
「何、嵐!?」
「外を見てきます、お二人はここを動かないでください!」
床と壁とがその役目を絶え間なく入れ替えているようにすら思える惨状の中、ファンエーマはぐらつく足元を跳ねるようにして無視し、猫のような身のこなしで客室を飛び出していった。
「おいお前ら、生きてるか!?」
入れ替わるようにして、外からモムルが顔を突っ込んできた。
「なんと、かっ! モムル危ない、部屋入って!」
「いいか、動くんじゃねえぞ! ちゃんと捕まってろ!」
ファンエーマと同じ台詞だけを残して、モムルの顔はすぐに引っ込んでいった。
バリバリ、という音が船内に轟いたのはその直後のことだった。
「……今の、聞こえた?」
オトは信じたくないと言わんばかりの顔で頷いた。
木材の割裂音。
あらゆる船乗りが最も恐れる音だった。
雷鳴のようにも聞こえるこの音が聞こえた瞬間に、船の辿る運命は二つに定まる。
一つは、せいぜい船倉の一つか二つの積み荷を永久に失う程度の損害で済む奇跡的な生還劇。
もう一つは、海の底。
こちらがほとんどだ。なぜなら、
───バン、バリバリッ!
一度構造が崩れて脆くなった部分から、船はどんどんと壊れていく。
今のように外から大きな力が加わっているときは、尚更だ。
「ああもう、どうしよう!」
「……逃げるしかない」
「でも、二人はここを動くなって言ってたじゃん!」
「二人も拾って逃げるだけ」
「逃げるってどこに!?」
「ミアとラズエイダは空を飛べる、よね」
確かに、と一瞬頷きかけるも、すぐにテレミアは問題点に思い至った。
「全員は連れて飛べない、一人か二人だけ!」
「っ」
オトの顔はみるみるうちに青く染まっていった。
また船が大きく揺れた。扉の外からは船があげる叫びの他に、人々の怒号と悲鳴が次々に届き始めていた。
「『───』」
くぐもった声がしたと思った直後、壁から小さな氷の杭が突き出た。
すぐに氷杭は引き抜かれて、そこには隣り合う二つの客室をつなぐ穴だけが残った。
「聞こえておるか!」
「っ! うん!」
「今からこの壁を叩き壊す、離れておれ!」
穴を通じてヘステスが発した指示に従って、テレミアとオトは全力で壁面から距離をとった。
「離れたよ!」
「『飛べ氷槍、我が敵を貫け』」
合図を出すと、間髪入れずに氷魔導の詠唱が聞こえ、そして次の瞬間、もはや柱とも呼べるような太さの氷槍が木製の壁を粉々に砕いていった。
人間が余裕をもって通れるような大穴の向こうから、ヘステスとラズエイダが飛び込んできた。なぜか、ラズエイダは紙の束とモムルのボウガン、そして矢筒を腰に巻いた紐に吊していた。
「テレミア、すぐに用意するのじゃ。この船はもう保たん」
「───!」
ヘステスが渋い顔で告げた。
どうやってかは分からないが、船が沈む前に逃げ出そうというのだろう。
ラズエイダが老人の隣で腰に提げているのは、おそらく男部屋の方の貴重品だ。
即座にテレミアは見るも無惨な船室を見回し、失うことの許されない物品を探した。
オトが掘り出してくれた突剣カサノルを腰に差し、背中にファンエーマの槍を背負う。床を転がっていたディトリーデの身分証と財布、それにオトの小刀は上の服に挟み、最後にオトが手渡してきたドレッシュの住所を記した紙は、仕舞い場所を探した結果ラズエイダの持つ紙束に一緒に収めることになった。
「盾を出してくれ」
既に剣を手にしていたラズエイダに合わせるように、テレミアは盾を左手に生み出した。
伸ばした右手がラズエイダの左手と触れあう。いつものように意識が一瞬遠のいて、そしてラズエイダと一緒になって蘇った。
合わさる前に二人が抱えていた各種の武器や紙が跡形もなく消え去っているのを確認し、二人は安堵の息を吐いた。
青肌姿から素の二人に分かれるとき、金銀の光から復元されるのは二人の肉体だけではない。合わさる前に着ていた服なども、何事もなかったかのようにもとあった場所に現れる。
この現象を利用すれば、今のように身一つでの脱出を迫られるようなときにおいても、テレミアとラズエイダが死なない限りにおいて最低限の物品を持ち運ぶことができる。
こうした緊急時の対処法を確立できたのも、最近になって二人が積み重ねた青肌姿の検証の成果だった。復元に関する基準は「身につけていたかどうか」らしく、無理矢理にでも身体に吊り下げれば大体は復元の対象となってくれる。逆に、手に持っているだけではそもそも合わさるときに光に解けていかない。この非常に曖昧な判定が何を意味するのか、二人の中で結論は出ていない。
何はともあれ、これで準備が済んだとすると、次は実際にどうやって脱出するのかが問題になる。
ラズエイダの記憶を探っても、ヘステスが具体的な策を告げる場面は見当たらなかった。
「ヘステス、私たちどうやって───」
逃げるの、とヘステスに向けた質問を言い切るよりも先に、一つに繋がってしまった二つの船室の扉がほとんど同時に開け放たれた。
「おい、テレミア!」
「イダ様、ヘステス様!」
響いた二種類の焦った声がヘステスの開けた穴を介して交差し、中にいた四人の鼓膜を揺らした。
「入れ、早う」
「爺さん? なんでこっちにいるんだ」
いるはずのないヘステスに出迎えられたモムルは、狐につままれたような顔で大きな身体を部屋に押し込んだ。すぐに大穴を見つけたようで、モムルは頬を引き攣らせて「マジかよ」とかすれた声で呟いた。
隣の部屋からファンエーマも顔を出してきた。
「して、何が起こっておるのかは分かったのか?」
ヘステスがモムルに尋ねた。呆気にとられていたモムルは、「あ、ああそうだ」と再び元の焦りを顔いっぱいに浮かべるようになった。
「ええとだな、今この船は馬鹿デカい渦に飲まれてるんだ」
「渦、とな?」
モムルは大きく頷いた。
「ああ。それも、船の何十倍もデカい」




