56. ニラギ発 7日(暫定)
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ニラギ発 7日(暫定)
今回の内容:風、熱、魔導
要点
一. 空気は均質になろうと常に蠢く、その蠢きこそが風
・空気は放っておけば均質になって動かなくなる
・何かの要因で均質でなくなることがある
人や動物、船が動いて空気を押し込む
同様の動きで、引き込む
熱の大小による動き(後述)
果てからの吹き込み
二. 熱された空気は空に昇り、逆に冷えた空気は地に沈む
・空気の特徴
例えば炎が上向きに伸びるのは「熱された空気の流れ」に乗るから
この動きが太陽の動きと共に絶えず繰り返され、風の大部分を生む
晴れた場所(空気が熱され空に昇る)
↑ ↑ ↑ 空気の流れ(風)
曇のかかった場所(空気が熱されないまま)
・薄くなる地表の空気を補充するように果てから風が吹き込む
空高くには空気が充満するが、夜間にゆっくりと冷えて元に戻る
三. 魔導の考え方
・魔導を扱うにあたり、「自然の風を再現しよう」と考えてはいけない
自然の風は「熱の風」
魔導の風は「押し込む(引き込む)風」
二つは全く別の性質を持つもの
風魔導は無理矢理に空気を動かすものと考えるべき
考察
先生は「風の言葉を聞くのです」とよく語っていたが、この考えはそれとはどうも矛盾する。(そもそも「風の言葉」とは何なのか、今もよく分かってはいないが)
しかし考えてみれば、風魔導自体が矛盾を内包するように思われる。例えば初歩の風を操る魔導は、『風よ我が意のまま吹け』と風に命令を発するような語句で放たれる。対して、空を飛ぼうとするときの詠唱には『その吹く先が私の行く先』とあり、これは「風任せ」というような想像をかき立てさせる。
ちなみにヘステスは空を飛ぶための風の扱い方を知っているし、今でも僅かな時間であれば使いこなせるらしい。(長くは身体が耐えられないから無理、とのこと。同じように年老いていたはずの先生は私を抱えて飛んでくれたほどだから、余程風の扱いに長けていたのだろう。つまり風という一点において、先生はヘステスよりも優れていたのだ)
そのヘステスは、「詠唱はただの決まり事」と言う。「語句は神々が適当に定めたもので、起句としての役目を担う音の連なりでしかない」そうだ。これもまた、風の言葉という教えとは食い違うように思える。
私としては先生の教えを信じていたいが、妥協できる場所はどこにあるだろう。
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そこまでを書いて、ラズエイダは一度ペンを宙に浮かせた。
この先を書き足すには、まだ考えはまとまりきっていない。
「……難しいな」
ぽつりと呟くと、オトが僅かに身を動かした。
今夜のオトは、昨夜と同じように躊躇いながらもラズエイダの近くに座って、そして今のところ姿を消さないでいる。
しかし相変わらず何かを話しかけてくる気配はない。
「こうして考えが行き詰まったとき、アルタスの王宮に居た頃の私はきまって水浴びをしていた。水浴びをするとよく閃きが降ってくるような気がしていたんだ。今は近くで寝ている人間がいるから、下手にうるさくすることはできないが」
オトが何か話の糸口を掴んでくれるだろうか、と少し期待しながら、ラズエイダは独り言のような語りを始めた。
テレミアはオトに「適当にアルタスのことでも訊いてみたらいいよ」と助言していたようだから、まさにその絶好の機会を生み出していることになるはずだ。
「アルタスの本島パラヴェールは大きな島でな、雲を貫く霊峰ヴェイルに端を発するカクイルという川がある。お前は見たこともないだろうが、川の幅がこの船の十倍ほどにもなるほどの偉大な大河だ。そこから水路を介して、王都中に清潔な水が配られる。王宮にも、魔導を使わずとも常に水の溢れる蛇口と呼ばれるものがいくつかあった。蛇口の下に水瓶を置いておけば、いつでも水浴びができるだけの水を溜めておけるという寸法だ。人によっては冷たい井戸水の方が好みというのもいたな。私もよく井戸水を汲んで頭からかぶっていたクチだ」
