86. この身は何のために
やがてテレミアが外の空気を吸いたいと主張して、三人は連れだって客室を出ることになった。
テレミアが先頭に立って扉を開ける。直後、彼女の身体は大きく震えた。
「んおおっ、びっくりしたぁ」
「何だよ、そんなに驚くことか?」
聞こえてくる会話から、何が起こったのかは大方想像が付いた。
「考えてみてよ。扉を開けるなりいかつい大男が目の前に突っ立ってるんだよ」
「……いかつい大男で悪かったな」
「あ、いや、文句があるわけじゃなくて」
「はぁ。ほら、どっか行くんだろ。着いてくぜ」
「……ありがと」
ようやくテレミアが扉を通り抜けたので、オトと二人で続いて廊下に出る。
少し先の甲板に向かう方に、テレミアとその半歩後ろを歩くモムルの姿があった。
モムルがとる立ち位置の意味は、彼と同じ護衛であるファンエーマにはよく分かる。
背後からの攻撃を警戒しているのだ。
モムルがテレミアに対する裏切りに関して何も知らないという前提を置くなら、モムルにとって長年の仲間であるオトは敵にはなり得ない。
だから、当然、モムルが意識を向ける相手はただ一人に定まる。
ファンエーマはできる限り規則的な足音を立てることを意識しながら歩いた。不必要にうるさくすることも、過度に気配を消すことも、きっとモムルには余計な情報となってしまうだろうと考えたからだ。
モムルが持つ護衛としての腕は、ファンエーマから見ても確かなものだった。
僅かな物音や殺気を敏感に感じ取り、何の躊躇いもなく主人の前に身体を投げ出すことができる。迷宮や船上ではボウガンを得物として扱うのに、直剣や短剣の扱いも一級品で、接近戦では身体の大きさを武器として活用する方法を知っている。
初めて出会い刃を交えたあの路地裏で、ファンエーマは暗所からの奇襲という完全な一方的有利を活かしきることができなかった。当時はラズエイダを殺されたと思い込み怒りに狂っていたから、殺気も気配もまるで隠せてはいなかったのかもしれない。それでも、あのとき突き出した槍には、間違いなく普段以上の鋭さが宿っていたはずだった。
それを短剣一本で見事に弾き、テレミアが体勢を整えるのに十分な時間を稼ぎきったのだ。その時点で、ファンエーマは完全に襲撃者としては敗北していた。
もしも状況が少しでも違っていたら、彼とは有意義な意見の交換ができる関係になれたのではないか、と思うことがある。
護衛として、年下の主君の幼い頃からの先導者として、どういった考え方を持っているのか。きっとモムルも様々な葛藤に直面し、乗り越え、あるいは見ないふりをして、生きてきたはずだった。その一端でも互いに見せ合うことができたなら、どれほど気が休まったことだろう。
それはあらゆる意味で無理なことだった。
とことん毛嫌いされている以上、自分からモムルに話しかけることはしたくなかった。
正面切っての暴力に手を出すほどモムルも愚かではないようだが、日々の言動や細かな局面での嫌がらせを数えれば枚挙に暇がない。いくら下手に出ても、差し出した手は全てはじき返されてしまった。
既にファンエーマはモムルとの和解を諦めていた。むき出しの敵意をぶつけてくる相手に対していつまでも融和的でいられるほど、ファンエーマは器用ではなかった。ただ静かに接点を持たないようにしていれば、無駄な感情を向けられることもない───そう学んでからは、モムルの意識の中に自分を置かないように気をつけながら日々を過ごすようになった。
それに、テレミアとラズエイダはオトを「テレミアの味方」として認めることにしたようだった。ヘステスも同じ認定を受けていることを踏まえれば、残る内通者の候補はモムルのみとなる。
無条件の警戒対象であるモムルに対して不用意に話をしてしまえば、テレミアにどのような不利益が降りかかるか分かったものではない。
とはいえ。
テレミアとラズエイダの予想通り、本当にモムルがテレミアではなくラグーダに忠誠を誓っているのだとすれば、モムルにはテレミアの敵だった存在を嫌う理由はないはずだ。敵の敵は味方、という言葉もある。
実際の事がそう単純ではないにしても、こうまで徹底的に「テレミアの敵を嫌う」演技を貫き通せるものだろうか?
