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迷宮世界のオデュッセイア  作者: 諭吉
四章 燃ゆる槍と燻る弓
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85. 槍は主君のために振るうもの

 ぱちり、と瞼を開いた一呼吸後には、ファンエーマは寝台を後にして身支度に移る。

 窓のない安船室の中は日差しもランタンの明かりもない暗闇そのものだったが、よく利くファンエーマの目にとっては問題にならない。船の外壁面、木板の継ぎ目から差し込む僅かな光さえあれば十分だ。


 寝装束にしている薄手の衣を剥ぎ取るようにして脱ぎ去り、赤髪の主人に買い与えられた地味な色味の装束を身体にあてがう。腰に帯を巻き、手櫛で髪を整えて簡単に纏めれば、それで着替えは終わる。

 船の上では武器を帯びることは許されていないので、ファンエーマは部屋の壁に立てかけてある槍には触れずに、必要な道具だけを手に船室の外に出た。


 共用の水瓶の水を(たらい)に移して顔を洗い、水面の反射を頼りに格好を整えてから、ファンエーマは元の船室に戻ることはせず、隣の船室の扉を音を立てないようにそっと開いた。同じような構造の部屋の中に、三人の男が横並びで眠っている。

 金を節約するために男部屋と女部屋の二部屋だけを確保したので、必然的にヘステス、モムル、ラズエイダはこうして一つの寝台を分け合うことになっていた。


 貴い血をその身に宿して生まれたはずの主君は、今やこうして誰からも敬意など払われずにただ一人のヒトとして日々を生きている。アルタスの人々がこれを見たならきっと、口々に落ちぶれた”出来損ない”の姿を嘲るのだろう。

 ファンエーマは何も言わない。主君の槍に言葉は必要ない。


 開けた扉から中に踏み込むよりも先に、むくり、と黒い大男が身を起こした。

 他人の気配を感じ取り、真っ先に目を覚ますのはいつもモムルだ。


「おはようございます、モムル様」

「……」


 モムルは挨拶を無視してのそのそと立ち上がり、ファンエーマの立つ扉の方へと近寄ってきた。

 ファンエーマは何も言わず、静かにモムルの通る道を空けた。

 わざとらしく肩を威張らせて歩く大男のことを息を潜めてやり過ごす。

 入れ替わるように、ファンエーマは部屋に入り扉を閉めた。


「『(とも)せ』」


 客人向けに支給された点火用の魔導具を使いランタンに火を入れ、壁の留め具に引っかける。同じことを何度か繰り返せば、暗かった部屋はそれなりに明るくなった。


 書き物机の上に残された主君の持ち物に手を伸ばす。

 いつものように、ヘステスの講義をまとめ直した跡がある。

 文字で埋まった紙がきちんと記載の順に並んでいることを確認した後に、ファンエーマは傍らに置かれた大きな籠を開けた。ヘステスとラズエイダは少しうるさくしても目を覚まさないので、ガサゴソと籠の中に頑丈な糸で綴じられた紙束を探す。独特の手触りのあるそれを探り当て、取り出し、新たな数葉を重ね、丁寧に綴じ直す。作りっぱなしの魔導具の試作品は籠の中に片付け、最後に空いた机の上に三枚の白紙を並べておくのが、最近のラズエイダの注文だった。

 ペンとインク壺を文鎮代わりにして紙が散乱しないように整えれば、机の整理は完了する。


 衣や紙の擦れる音、そして揺れる空気が適度に眠りの深さを引き下げたことを期待しつつ、ファンエーマは次の行動に移る。


「おはようございます、ヘステス様、イダ様」


 枕元に立ち、二人に聞こえるようしっかりと声を張る。

 気だるげに老人が身じろぎする横で、ファンエーマの主君は、「んぅ」と声変わりを経て尚かわいげを残す声を発した。


「……ああ、ご苦労」

「お召し物の準備が出来ております。お着替えください」


 誘導に従って起き上がったラズエイダは、寝台から降りて無造作に腕を横に伸ばした。

 ファンエーマはテキパキと主君に服を着せて、そのまま髪の手入れに移った。


 今は白く短くなってしまった大切な髪を、きめ細かな櫛でとかす。寝癖が付きにくく、油を注さずともみずみずしいままという絹糸のようなそれは、もう十年以上も手入れを積み重ねたファンエーマの作品だ。



 親元から暴力的に引き剥がされて、幼心に「私は売られたんだ」と悟った後に出会った宝石のような存在が、今ファンエーマの手の中で心地よさそうに目を閉じるラズエイダだった。


