66. 自失
ドレッシュが率いる郵便船に乗るようになって、十日ほどが経った。
テレミアはさすがに疲れが溜まってきた身体を集荷場の倉庫で横たえて時間を過ごしていた。
土のむき出しになっている倉庫の中、鼻につく干し魚の香りのする木箱の上が、汚れと地面の冷たさを気にしなくてもいい唯一の場所だった。
ウペルタール島での積み荷の運搬を終え、厄介払いのように放り込まれた大きな屋根の下には、山と積まれた荷物が並んでいる。
ここまで三つの島を巡ってきたが、どうやら郵便局が各島で管理する集荷場には、大抵搬入用と搬出用の二種類の倉庫があるようだった。搬入用の倉庫は定期的にやってくる郵便船の到着に合わせて空にしておき、逆に搬出用の倉庫では運び出す荷物をまとめておくらしい。島に常駐する郵便局員は荷物の整理に集中し、一番忙しい荷運びは男ばかりで数も多い郵便船員が大部分を担う、という構造で仕事が回っているようで、船員はどの島であっても重労働を課されることになるのだった。
当然テレミアたちは船員たちと同じように荷運びに従事している。ほぼ奴隷同様の扱いを受けている四人は、船が島に停留した後再び出港するまで働かされ続ける。ヘステスの掛け合いもあり最低限の休息と食事は確保されてこそいるものの、明らかに不十分な量しか与えられていない。
その上でさらにテレミアとモムルは船員たちの歓心を買うための雑用に精を出しているのだから、身体をいたわる余裕など微塵もなかった。
ラズエイダに限って言えば、ヘステスが仕事の最中にひょっこり顔を出しては「ほれ、修練に行くぞ」と迷宮かどこかに連れ出していくので、それほど疲労困憊という様子でもない。記憶を覗き見る限りでは流血失神当たり前のなかなかに壮絶な経験を積まされているようなのだが。
疲労を消し去る魔導を使えばすぐにでも元気になれるのだから、ヘステスは修練を最大効率で続けるため気を失ったラズエイダにこっそりそういう魔導をかけているのかもしれない。合理的だ。
オトはどうしているだろう、とテレミアは疲れて回転しない頭でぼんやり考えた。
今頃ドレッシュについて手紙の配達に島中を巡っているはずだ。ある意味では、テレミアたちと同じように肉体労働に従事しているとも言える。
とはいえ、娘が大切で仕方がないらしいドレッシュのことだ。オトに重い荷物を抱えさせるような真似はしないだろう。一方でオト以外は手足がすり切れようと海に落ちようと構わないとすら見えるのだから、たいした差別意識だ。
その差別意識がオトにどう働くのか、テレミアは想像することしかできないでいた。
オトは自分ただ一人にだけ向けられる好意を、そっくりそのまま受け取ってしまうだろうか。
海賊という種類の人間にだけ向けられる敵意を目の当たりにして、自分の生き方を見つめなおすだろうか。
まっとうな仕事で食い扶持を稼ぐ暮らしを学んで、それを奪い取ってきたことを恥じるだろうか。
モムルやファンエーマの前では強がって「オトは絶対にあんなのにはなびかないって」と口にしてきたが、テレミアの内心を埋めているのは怯えばかりだった。
もし、すべてが悪い方に転がったとき。
オトがこの手を振り払ってドレッシュについて行くと決めたなら。
……きっと私はオトを引き留められない。
その晩、テレミアがまぶたの重さに耐えきれず眠りに落ちるまで、ラズエイダは倉庫には戻ってこなかった。
翌朝、まだ日も昇らない時間から、テレミアたちは荷物の積み込みに従事することになった。
テレミアはモムルやファンエーマと比べて非力と見做されているのか、最も力の必要な作業である船への吊り上げではなく、倉庫と桟橋をひたすら往復する役目に充当されることが多かった。