……今のところ、この小さな疑念を表にするつもりはない。あまりにも主観的な思いだったし、無理をしてモムルを庇ってやる意味も感じなかった。
ふと、テレミアが振り返った。
ファンエーマはそれとなく顔を上げた。
一瞬だけ交わった視線は、明らかな申し訳なさに染まっていた。
「……モムル、そっちの部屋はどう? 狭くない?」
そしてテレミアは何事もなかったかのようにモムルとの会話に移っていった。
「狭いつっても仕方ねえだろ。二人用の寝台に三人で寝てんだ」
「ごめんねー、これで最後だからもうちょっと耐えて」
よどみなく紡がれる言葉の中に、彼女がモムルを疑っていると感じさせる要素は微塵も含まれていない。
嘘や演技に長けたテレミアは、ファンエーマから見てもラズエイダによく似ていた。
ラズエイダが王宮で生きていくために覚えなければならなかった芸当を、全く同じ理由で身につけたというのだから、それは当然そうに決まっている。
そして、似たところがあるテレミアだからこそ、心折られたラズエイダを立ち上がらせることができたのだろう、となんとなくファンエーマには分かっていた。
一度光を失った鳶色の目に輝きが戻ったのは、決して槍を握るこの手の力によるものではない。惨めな己と同じ運命を辿らないよう彼女の中に大切な決意を託せたから、後悔を情熱に変えて彼女に注ぎ込めたから、今のラズエイダがいるのだ。
ファンエーマにはそれがどうしても悔しかった。長い年月を共にしてきた自分には果たせなかったことを、出会ったばかりの存在、それも下賎な海賊の少女が果たしてしまったことが、どうしても悔しくて仕方がなかった。
それでも、ファンエーマは自分の感情を独りよがりにひけらかすことはしない。主君の槍に余計な思いは必要ない。
ファンエーマはその日も、日が暮れるまでテレミアの近くで密かに気を張っていた。テレミアを孤立させないようにするのが、今のファンエーマに託された仕事だった。
聞き慣れた足音が近くに寄ってきたのを感じて、ファンエーマは振り返った。
ラズエイダは「ご苦労」とファンエーマを労ってから、少し辺りを見回した。
「テレミアは?」
「あちらにいらっしゃいます」
ファンエーマは炊事場で水瓶に溜められた水を飲むテレミアを指した。
「すぐにお戻りになるかと」
「いや、迎えに行こう」
ラズエイダが歩き出したので、ファンエーマも主君についてテレミアの方へと向かった。
テレミアの方もラズエイダに気づいたようで、小走りで駆け寄ってきた。その後ろからは大きな歩幅でモムルがついてくる。
「今日の講義は終わり?」
「つい先程終わったところだ。お前達の部屋を探してもオトしかいなかったから、直接探しに来た」
「ごめんごめん、ちょうど水が飲みたくなってさ。ヘステスがあんたにかかりっきりだからここに来るしかなくって」
「苦労をかけたな。汲み置きの水はあまり口にしたくないだろうに」
「まーね。ヘステスの魔導ってほんと便利。ヘステスが三人いればいいのに」
「小言が三倍続くのだろうな」
「……なし。ヘステスは一人でいいや」
「はは、私もそちらの方がいい」
ラズエイダは朗らかに笑って、テレミアを客室の方に誘った。
「さて、今日の分の話をしよう」
「はいはい」
ラズエイダの言葉に込められた意味は、「青肌の姿となり、誰にも盗み聞かれない状態で考えをすり合わせよう」だ。他人に怪しまれることのないよう、適度に表現を濁してある。
テレミアもそのつもりだったのだろう、迷うことなく二人は共通の目的地に向かって歩き始めていた。
ラズエイダとテレミアがそれぞれの護衛を背後に残し、肩を並べて歩く姿を見て、ファンエーマは思う。
かつて、イダ様がまだ「第五王子」と呼ばれていた頃に、こうやって何の屈託もなく話すことのできる相手はいたのだろうか。
私たちは、何かを間違えていたのだろうか。
