65. 葛藤
手持ちランタンの揺らめく灯りが真っ暗な通路を仄かに照らす。
何度か急な階段を下り、発酵した野菜の香りやこびりついた汗の匂い、それに何とも形容しがたい鼻をつく刺激臭が仄かに香り出すその先に、与えられた船倉がある。
夜遅く人気のない船内を進みながら、ラズエイダはぼんやりと昼間の情景を思い浮かべた。
ドレッシュとの取り決めに従って乗り込んだこの郵便船で、テレミアとモムルは明らかに腫れ物としての扱いを受けていた。
この船が郵便船であるからには海の上では仕事らしい仕事もなく、船員たちのすることといえば専ら歓談くらいで、従って突然現れた客人は彼らにとってみれば格好の話題の的となった。
ドレッシュが意図的に漏らしたのだろうか、既に「海賊の出」ということは周知の事実となっているようだった。だから、どこに行ってもテレミアとモムルは冷たい態度で迎えられた。食事を受け取るにも、舌打ちの一つ二つは当然として、あからさまに冷えたスープやかびたパンを渡され、不平を示そうものなら露骨に腰や肩を弾かれる。掃除などに精を出してみても特に意味はないようで、むしろ都合の良い下僕として余計にこき使われるばかりらしい。
とはいえ、それはテレミアにとっては何ら問題ないことのようだった。
「ラグーダの手下になってすぐの頃とかを思い出すなぁ。人間扱いして貰えるまで、必死に周りに媚び売ってたっけ」
「ああ。いくらでも雑用を引き取って、お前は野郎どもの馬鹿話に延々首突っ込んでニコニコしてな。今思えばよく耐えられたもんだぜ」
「郵便局員だかなんだか知らないけど、中身は海賊と変わんないね。ドレッシュも、オトにむしろ「こんな父親はいやだ」って思われるだけって気付かないのかな」
「さぁな。あのおっさん頭悪いんじゃねえか」
「あはは、かもね。聞こえてませんように」
毎夜けろりとした顔で二人は軽口を叩いては酷使した身体を伸ばし、薄い敷物の上に身を横たえる。そして翌朝からまた、ドレッシュや船員たちに少しでも取り入るべくあちらこちらへと動き回るのだ。
逞しいものだ、と思いながらも、ラズエイダはそれを口にすることはしないでいた。血の滲む苦労を何も知らない他人に安直に褒め称えられても良い気分がするものではない、とラズエイダは自らの経験からよく知っていた。
そして、彼女が表向きの表情の下に隠すものも、よく知っていた。
きい、と開けた扉の蝶番が音を立てた。ランタンの明かりが船倉に差し込み、雑然とした空間をぼんやりと照らす。
最も扉に近い場所でモムルが目を閉じていて、鋭い眼光が一瞬ラズエイダを貫き、再び瞼が閉じられる。
隣にテレミアの寝床があって、少し離れた場所にファンエーマのもの、そしてラズエイダ自身の寝床はその更に奥にある。
「お帰りなさいませ、……アラダ様」
いつの間にか隣にいたファンエーマが、ぎこちなく声をかけてきた。
アラダというのは、ラズエイダがアルタスを離れて以来ことあるたびに使ってきた偽名だ。どうやら皇国の中では既に「懸賞金のかかった王子」の噂が流れているようだったから、郵便船にいる間はこちらの名前を名乗ることとなった。
ファンエーマはラズエイダの持っていたランタンをそっと引き抜いた。そのまま温かい手が右手を握ってきて、確かな力でラズエイダを導く。
ファンエーマが進む先、船倉の奥の奥に、赤髪の女が待っていた。
足音で二人が近づいたのを察知したのだろう、テレミアは振り返りながら「や、お疲れ」と声を出した。
その左腕には既に盾が構えられている。
「寝なくて良いのか? 明日は荷物運びだ、身体を休めておくべきだろう」
「あんたとは鍛え方が違うからね。こんくらい平気平気」
「呑気なものだ」
軽く返しつつ、ラズエイダは右手に剣を生み出して、そして左手を伸ばした。
