7. おとぎ話
屋敷の奥のそのまた奥、日の差さない小さな部屋が、エレーリィ・グランに割り当てられた部屋───より正確に言えば独房───だった。
テレミアは肘の擦り傷をぶんぶんと振り回して痛みを吹き飛ばすようにしつつ、母親の膝の上に滑り込んだ。
「ねえおかあさん、聞いて! オトがあたしのこといじめてくる!」
「どうしたのテレミア、そんな悲しそうな顔をして」
「だって、どこを探してもオトが見つからないの! 怪我したのに助けに来てくれないし! きっとオト、あたしなんてきらいってどっかいっちゃったんだ!」
「『治癒の力よ』───そんなことないわ」
エレーリィはそっと傷に手を当て、治癒の魔導をかけた。
「オトちゃんはちょっと人よりかくれんぼが上手なだけ。「参りました」って言えばすぐに出てきてくれるはずよ」
「ほんとうに?」
「ええ、きっとね」
母親の治癒を待ちきれず、エレーリィの膝の上でテレミアはうずうずと身体を動かす。
エレーリィは落ち着きのないテレミアを押さえ込むために少し身体を起こした。足枷に繋がる鎖がちゃらちゃらと音を立てた。
やがて目に見える範囲の傷は塞がり、エレーリィはテレミアから手を離した。
「さあ、いってきなさい」
「ありがとうおかあさん!」
エレーリィは目を細めながら、独房から広い外の世界へと駆け出していく喧しくも愛おしいほうき星を見送った。
やがて静けさがエレーリィの周囲を満たし、テレミアを見ている間は忘れることができていた痛みが蘇った。
苦痛を押し殺すために壁にもたれ、大して効果のない小さな明かり取りの外を眺める。
「……」
夜になって、テレミアはまたエレーリィの元を訪れた。背後に護衛として付いてきたモムルがさっと控えるのを聞きながら、扉を開け放つ。蝋燭の僅かな灯りを頼りに自らの髪を編む母の姿があった。
エレーリィは蝶番の軋む音に顔を上げ、テレミアに目を留めた。
「あらテレミア、今日はここで寝るの?」
「うん。ヘステスのところ変なにおいがするの。おくすり作るのしっぱいしたんだって。おかあさんのとなりがいい」
「そう、嬉しいわ。いらっしゃい、テレミア」
鏡を少し遠くに追いやったエレーリィはその手でぽんぽん、と薄い敷物の上を叩き、続いてテレミアを手招きした。
さっと母の腕をとったテレミアは、二人で寝転ぶように敷物の上に飛び込んだ。
「今日はどのお話が良い? クジラのお話? それともお母さんの国のお話? それとも騎士様とお姫様のお話?」
「なんでもいい」
「じゃあ、国のお話にしましょうか」
エレーリィはゆっくりと娘の頭を撫でながら、今はもう戻ることの叶わない祖国に伝わるお伽話を紡ぎ始めた。
私たちの国の長い歴史は、
勇ましく、逞しく、心優しい英雄の物語から始まります。
この世界をつくったひとたちのことを、神様といいます。
海も空も島も迷宮も人も魔物も、
あらゆるものを無から生み出したほどですから、
その力は私たち人間には到底想像もつかないものです。
かつて、神様たちの中でも一番優れた一人が、
みんなで作った世界を全部自分のものにしてしまおう!
