77. 愚かな甘え
握った手をぶんぶんと力強く振った中将は、手を離し、そして何を思ったか客室の扉に向かって歩き出した。
「身分証を与えるとは言ったが、流石に最低限の手続きは取らねばならない。必要な道具を取ってくるから、少し待っていてくれ。どうか逃げようとはしないでくれたまえよ」
「分かりました。お待ちしてます」
返事を聞いた中将は扉に手をかけ、「おっと、忘れていた」とルカの首を取りに戻り、そして改めて扉を開けて出て行った。
足音が遠のいていって、やがて完全に聞こえなくなった。
テレミアは思い切り後ろに倒れ込んだ。
息を吐き出し、封じ込めていた笑いを解き放つ。
ひとしきり笑いきってから、ふう、とテレミアは息をついた。
「最高にツイてるね、私たち」
「ああ。……これ以上の戦果は望めなかっただろうな」
疲れたように右手で額を押さえるラズエイダは、そのままオトに向けて言葉を続けた。
「オト、助かった。お前がいなければ、おそらく私もテレミアも永遠にあの男の真意を掴めないままだっただろう」
「難しく考えすぎ。もっと肩の力を抜くべき」
「いや、全くもってその通りだった。今後は少し素直に相手の言葉を信じてみなければな……」
ラズエイダは乾いた声で言った。
まるでできの悪い子供を叱る親のような態度のオトは、その態度を保ったままに、寝台の上に転がるテレミアの顔をのぞき込んだ。
「ミアも同じ。人の言葉を信じて」
「いやぁ、そんなこと言ってられない場所で生きてきたからさ。ちょっと難しいかも」
「……ミア」
むくれた顔のオトに「ごめんって」と返しながら身体を起こす。
お叱りを受けて反省している空気を出すためには、せめて笑いを引っ込める必要がありそうだが、それは今のテレミアにはどうにも難しいことだった。
ふと、誰も口を開かない間が生まれた。
船の木材の軋む僅かな音、客室の壁に開けられた小さな明かり取りから届く波の音、そして三人の息づかい。
暖かい空気を感じ、それに浸っていたいと感じたテレミアがまた寝台に寝転がろうとしたときだった。
「オト、良い頃合いだ。時間が経ってしまったが、この前頼んだことを覚えているか?」
やおら立ち上がったラズエイダが、寝台に座ったままの二人と向き合うような場所に移動して、オトに言った。
オトははっとした顔になって、「覚えてる」と頷いた。
何だろうか、とぼんやり考えていると、少し考える素振りを見せてから、オトが身体ごとテレミアの方を向いた。
「ミア」
表情は真剣そのもので、何か大切なことを言おうとしているのだと簡単に悟ることができた。
「私は、ミアとずっと一緒にいるから。安心して」
そう言って、オトはテレミアの手を握ってきた。
暖かい感触がした。
なるほど、ラズエイダが私とオトを会わせたがっていたのは、こういう企み故だったらしい。
そう理解したテレミアは、この場に適した言葉を頭の中に探した。
「ありがとう、嬉しいな」
ぱあっ、とオトの表情が華やぐ。
そこに浮かんでいる純粋な気持ちを、汚したくはない。
それでも、言わなければならないことがある。
「……もし、私とはもうやってられないなって思ったら、迷わなくて良いからね。ほら、私といたらこれからずっと今日みたいに命がけの生活になっちゃうし。なんか上手く皇国の身分証も手に入ったから、きっとどこででもやっていけるはずだからさ」
ラズエイダが天を仰ぐのを視界の片隅に捉えながら、テレミアはオトに向かって微笑んだ。
「もし嫌になったら、いつでも言ってね」
「……私はそんなこと言わない」
テレミアに対してどこまでも忠実でいてくれるオトは、きっと誰が見ても理想の存在なのだろう。
だからこそ、テレミアは自分を戒める思いを強める。
「うん。でも、オトは私の言葉だけに従う駒じゃない。そのことは、忘れないでほしいんだ」
二度と仲間たちを駒として扱わない、という違えたくない決意が、テレミアの中にある揺るぎない覚悟だった。
きっとオトは「友達」という言葉に焦がれている。
最近の彼女の振る舞いやラズエイダの記憶を読み解く中で、テレミアはなんとなくそのことを理解していた。
カライアにいたときには、オトにとっての世界とはテレミアとモムルとヘステスの三人と自分自身だけから成るものだったはずだ。小さな世界には友達も何もなく、ただ「自分たち」「それ以外」の二つの区分があるだけだったのだろう。
それが、ファンエーマという存在を知り、ラズエイダという存在を知り、ドレッシュという存在を知り、外から大きく揺さぶられて、広がった。
引っ込み思案だったオトが「友達」という新しい世界の捉え方を手にできたのは、テレミアにとっても嬉しいことだった。オトがオトらしく生きる限り、これからもその世界は広がり続けていくに違いない。
今のテレミアはオトを友達として見ることができない。
かつて自分を裏切ったかもしれない相手を「友達」と定義し信頼することは、自分の命を守るためには避けなければならないことだった。
真意を暴くためにはどうすればいい、だとか、突然の攻撃に備えて二人きりにはならないでいよう、だとか、怪しんでいると悟られないように笑っておこう、だとか、常に一定の警戒を振り向けておく相手が、今のテレミアにとってのオトだった。
そうやって現実ばかりを見据えてしまう自分もまた嫌になる。
オトは誰が見ても、どう見ても、ただ友達を大切にしようとする一人の優しい人間だった。