今日も、よく鍛え上げられた身体つきの郵便船員たちに交じって、いくつもの小包や島の特産らしい香辛料の詰まった壺を持ち上げては歩を進める。
一抱えもある木箱を運んで転ばないよう足下に気をつけながら歩いていると、一人の船員が横から大股で追い抜いていった。
「遅えなぁ」
「……すみません」
追い抜きざまにわざとらしい舌打ちと嫌味をぶつけられた。
同じ大きさの箱を抱えていても、身体の大きなお前と小柄な私では仕事のしやすさに差が出るものだ───とは何を間違っても指摘しない。下手な正論をぶつけて不興を買う方がよほど面倒だ。
面倒を嫌う心に加えて、テレミアの中には整理をつけられていない苦々しさがあった。
船の中ではすれ違うたびにわざと身体をぶつけてくるはずの船員たちは、こうして島の上で荷物を扱うときには全くそういうことをせず、嫌味を投げつけながらも手際よく仕事をこなしていく。取り扱いに特別な注意が必要な物は決してテレミアたちに扱わせることなく、自分たちの手で運び込む。
彼らは職務に忠実で、鍛え上げられた軍隊のように規律正しく与えられた任務をこなしていた。
こんな「真面目」とも言えるような人々が、こぞって自分たちのことを詰り痛めつけては愉悦を覚えていたという事実に、テレミアは思い至ったのだった。
彼らの心に刻み込まれた海賊への反感が、そうした行為を正当化していたのだろう。
海賊以外の生き方を知らず、また常に海賊として他者を脅かす立場であり続けたテレミアにとって、それは初めて体験するむき出しの憎悪だった。海賊団の中で「船団長の娘」という立場に対して向けられてきた荒々しい敵意とは全く種類の異なる、粘着質などす黒い感情に、テレミアはどう接すればいいのか見当もつけられないでいた。
別に私には関係ない、と簡単に葛藤を振り払うことはできなかった。
これまでに両手の指には収まらない数の人間を殺してきたし、命乞いの上から喉を刺し貫いたこともある。自分をほかの兄弟から匿ってくれていたラグーダの命令があれば、女も子供も関係なく捕まえてカライアに連れ帰った。その後に彼女たちに待ち受ける運命を知った上で。
非道な行為を何度も繰り返してきたのだから、その報いを受けさせられるのはまるで当たり前のことであるような気すらした。
だから、
「なぁ、お前、シャヴィーラって知ってるか?」
「……っ、しり、ません……!」
「攫った女の名前なんていちいち覚えてらんねぇってか?」
一方的な暴力を振るわれても、テレミアはろくな反抗をすることもできずにいた。
積み込みが終わり次の島に向かって進み出した郵便船の中で、志願した便所掃除の仕事をしている最中だった。突然テレミアは背後から殴り飛ばされ、まだ掃除の済んでいなかった汚い床にその身を叩きつけられた。
「綺麗な身なりしやがってよ」
テレミアが反撃してこないのをいいように解釈したのか、男は煮詰まった怨嗟を余すことなくぶつけてやろうと決めたらしい。
身を起こそうとした矢先に再び伸びてきた大きな手が、今度はテレミアの顔を床にこすりつけた。鼻の皮膚が破れる感触がした。傷口に染みる痛みの由来が何なのか、テレミアは考えないように努めた。
「なんで俺のシャヴィは殺されて、代わりにテメェみたいな屑がのうのう生きてやがるんだ、あぁ?」
手元に剣さえあれば、こんな図体の大きいだけの男など瞬きほどの間に刺し殺せる。
剣がなくとも、掌を当てて雷を撃ち込めばそれで終いだ。
しかし、テレミアは動けないままでいた。
それは難しい立場にいるオトのためでもあり、命をドレッシュに握られている自分のためでもあり、そして己の心の迷いのためでもあった。
「ごめん、なさい……っ」
「シャヴィもきっとそう言っただろうよ!」
「っく!」
髪の毛をつかんだままの手がテレミアの身体を振り飛ばし、頬に鈍い痛みが走る。