と悪巧みをしました。
人々は悪い神様に逆らおうとしましたが、
いとも簡単に大地を切り裂き海を荒ぶらせる、
そんな相手とは戦いにもなりません。
他の神様たちは困りました。
その悪い神様はとても強く、
他の神様たちみんなでかかってもかなわないからです。
そこで他の神様たちは考えました。
考えて考えて、そして一振りの剣を生み出しました。
太陽のように輝く剣は、ある人間の男に託されました。
男は人間の中で一番勇敢で、一番強くて、
一番仲間思いでした。
男は迷宮でたくさんの魔物と戦い、ぐんぐんと力を付けました。
神様たちよりも強くなった男は、次にたくさんの仲間を集めました。
たくさんの仲間を集めた男は、
次に悪い神様に捕まえられた生き物たちをたくさん助けました。
生き物たちをたくさん助けた男は、最後に悪い神様に挑みました。
あらゆる苦難をものともしない力と仲間を手にした男は、
決して折れない決意を胸に悪い神様と剣を交え続けました。
そして三日三晩も続いた戦いの末に、悪い神様を真っ二つにしました。
しかし、三日三晩の長い戦いは、
男の身体を取り返しの付かないほどに傷つけていました。
たくさんの仲間に囲まれて、男は言い残しました。
───いつかまたこの世界が危機に陥ったなら、
私の子どもたち、孫たちが
神より託される剣を振るい、世界を救うであろう、と。
男は目を閉じ、そして二度と起き上がりませんでした。
残された仲間たちは、男の息子を探し出し、頭を垂れました。
息子は亡き父アルタスの願いを聞き、
世界を救う定めを受け入れました。
かくして、私たちの国は生まれたのです。
くかー、すぴー、と寝息を立てるテレミアが風邪を引かないようそっと麻布を被せてから、エレーリィは鏡の前に戻った。
その夜は、三ヶ月ぶりにジャルダに抱かれる番であった。
明かり取りから差し込む月明かりの下でエレーリィは服をはだけ、己の身体を確かめた。
病に苦しみげっそりとやせこけた身体には活力の欠片も残っていない。
燃えるようだった深紅の髪は茶色にまで色あせ、いくら油で伸ばそうと艶が戻ることはない。
股から滴る血はもう一月も止まっておらず、じくじくと膿む不快な見た目を覆い隠すことすら難しい。
かつての美貌など微塵も感じさせない穢れた身体を前にジャルダがどういった反応を示すのか、エレーリィには分かりきっていた。
迎えが来る。
足枷を外されたエレーリィは、部屋を出る直前、最後に己の愛娘の姿を目に焼き付けた。
「愛しているわ、テレミア。運命の荒波の中でも、きっとあなたは真っ直ぐに大きくなれる」
部屋のすぐ外に控えていたモムルがその言葉を聞いて、はっと顔を上げた。
夜の闇の中に紛れる黒い顔の青年に向かって、エレーリィは柔らかく微笑む。
「テレミアを頼みます」
モムルは何も言わず、歯を食いしばって深く頷いた。
エレーリィはジャルダの使いに連れられて、しずしずと歩を進めていった。
「ねえモムル、おかあさんはどこ?」
「遠くへ行ったんだ。誰も会うことのできないくらい、遠くに」
「どうして?」
「……俺達は皆、いつかは遠くへいくと定めづけられているから、かね」
「……そうなんだ」
「ああ」
「誰の手の者だ、お前ら」
「うるせぇな、お前ら脳筋民族は黙って俺らの言うことを聞いてれば良いんだよ。手の中のお姫様を渡せばお前は殺さないでやる。ああ、少しでも矢をつがえようとしてみろ、次の瞬間にはお前の首が飛ぶぞ」
「そんな大勢で来られても面食らっちまうな。顔くらい見せてみたらどうだ、ええ? 脳筋とガキの二人に差し向けるにはいくら何でもやり過ぎだろうが」
「黙って渡せと言っている」
「断る」
「仕方ねぇ、ケトごと斬りい゛っ!? この魔導どこからっ!」
「……テレミア、目は閉じてろよ」
「畜生、逃がすなっ!」
「テレミア」
「……なに、ヘステス」
「怖いか?」
「こわくない」
「……嘘は、つかなくともよいぞ」
「……すっごくこわい。わたしのこと、みんながおいかけてくるの」
「テレミア。怖くなくなる方法が、一つだけある」
「どうしたらいいの?」
「全ての大人を従えられるほどに強くなるのじゃ。おぬしの言うことを皆が聞くようになれば、最早誰もおぬしを捕まえようとはせんじゃろう」
「……わかった。そうする」
船が少し大きく揺れて、それでテレミアは船室の中で目を覚ました。
心臓の鼓動が大きく、速く響いている。
テレミアはしばらく意識的に深い呼吸を続けて、悪い夢の残滓を頭の中から追いやることに集中した。