昔、ラズエイダの下には護衛である自分がいて、師であるフジュロがいて、戦友であるシキがいて、世話役であるレーバがいて、参謀役であるウィラルがいた。
皆それぞれ、ラズエイダという大切な主君のために働くことを信じて疑っていなかった。
ラズエイダはどこまでも「主君」だった。
今、ラズエイダの隣には、ラズエイダの主人であるテレミアがいる。ラズエイダは、「テレミアの奴隷」という定義によって、テレミアのために働く身分に収まっている。
ラズエイダは何の躊躇もなく、テレミアを助けるために毎日毎夜魔導の修練を続けている。手製の魔導具は、気づけばテレミアの戦いを確かに支えるようになった。
ただ一人の人間であるかのように扱われることを、ラズエイダは何の躊躇もなく受け入れている。仮にも王子という貴い身分であるのに、テレミアとはまるで平民同士の知り合いであるかのように、気安く言葉を交わし合っている。
主君の隣を歩くテレミアの後ろ姿を見ていて、ファンエーマは思う。
私は、どうしてああなれなかったのだろうか。
どうして、笑顔のイダ様の隣を歩くのは、私ではないのだろうか。
主君の槍であるこの身の居場所は主君の差配のままなのだから、無駄なことで悩む必要はないというのに。
苦悩を捨て切ることができないでいる。
少し後、ファンエーマの姿は船首楼の中にあった。
海賊などの襲撃に抗うために魔導士が詰めることを想定して置かれているその場所は、平時の今はただの広い部屋でしかなかった。
ファンエーマは拝借してきた箒を右手に構え、腰を落とした。
「しっ」
突き。
「っ、はっ」
突き、払い。
「しっ───ふっ」
引き戻し、反転、突き。
アルタスの槍道場に飛び入りで参加した頃に叩き込んでもらった演舞の型を何度もなぞりながら、ファンエーマはがむしゃらに身を疲弊させようとしていた。
くるり、と身体を回すと、いい加減に見慣れてきた白色の髪が視界を舞った。
「姉だと言い張れるくらいにはしておけ」というテレミアの意向によって主君と同じ色に染められた自分の髪を、ファンエーマは嫌うことができていなかった。
黒から染め変えられた、と思うとあれほど陰鬱な気分になるのに、何の取り柄もない茶色から揃いの色に染めた、と思うとどうしても浮ついた気分になる。
実際にラズエイダと姉弟の関係だと偽ったことも何度かあった。口にするのもおこがましいはずの言葉は、どうしてだろうか、ファンエーマの心を奥ゆかしくくすぐった。
───また、こうして余計なことを考える。
ファンエーマは大きく息を吸って、もう何度目になるかもわからない演舞の舞い直しを始めた。
どんな不埒なことを考えていようと、今こうして身体を動かす限りにおいて、主君のために刃を研ぎ澄ましているという事実だけは揺るがない。
愛おしい幼君をいつまでも大切にするため、どんどんと大きくなっていく宝石をいつまでも見守っているため、絶え間ない危機に晒される主君をいつまでも穢させないため、ファンエーマは自分を磨き続けてきた。
必要だと思ったことは何でも身につけた。身の回りの世話の方法、適切な言葉の使い方、正しい宮廷作法。そして、雷魔導、槍。
手にした技と力でラズエイダを護り続けてきたという確たる自負が、ファンエーマの中にはあった。
新たな主人を得てしまった今、こうして鍛えることが純粋にラズエイダのためであるわけではないにしても、止めることは許されないし、止めようとも思わない。
なぜなら、この身はただただ主君のための槍なのだから。
がたん、と扉が開く音がした。
箒を握る汗ばむ手をそっと下ろし、音がした方をうかがい見る。
あまり顔を合わせたくない相手がそこにいた。
「……」
「……ちっ」
舌打ちと共に、一度船首楼に足を踏み入れようとしたモムルは元来た道を引き返していった。
一瞬だけ見えたその手には、不思議なことに、自分が握っているのと同じように箒が握られていた。




