72. 灰を裂く空
珍しく事務棟の中で眠らせてくれるらしい、と僅かに喜んだのもつかの間に、モムルともファンエーマともラズエイダとも隔離され、約束していたはずのオトも来ず、テレミアはただ一人で夜を明かすことになった。
ヘステスの訪問を呆けた顔で迎え、「酷い間抜け面じゃの」と顔を顰められたのがついさっきのことだった。
久々に手元に戻ってきた突剣カサノルの感触を確かめながら、急ぎ足のヘステスの後ろを追う。
ラズエイダを連れてやってきたヘステスは、テレミアをたたき起こした後、同じように閉じ込められていたモムルとファンエーマも魔導で探し当てて救出した。
その最中に見かけた郵便局員は皆、椅子や床に倒れて目を閉じていた。
「……殺したの?」
「眠っておるだけじゃ。黙っておれ、頭が痛む」
魔素切れの症状を堪えているのだろう、こめかみをギリギリと揉んでいるヘステスにそれ以上無理をさせるわけにもいかず、テレミアは口をつぐんだ。
不自然なほど静かな郵便局を出て、港の方へ歩き、桟橋を渡る。
ヘステスが一隻の小さな漁船を指さした。
上っ面こそよく整備されているものの、喫水線の下にはフジツボや藻がびっしりと張り付いていて、かなり年季の入った船であることが察せられる。
「儂らの船じゃ。乗れ」
モムルが真っ先に船へと渡り、ヘステスに手を伸ばした。
足取りのふらつくヘステスをモムルと二人で助けてから、テレミアは舫い綱を解いて動き出した船に飛び移った。
「『風よ』」
ラズエイダの風魔導が帆をはらませ、漁船はハーダーンの港を後にした。
「……爺さん、しんどいだろうが、何が起こったのか話してくれ。俺たちは何も分かっちゃいねえんだ」
島を出て少し落ち着いたと判断してか、モムルがぐったりと座り込むヘステスに尋ねた。
「事情は話した通りじゃ。ドレッシュが儂らを置いて島を出て、加えておぬしとテレミアの所在を皇国軍に通報した」
「……なんでまた突然そうなった」
「さて。儂が知るのはドレッシュの硬い表情ばかりじゃ……くぅ」
それからヘステスは、頭痛に耐えながらゆっくりと、昨夜から今にかけての動向を語った。
海賊崩れの二人と奴隷の二人を鍵のかかった部屋に幽閉したドレッシュは、ラズエイダとの修練から戻ってきたヘステスに向けて「オトも含め誰かを無理矢理連れ出せば、海賊を国に引き込んだ罪でお前を軍に突き出す」と脅しをかけてきたらしい。理由を尋ねても、ドレッシュはかたくなに答えようとしなかった。それを怪しんだヘステスが『耳』を使って彼と部下との会話を盗み聞きしたところ、彼は翌朝に軍が五人を確保するようあれこれと指示を出していたのだった。
その時点で脱出計画を練り上げる必要に迫られたヘステスは、ひとまず命の危険のないオトには触らずにテレミアたちを救出することとした。適当な老漁師を捕まえて叩きつけた白金貨で船を買い上げ、港に停泊している郵便船に空から忍び込み最低限の物資を持ち出し、寝ずに情報を集め続け、そして朝になってドレッシュ率いる郵便船員たちが島を出て行った段階で動き出し、今に至る。
「運が良かったのは、ドレッシュが皇国軍への通報を遅らせたことじゃの。仮に夜のうちに踏み込まれておったならば、この程度の面倒では済まなかったはずじゃ」
「確かにそうだな。夜に動くのは面倒だったから、あたりが理由か?」
「海賊を国内で連れ回したとあっては、彼奴も多少の罪に問われよう。故にドレッシュ自身が軍と対面する訳にはいかなかったようじゃな。船を出せないでいる間にオトに儂らと逃げられたなら、ここまでの苦労は全て水の泡じゃ。オトを海の上に連れ出し退路を断ってから、軍に儂らの身柄を預ける。そうすればオトはドレッシュのもとを飛び出すことも儂らを救うことも叶わず、儂らとは完全におさらばという訳よ」
「……そのオトはどうやって船に乗せたんだ? 俺達が荷運びの仕事の場にいないってくらいは流石に遠くからでも分かるだろ」
「薬で眠らされておるようじゃった。目を覚ましたときには船の上、じゃろうな」
「……イカレてやがんなあの野郎」
モムルが大きくため息をついた。
その横で、ラズエイダが神妙な面持ちで口を開いた。
「すまない。おそらく私に責任がある」
「あぁ?」
威圧的な目線を向けられて僅かに唇を結んだラズエイダは、思い詰めたような声色でこう説明した。
「一昨夜、密かにテレミアに会いに行くよう彼女を焚きつけたんだ。ドレッシュなど切り捨ててテレミアを救ってくれ、という具合で話していた。……それを聞かれてしまったのだろう」
「聞かれて困る話はしない、と決めておったじゃろう。このたわけが」
「……返す言葉もない」
ふん、とヘステスは口を閉じて静かになった。