母の亡くなった日の夢を見るのは、果たしていつぶりだろうか。小さい頃はもっと頻繁に見ていた気がする。見る度に恐ろしさのあまり飛び起きては、隣の部屋で眠るモムルを訪ね、震えながら助けを求めていた。
口の中に満ちる苦い思い出の味を、寝床の側に置いておいた水で無理矢理飲み下す。
商船での旅は決して快適とは言えないものだった。硬い寝台で一晩を越して強ばった身体はしばらく痛みそうだ。安い値段で乗せてくれたのだから文句を言うわけにもいかないが。
汗で湿った寝間着を着替えて甲板に出ると、既に遠くに目的地である島が見えていた。
風に当たっていたらしいオトがテレミアの気配に気付いて振り返った。
「ミア、顔色悪い? 大丈夫?」
「おはようオト。ちょっと昔の夢を見てね」
「そっか」
昔の夢、と言えば何の話なのかは大体伝わる。
オトはぽんぽんとテレミアの肩を叩き、そしてそれ以上は何も言わずに甲板の縁にその身を預けた。
テレミアも同じようにして、遠くに見える島をぼんやりと眺めた。
広い海の中に無数に浮かぶ島の全てには、それぞれ少なくとも一つの迷宮が存在する。
そうした迷宮は、魔物という障害さえ御することができれば島に住まう人々にとっての資源となり、また近隣の島々との積極的な交易を行う動機ともなる。
怒牛海賊団は牛肉加工品の生産者としての顔も持っていて、海賊行為に加え交易も活発に行っている。例えばこれからテレミアたちが訪れるバルテロス領サランダ島は牛肉取引の窓口として、また或いは海賊団向けの木材輸入の拠点として、カライアとの船の行き交いが盛んな場所だ。
サランダ島の住民は、実質的に島を支配する海賊たちに怯える日々を送っている。しかし、いざバルテロス本国の軍隊を頼って逆らおうとしても逆に叩き潰されると分かりきっている以上、海賊たちが我が物顔で島を闊歩するのを黙って許容せざるを得ないのだった。
それに、海賊たちも考え無しに富を枯らし尽くすほど愚かではない。海賊に怯えて誰も寄りつかないがらんどうの海で来ない獲物を待ちわびるより、商売を繁盛させるだけ繁盛させて、肥え太らせてから収穫する搾取者でいる方がよほど旨みがある。
こうした背景で海賊団に飼い慣らされた他島の迷宮に挑む方が、カライアで常に監視の目を気にしながら牛を狩るよりも効率的だろう───という判断の下、テレミアたちは近場の島を巡ることを始めていた。
テレミアは己の手を掲げ、何度か握っては開いた。
他の兄姉たちが迷宮にいない時間を探してまめに魔物を狩るようにはしていたものの、やはり彼ら彼女らの手の者に盾の存在について悟られてはいけないという制約もあって、それほど満足のできる強化はできていなかった。
テレミアがそうやって苦労している間にも、兄姉たちは大手を振って迷宮に籠もり、好きなように魔物を狩って力を高めていく。適当な船を襲い高価な武具を奪い取っては、何人もの部下たちごと身を固めることだってできる。
現状では、何の自由も持たないテレミアと彼らとの戦力差は、全く埋まる気配がない。
今のテレミアにできることと言えば、せいぜい兄姉達一人を相手取って死なないように逃げ回るくらいだろうか。
テレミアが求める力は、そのようなものではない。
単身で敵の船に乗り込み、制圧できるような、そんな圧倒的な力が必要なのだ。
成人の儀を成功裏に終えたと大々的に告知するとき、試練を突破し新たに成人を迎えた者にはいくつかの報酬が与えられる。
その内の一つに、自分の船を持つというものがある。
船団を構成する船の長たるキャプテンの一人として研鑽を積む段階に移るという表の意味と、周囲の権力闘争の相手たちから本格的に敵と見做されるという裏の意味を持つ、重要な転機だ。
盾を手に入れる前までは、生き残るためには他の兄姉の庇護下にいる必要がある、との判断から船の授与を辞退する予定でいた。が、盾さえあれば十分戦えるようになると見込まれたためにそれを覆し、船の改装を始めさせたのがつい最近のことだった。
船を持つことによる利点は大きい。
堂々と海賊団の影響下にある島々を巡ることができるようになるし、テレミアの人気をもって船員を集めれば、ラグーダの手を借りずとも遠征して略奪を仕掛けることも容易いだろう。
兄姉たちがテレミアの脅威に気付く前に力を伸ばしきり、奇襲のような形で一気に決着を付けようというのが今のテレミアとヘステスが描く将来図だった。
改めて胸に決意を秘め、テレミアは甲板を後にした。
まだそこまで高くない太陽の灯りが波の高くない水面にいくつもの細かな影を作って、海を切り裂く商船の曳き波の泡と混ざり色彩豊かな光景を生んでいた。
サランダまではあとほんの僅かだ。