同じようにテレミアの右手が伸び、肌が触れ合う。
金銀の光が薄れた後に、一つの影が残った。
(……うん、オトは元気そうなままだね)
テレミアが抱いた安堵を、その中に混じっている靄のかかったような怯えとともに、ラズエイダは確かに感じ取った。
(しっかり食べているのだろうな。顔の血色も良い)
テレミアはドレッシュによってオトとの接触を禁じられていた。
そのため、テレミアはこうしてラズエイダの記憶を辿ってオトの様子を確かめることにしていた。
(それで、明日からドレッシュと二人で仕事ね……何吹き込まれるんだか)
(実に豊かな数の憎悪、それと独りよがりな愛情であることが望ましいだろうな。オトが靡くはずもない)
(問題は、そうじゃなかったとき、だから)
(ああ)
テレミアの抱える葛藤は、当然ラズエイダも認識している。
もしもドレッシュがオトのことを丁重に、思いやりをもって扱えば。もしもオトが「ドレッシュといる方が自分にとって良いことだ」と思ってしまえば。この郵便船での旅を最後に、オトはテレミアと道を分かつだろう。
(本当はオトと直接話したいんだけどね。いろんなことを話しておかなきゃいけなかった)
(僕を通じて、ではダメなのか? もうこれを尋ねるのも何度目かは知れないが)
(ダメ。私が直接言わないと)
(何を?)
(それは……)
答えとしてあるべき「これからも私とずっと一緒にいて欲しい」が、どうしてもテレミアの心からは生まれてこない。
これまでテレミアがオトに強いてきた我慢と苦難、これからテレミアが歩む闘乱の未来が、テレミアの心に「オトを私の元に留めていても良いのか」と罪の意識を縫い付けている。
「オトの方に私と共にいるだけの理由は存在し得ないのかもしれない」、とテレミアは考えているようだった。オトは決して戦いや血を追い求める性格ではない。ドレッシュの元で安定した暮らしを送るのが、疑いようもなくオトにとって最も安泰な未来になる。
(難儀なものだ。その上に裏切り者の話も関わってくるのだから)
(……どうするのがいいんだろう。分かんないよ、ほんと)
(だが、こうして悩んでいる間にもできることはいくらでもあっただろうな)
(うるさい)
それっきりテレミアがすねてしまったので、ラズエイダは今夜の密談を切り上げようと提案することにした。
(もういいだろう、これ以上続けるとモムルに怒られる)
(……うん)
するり、とテレミアが自分を構成する何かから欠けていって、そしてラズエイダは自分を取り戻した。
正面のテレミアは浮かない顔だ。
「ともかく、気に病むなよ」
「そうだね」
気丈さを取り繕うような笑顔が、ランタンを吹き消す前のテレミアが浮かべた最後の表情だった。
翌朝、船倉の扉が乱暴に蹴り飛ばされる音で目を覚ましたラズエイダたちは、食事もままならないままに荷運びの重労働に身を捧げることになった。
ずっしりと重みのある荷箱を抱えて桟橋を渡り、港近くの集荷場に積み上げてはまた船の側に戻って同じことを繰り返す。
どうやら郵便船が運んできたものは手紙だけではないようで、ラズエイダは紙の束の他にも一定の長さに切りそろえられた木材や香辛料のみっちりと詰まった袋などを運んだ。ラズエイダの身体が痩せぎすであるためか任されることはなかったが、他の船員の仕事を見る限りは高価な美術品なども積み下ろしているようだった。
こうしたあれこれから皇国の構築する社会の仕組みを考察するのはとても面白そうに思えたが、しかし休む間もなく押しつけられる仕事の数々に、ラズエイダの身体は早々に考えることを放棄した。
奴隷と海賊崩れにようやく休息が認められたのはもう太陽が傾き始めた頃合いで、それも見かねたヘステスが「儂の持ち物に傷がついたらどうしてくれるのじゃ」とドレッシュにかけあってのことだった。