あからさまに不機嫌な割に小言が続かないのは、おそらく頭痛と疲労でその気力がないからだろう。
モムルは眉間をひくつかせながらも手を出すことだけは自重したようで、盛大な舌打ちを一つ響かせてから再びヘステスに向き直った。
「で、どうすんだこっから。こんな船で軍から逃げ切るとでも?」
「儂らは皇国に入って以来一切の罪を犯しておらぬから、平伏して命乞いをすれば見逃してもらえるやもしれん。分の悪い賭けじゃが、最初から戦うことを選んでも分が悪いことに変わりはない」
「デカい白旗が積んであるのはそれでか」
確かに漁船には、大きな白旗が船縁に沿って置かれていた。
ヘステスは「うむ」と答えてから、鼻で笑って旗竿を叩いた。
「ま、所詮分の悪い賭けよ。十中八九戦いになるであろう。そのとき島の中に閉じこもって全方面からの襲撃に怯えるか、海の上に漂流して少しでも早く皇国から逃げ出すか、二択の末に海を選んだ。ラグーダの旗艦を単独で相手取った上で生きて帰れるのじゃ、テレミアとラズエイダならば軍艦相手でもどうにかできよう」
「どうにかできようって、真面目に言ってんのか爺さん」
「無論大真面目じゃ。なぜならば、それ以外の勝ち筋がない故な」
「……だってよテレミア」
突然話を振られたものの、膝に顔をうずめていたテレミアは即座に反応することができなかった。
「おいテレミア?」
「あ、うん。何」
「……我らがキャプテンもこのザマだ。いよいよ絶望まっしぐらってところかね」
「……ごめんって」
「せめて胸張れ。ほら」
モムルが背骨をなで上げるようにしてテレミアの姿勢を正した。
反り返るように胸を張らされたとき、顔を上げたテレミアの視界に先の方を行く郵便船が映り込んだ。
既に港を出てかなりの時間が経っているのだろう、船の姿は豆粒のように小さかった。
あの中で、今頃オトは目を覚ましているのだろうか。
いつの間にか海に浮かんでいることに気づいて、良からぬ企みが己を取り巻いていることを悟って、ドレッシュに歯向かうだろうか。
既に戻る術がないことを知って、全てを諦めるのだろうか。
「……皇国領から抜けるにはどっちに行くの?」
「きっかり南西にまっすぐ、じゃな。シャフハゼンが近い。皇国の同盟国ゆえ、危険度はさして変わらぬじゃろうが」
「じゃあ、そっちに舵を」
「───待て」
ラズエイダがテレミアの台詞を千切った。
「お前は何を言っている。オトが囚われているのはあの船の中だ」
伸ばされた指が差す方角は南東、この漁船が取るべき針路とは全く食い違う向きだった。
「……今は早く逃げないと。私たちみんな死んじゃうよ」
そう答えながらも、テレミアはなんとなくラズエイダが次に繋げる言葉を予感していた。
「またあのときと同じ問答を繰り返すつもりか? お前は二度と仲間を見捨てないことを誓っただろう、お前の決意は命の危険程度で揺らぐものなのか?」
ラズエイダがわざとらしく使う”あのとき”という言葉が何を指すのか、分からないはずもない。
ラズエイダが己の過去をテレミアの軋む心に叩きつけた、あの名も知らぬ小さな島の森の中でのことだ。
どうして自分の口からこぼれるのかも分からない否定の論理を、一度いきり立ったラズエイダの前では無力だと知りながらも、テレミアはなんとかつなぎ合わせた。
「あのときとは違う、だってオトは死なないし」
「そうか、ならオトの心情を想像してみればいい。私達を無理矢理殺してまで己の身柄を欲しがる欲深い男の手の内にある状態で、オトは幸福か?」
「欲深い男もなにも、ドレッシュはオトのお父さんだよ」
「義理の父親、だろう。血縁もないのだから赤の他人も同然だ。それに、親子の間柄は幸福な関係を保証などしない。お前はジャルダを父親と慕っていたのか? 違うだろう?」
言い返せず、テレミアは口をつぐんだ。
普段なら些細なことでもテレミアを守ろうとするモムルも、腕を組んで静かにテレミアを見つめるばかりだった。
「いいか、合理的に考えろ。お前は大切な仲間であるオトを他人に奪われたんだ。我ら六人のキャプテンとして、お前が成すべきことは何だ」
考えるまでもなく、答えは一つだけだ。
「……仲間を取り戻しに行くこと」
「よく言った。立つんだ、テレミア」
ラズエイダはテレミアの前に立って右手を伸ばした。
その手を取ることはせず、テレミアは一人で立ち上がった。
「……ねえヘステス、今からオトを助けに行くのは道草を食うことにならないの?」
合理の鬼たるヘステスが何も言わないのを気にして尋ねる。
問われた老人は僅かに眉を動かした。
「既に儂らは北方海域最強の呼び声高い皇国軍の標的じゃ。どのみち、おぬしとラズエイダの力で軍船を撃滅しながら南下する他に手立てはなかった。一人救う手間を増やしたとて、逃避行の難度が激烈に変わることもあるまいよ」