それでもなお、テレミアは耐え忍ぶ以外の選択をとれなかった。
何をすればいいのか、何を言えばいいのか、まるでわからないままだった。
少しの間、男の荒い息づかいが狭い便所の中を満たして、徐々に小刻みな引き笑いに移り変わっていった。
「ハ、ハハッ、ハハハッ、いい気味だぜ。俺に逆らったらどうなるか、よぉく分かってるみてえだな」
荒く短い息遣い、そして軽蔑の言葉の中に滲む淀んだ喜色は、テレミアにとってはどこか懐かしくすら思えるものだった。
するり、と布地の擦れる音がした。
今顔を上げたなら、そこに待っているものが何かは大方想像はつく。
それを受け入れて事が丸く収まるのなら、もういいのではないか、という気がした。
「い、いいか、今から───」
どん、という重い踏み込みと、それに続いた鋭い風が、テレミアの赤い髪を揺らした。
「ぐっ!?」
「失せろ糞野郎」
モムルの声だ。
そう思った次の瞬間には、すさまじい音を立てながら便所の入り口の扉ごと男が吹き飛んでいった。茶髪の小太りだったその男は、下着をはき直すのも忘れたままに「お、お、覚えてろよ!」と吐き捨ててドタドタと走り去った。
足音が遠ざかるよりも先に、隆々とした筋肉をたたえる黒い腕がテレミアの背中から肩を包んだ。
「テレミア、無事か」
「……ねずみ取りの仕事はどうしたの?」
「んなこたどうだっていい。何もされてないな?」
「うん」
優しくたくましいその声に誘われるように、テレミアはモムルの肩に縋り、立ち上がった。
「お前、鼻が」
顔が見えるようになったからか、モムルがテレミアの鼻に残った傷に気づいた。
テレミアは着ている服の生地の中で嫌に湿っていない部分を探して、それで鼻をこすりあげた。骨が痛むような感覚はなく、幸いにも擦り傷程度で済んだようだった。
あの野郎、と今にも走り出しそうなモムルをなだめながら、テレミアはさっきまで使っていた掃除道具を便所の隅に押し込んだ。もう船員の機嫌を損ねるだけ損ねてしまった以上、こんな雑用を続ける意味もない。都合のいい口実を得たドレッシュが皇国軍に海賊崩れを突き出すか、オトの心情を慮って強権的に事態を収拾するか、その二つに一つだ。
ついでに床に落ちていた粗末な下着をキツイ匂いの桶の中にねじ込んで、テレミアは便所の外に出た。まだ騒ぎにはなっていないようで、船内は静かなままだった。
「……大丈夫か。おぶったっていいんだぞ」
「やめてよ、そんな子供扱い」
「俺が心配なんだ」
「ほんとに大丈夫だって。カライアにいた頃からずっと、いつかああいうことになる覚悟はできてたから」
そう口にした瞬間に、モムルはまるで背中を刺されたかのように身体をピンと強ばらせ、次いで苦しみと痛みの混じった表情を浮かべた。
「お前……」
「別にモムルのせいじゃないよ」
モムルはしばらく黙り込んだ後、「すまねえ」と感情を押し殺した声で小さくつぶやいた。
海賊団で生きていれば、船乗りと女との間にある関係性は嫌でも目に飛び込んでくるものだった。長い航海で募る苛立ちのはけ口として、あるいは戦場で昂ぶった精神を慰めるために、最も手軽で便利な道具が女という生き物だ。
そして、武器らしい武器をすべてヘステスに預け、オトという人質を取られ、敵意を抱くだけの気概すら煙と失せてしまった今、テレミアに残ったのは「テレミア」だけなのだろう。
「私がヤるだけで許されるんならさ」
「───おい」
モムルに強く制されてなお、テレミアの口は止まらなかった。
「それで全部丸く収まるなら、それでいいって思わない?」
「っ」
モムルの堅く握られた拳がぶるぶると震えるのを、テレミアはどこか遠い世界の出来事かのように感じながら見つめていた。