その純粋な気持ちを上っ面に貼り付けた偽りの笑顔でしか返してあげられない私は、オトの友達であるに値しない。
ただ苦労と罪ばかりを押しつけて何も返せない私は、オトの友達であるに値しない。
ならば、この心に満ちる、決して友達にはなれないはずのオトを自分の側に留めておきたくなる衝動は何なのか。
考えれば、答えは一つだった。
オトはいつかまた互いを思い合える友達になれるかもしれない、近くにおいておくには都合の良い存在なのだ。
それはオトのことを、先を考えれば手放すには惜しい、貴重な駒として見ているのと何ら変わりない。
それどころか、ヘステスも、モムルも。
だから、テレミアは「一緒にいてね」と己の口から言いだすことは絶対にできなかった。
ただ自分の利己的な思いだけがそう言わせるのだと分かっていて、自分からそう願うことは、完全にテレミアの決意に反していた。
「私は、どうしても、オトに何にもあげられないし、そのくせオトからはいろんなものをもらおうとする駄目なやつだからさ。オトの良い友達になりたくても、なれないんだよ」
しばらく客室は静かなままだった。
ついさっきまでテレミアが感じていた暖かさは消え失せていた。あるのは物悲しい空気と、相変わらず鳴り止まない船の軋む音ばかりだった。
耐えきれなくなって、テレミアは重たい口を開いた。
「今まで、辛い思いばかりさせて、本当にごめんね。もし、オトが良いなら、許してくれたら嬉しいな」
「ミア!」
両肩に衝撃が走った。
オトは強い力でテレミアの身体を彼女の方に向けて、何度も何度も揺さぶった。
「私は怒ってなんかない! 辛いことは沢山あったけど、ミアのせいじゃない! ミアだって何度も辛い思いをしてきたことくらい、私も知ってる!」
一度も聞いたことのない大きな声で、オトは必死に言葉を投げかけてくる。
一言一言区切るたびに、肩を掴む小さな手に固く力が籠もってテレミアの中に伝播する。
「私はミアの友達だから、ミアと一緒ならいくらでも辛いことを頑張れるし、ミアの辛さを一緒に背負える、だから、絶対に!」
囚われたように見つめる先で深い青色の宝石が潤み、二筋の流れとなって頬を伝った。
「私と別れようなんて、思わないで……!」
それっきり、オトの声は意味を成さなくなった。
崩れるように胸に飛び込んできたオトの頭をかき抱きながら、テレミアはおどおどと彼女を泣き止ませようと手を動かした。しかし、オトが落ち着くことはなかった。
どうしよう、とあちらこちらに視線を泳がせた末に、ずっと静かに座っていたラズエイダと目が合った。
ラズエイダはテレミアに向けて表情だけで哀れみを表明して、そしてオトの背中にそっと手を乗せた。
「オト、覚えているか? ラグーダの館の地下牢で私達がお前を助けたときに、テレミアは「もう二度と辛い思いはさせない」と約束しただろう」
間髪入れず、胸の中でオトの頭が縦に動いた。
「お前が望むものを手に入れたとき、その約束は果たされないかもしれない。テレミアと共に在ることは、お前にとって終わりなき苦難の日々を意味するかもしれない。それでもいいのか?」
「だっで、ぁればなぇのほぅが、ずっど、づらい、からっ!」
「……よく言ってくれた」
ラズエイダはぽんぽんとオトの背中を叩いてから、同じ手でテレミアの額を小突いた。
「……っ」
「いいか、テレミア。お前の薄汚い過去も、共にさせられた苦難も、オトは初めから気になどしていない。オトはお前が駄目な人間だと思ったことすらない。オトがお前の中に見ているのは、テレミアという唯一無二の友達の姿、ただそれだけだ」
諭すようにラズエイダは語り、そこで一度ふぅと息を吐いた。
「いい加減、オトを信じてみたらどうだ。良いものだぞ、人を信じるというのは」
言葉に込められた実感が、テレミアにファンエーマの姿を思い起こさせた。
ラズエイダがファンエーマに対し感じているものは、当然テレミアも知っている。
不幸ばかりを振りまく自分に仕えさせる申し訳なさだ。
それでも、ラズエイダは彼女の献身を疑わないでいる。
どうしてかは分からずとも自分に尽くしてくれるのだから、何も与えられない自分だからこそ、せめてその思いだけは無条件に信じていよう、とラズエイダは心を決めている。
同じことだ、と言いたいのだろう。
オトが私といることを選んでくれるのだから、せめて私はオトが私を選んでくれることそれ自体を、盲目になって信じ込むのだ。
「……わかった」
「行動で示せ。今すぐに」
ラズエイダの命令に従って、テレミアの身体はぎこちなく動いた。
改めて頭を抱き寄せ、必要な言葉を探す。
「……えっと。い、一緒にいてください」
「……ん」
鼻をすすり上げる音に、細い声が続いた。
しばらく気詰まりな沈黙を自分への罰として受け入れていたときに、規則的な足音がテレミアの耳に届きはじめた。
その足音はやがて客室のほど近くで止まり、すぐに扉が開かれた。
「待たせたな……うん?」
中将は寝台の上のテレミアとオトを見て、次に椅子に座るラズエイダを見て、そして少し考えた後、
「喧嘩でもしたのか?」
と当たらずと雖も遠からずの一言を発した。
「あ、いえ、その、あまり気にしないでください」
テレミアはわたわたと手を振って弁解し、そっとオトを引き剥がした。
既に大分落ち着いていたオトは、強く抵抗することなく、元々座っていた位置に身体を戻して自分で座るようになった。
「そうか」
あまり気にしないでくれ、という願いに従い、中将は深入りをしないことを選んでくれたらしかった。