「だぁれ?」

「……!!」


 初めて出会う召使いに戸惑いながらも伸ばされた、小さく、愛くるしい手。

 その仕草に荒んだ心を融かされた瞬間に、ファンエーマの人生はようやく幕を開けた。


 アルタスにおいて、建国の祖たる勇者アルタスが宿した黒い髪色は富と力の象徴とされる。それは王侯将相が皆こぞって黒髪の人間を血族に加えたがるほどで、ある意味では血筋以上に重要視されるものでもあった。ファンエーマが仕えることになった幼君の髪は、それまでに見たこともないほどに黒く、夜をそのままに(たた)えるかのような深みを帯びた色をしていた。

 離れへの幽閉という明らかに不遇な扱いを受けるラズエイダが、王宮の外への放逐という憂き目にあっていないのは、このためなのかもしれないとファンエーマは考えた。

 だから、ファンエーマが召使いの仕事として真っ先に覚えたのは、髪の手入れの仕方だった。

 この髪だけは、何があっても損なってはいけない。いつかこの御方が日の光を浴びる時が来るのなら、きっと計り知れない武器になる。ファンエーマはそう強く信じた。



 今、櫛を通す髪は、見るも無惨な白色に染まっている。あの頃の面影など何もない、下品に光を照り返す色味。

 染まりきっていない髪の根元が黒っぽくなっているのに気づいて、ファンエーマはその部分を愛おしむように撫でた。

 こうして毎朝髪をとかす度に、黒が最も美しかった、とファンエーマはつくづく思う。


「イダ様、髪の根元に色が滲んできております。お手すきの際に、ヘステス様に染髪をお頼みください」

「そうか、分かった。エマも忘れるなよ」

「承知しております」


 しかし、ファンエーマは自分の都合を押しつけることなどしない。主君の槍に余計な言葉は必要ない。



 ラズエイダの髪の手入れを終えた頃に、ヘステスがようやく身体を起こした。

 この後二人は並んで朝食を摂り、口をすすいでからすぐに講義を始める。


 ファンエーマは話し始めた二人の妨げにならないよう、そっと船室を辞した。


 女部屋に戻ろうとすると、扉のすぐ横にモムルがもたれかかって腕を組んでいた。

 何をしているのかは訊かずとも分かる。


「失礼します」


 ぎろり、と睨みつけられるも、ファンエーマは動じる素振りを見せることなく扉を開け、中に身を滑り込ませた。


 ラズエイダの世話をしている間に目を覚ましたらしいテレミアとオトが、寝台に並んで座り明るい声色で談笑している。

 一時的にテレミアをオトと二人きりにしてしまったが、やはり今回も彼女が息の根を止められることはなかったようだった。


「ファンエーマ、食べた?」


 オトが手に持った果物を掲げて訪ねてきた。

 ファンエーマは首を横に振り、「まだ朝は食べていません」と返した。


「ん」


 短く了承の返事をしてごそごそと足下の麻袋を漁ったオトは、ファンエーマに向けてよく熟れた林檎を差し出した。


「ありがとうございます、オト」

「ん」


 小さく微笑んだオトが、テレミアとは反対側の場所を手でぱんぱんとはたいた。

 座らないか、という意味なのだろう。


「失礼します」


 既に忍びの少女に対する警戒心をほとんど削がれ切っているファンエーマは、何も考えずにすとんと腰を下ろした。


「さっきの続きだけどさ、私は三日月を選ぶよ」

「次は……鳥か魚になれるとしたら、どちら?」

「魚かなぁ。最近空は飛べるようになったし」

「そうしたら……あなたは堂々として落ち着いた人間です。かたくなに心を閉ざすことはしません。一方で、本音や素顔を隠すことで、安心しようともしています……だって。合ってる?」

「……ま、まぁまぁ?」


 不思議な問答が何を意味しているのか気になって、ファンエーマはオトの手元をのぞき込んだ。沢山の矢印が書かれた紙が広げられている。


「こちらは何ですか?」

「詳解・心理診断。質問に答えると、その人の性格が丸わかり……らしい」

「オトが昨日港街で見かけて買っちゃったんだってさ。結構面白いよ」

「そうですか」


 似たようなものがアルタスの婦女子の間でも流行っていたな、となんとなく思い出す。

 無論、ファンエーマはそうした市井の流行にどっぷりと浸かることはできなかったが、たまの用事に街に降りれば流行り廃りくらいは耳に入ってくるものだった。


 彼女たちはラズエイダと同い年らしいから、まさにこういうものに興味惹かれる年頃なのだろう。


「ファンエーマも、やる?」

「折角ですから、お願いします」

「ええと───」


 いそいそと紙を広げ直したオトを微笑ましい気持ちで眺めながら、ファンエーマはオトの質問に答えていった。

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