「……でも、オトを助けようと思ったら盾の力をいろんな人にひけらかすことになるよ。温存しないといけなくない?」
「皇国軍と戦うときにどうするつもりだったか、むしろ聞いてみたいの。よもや素のおぬしのままで勝てるとでも?」
「……でも」
「儂にオトを救い出さないための理由を求めておるなら、それは間違いじゃぞ」
ぴしゃりとヘステスははたき落とした。
「儂はおぬしの命を長らえることにしか興味がない。その過程でオトを救おうが救うまいが、おぬしの命が潰えるかどうかには関わらぬ。故にこれはおぬしの心の問題じゃ。ラズエイダはおぬしの奴隷じゃぞ、苛立たしいなら口を閉じさせればよいではないか」
らしくもないの、という独り言をわざとらしく風に乗せて、ヘステスはそれきり黙り込んだ。
「『風よ我が意のまま吹け』」
静かになった漁船の上に、ラズエイダの詠唱が響いた。
『風よ』と短縮するのではない正式な詠唱によって放たれた魔導は、強い力で船の舳先を舵に頼らずに南東に向けた。
ギイギイと叫ぶ船の中で、テレミアはあてのない思考を委ねるように、遠くに浮かぶ郵便船の方を見た。
広い海が一面に広がっている。
「……あれ?」
テレミアはきょろきょろと視線を動かした。
つい先ほどまで見えていた郵便船の姿を捉えることができない。
「ねぇ、さっきまであの辺にいなかったっけ?」
「───っ!」
違和感を覚えたテレミアが船首から後ろを振り返るのに少し遅れて、ファンエーマが鋭く息を吸った。
「船が、燃えています……!」
「……え?」
「煙が上がって……攻撃を受けているように見えます!」
「!?」
ファンエーマが食い入るように見つめる先に、やはり船の姿はない。
「どこ、見えないよ!?」
「正面です、先程と位置は変わっていません!」
理解の及ばない状況に目を白黒させていると、「よもや」とヘステスが発した。
「一つ、心当たりがある。船を隠す魔導じゃ……『大海に御座す青龍よ、我らが目に隠れ潜む知恵者の在処を映し賜え』」
ヘステスが脂汗を額に浮かべて唱えたのは、テレミアの知らない詠唱だった。
五人の周囲をきらきらと青い砂粒のようなものが飛び回り、消えた。
「これで何か見えるであろう」
促されて前方を見つめる。
そこには、郵便船と、郵便船を取り囲むように海に浮かぶ五隻の船の姿があった。
「───!」
郵便船から立ち上る煙が、マストの高さを超えるほどにまで舞い上がっている。
雲のようにも見える灰色の塊が、テレミアの見つめる先で糸を引くように形を崩した。
煙を切り裂く空色は風と灰色に薄れて消え、また生まれてを繰り返す。
「砲撃……!」
弩砲、或いは魔導が郵便船に向かって撃ち込まれている。そう理解するほかに目前の光景を解釈する方法はなかった。
マストに張られた帆がはじけ飛んで、郵便船はみるみるうちに右に左に大きく揺れ動くようになった。
「オト!」
オトの命が危ない。
そう気づいた瞬間に、テレミアは盾を生み出していた。
振り向きざまに右手を伸ばし、まるで当然かのようにその先で待っていた左手と重ねる。
金銀に意識が弾け、混ざり合い、そして一つにカチリとはまり込む。
(ようやくその気になったか)
(無駄話をするために合わさったんじゃないっ、飛ぶよ!)
〈──〉
「『風は私の友、その腕の中が私の居場所、その吹く行方が私の行き先』!」
ぶわりと吹いた風が青い身体を空へと持ち上げた。
そのまま前へ突き進もうとしたとき、「テレミア」と声がした。
「……あやつも成長したものじゃ、あの数を同時に隠せるとは」
鼻から血を流すヘステスは苦悶の表情のまま呟いて、そしてふらふらとよろめきながら手を掲げ指を伸ばした。
「あれはルカの船じゃ」
「っ」
テレミアにとっては懐かしく、そして恨めしい名前がヘステスの口から飛び出した。
ジャルダの三番目の息子、ルカ。
弱者をいびり怯えさせて愉しさを覚える種類の、悪党という言葉が煮詰まって人の形を成せばこうなるのだろう、というような性格の持ち主。
いいように遊ばれては半死半生の傷を負って路地裏に放り出された、暗い日々の記憶が蘇る。
「行け、そして海の藻屑としてやるが良いわ」
ヘステスに発破をかけられて、テレミアの心は悩みを完全に置き去りにした。
二人はただ速くまっすぐに飛んだ。風の力だけで海に白い筋が引かれていくほどだった。
(ルカ、か。性根の腐った男だったな。奴は皇国領を狩場としているのか)
(そうだね。あいつの遠征は結構長かったから、遠くまで行ってるのは知ってたけど)
(オトの母親を攫ったのも、奴なのかもしれないな)
(あははは、だとしたら最高じゃん)
テレミアは右手を強く握り込んだ。
(……全部まとめて叩きつけてやる)