今はもう踏みしめることの叶わない祖国の風景が目に浮かぶようだ。
そんな感傷に浸っていると、突然オトが身を乗り出してきた。
「……これ」
とん、とオトの小さな指がラズエイダの書いた文字の上に落とされた。
「ん?」
突然のことに戸惑いを隠せずにいると、オトは気まずそうに首を縮めた。
こんなことで壁を感じられてはたまらない。
ラズエイダは咄嗟に「何を説明すれば良い?」と付け足した。
オトと一瞬だけ目が合って、すぐに俯くように逸らされた。
「誰? 教えて」
ようやくオトが何を言いたいのかを理解して、ラズエイダは内心でほっと息を吐いた。
オトの指が示すのは、「先生」という部分だった。
こんなにパラヴェールの話をしたというのに、結局訊くのは先生のことか、という皮肉は頭の奥深くに力の限り押し込む。
「私に風魔導、そして人としての在り方を教えてくれた師範だ。名前はフジュロと言うが、私は先生と呼んでいた。テレミアにとってのヘステスのようなものだな」
「……ん」
オトはこくこくと頷いて、また元の位置に収まった。
「……他に何か訊きたいことは?」
一瞬で訪れた沈黙に気まずさを覚えたラズエイダは、オトに質問を促してみた。
しかし、オトは小さく首を横に振った。
「また、見てるから。続けて」
「……そうか」
オトらしい端的な表現によって、ラズエイダの目の前から物書きを再開する以外の方策は失せていった。
昨日、オトと会話をするなど簡単な物だ、とテレミアに向けて威勢を張ったが、今にして思えばあれは言い過ぎただろうか。どうも一筋縄ではいかない相手だ。表情も変わらないから、何を考えているのか察知するのがとても難しい。
とはいえ、少なくとも大迷宮に辿り着くまでまだ一月以上は優に残っている。
船の上では時間は有り余っているのだから、焦る必要もない。
ラズエイダは改めて、風魔導における対立を解きほぐす作業に思考を傾け始めた。
(あー、多分だけど。最初からフジュロ先生のことを訊こうと思ってたんだと思う。すごく頑張ってようやく覚悟を決められたのがその瞬間で、それまでにあんたが言ってたあれこれはなーんにも耳に通ってないんじゃないかな)
(発言に覚悟が必要、とはどういう意味だ?)
(さあ。でもオトには要るの。それだけ)
(……筋金入りの人見知りとは聞いたが、ここまでとは)
(一応、あんたの記憶から見る感じだとオトは満足してそうだよ)
テレミアの励ましに対して何ら実感が湧かず、ラズエイダは苦い感情を抱いた。
オトの方では特にこれ以上共有すべき進捗も成果もないと思われたので、ラズエイダは気を取り直して話題を切り替えることにした。
(別の話をしていいか)
(何? ……温水魔導?)
(ああ)
テレミアが記憶と考えを読んでくるのに任せて、ラズエイダは大体の説明を放棄した。
(あれか、消滅した古代魔導のことね。ヘステスがなんか言ってたかも。えーと……)
テレミアが何を思い出そうとしているのかは定かではなかったが、同じヘステスの語ることであるのなら、ラズエイダがつい最近聞いたあれこれからそう遠くはないだろう。
(魔導の適性とは人の魂に宿るものだが、死者から次の生者へと受け継がれていく魂が分化を続けて薄まっていくと、いつしか魂から魔導の適性は失われる。そうして適性を持つ人間がいなくなり、永い時の流れの末に詠唱も失伝してしまった古代魔導……の一つが温水魔導、らしい)
(あーそう、それそれ。今も残ってる魔導は使い手が多いから、人の魂が薄まっても生き残ってるんだったっけ)
(ああ、その通りだ。だが、全ての魔導を使える上に、魔導を放つのに必ずしも詠唱を必要としない僕達であれば、そうした古代の魔導を再現できるのではないかと思っている)
(……ちょっとワクワクするじゃん)
テレミアが食いついてくれたので、ラズエイダは温水魔導の詳細について思い浮かべた。テレミアがそれを読み取って、ラズエイダの知識を彼女自身のものとした。
(よし、大体分かった。やってみよう)
(ああ)
二人でいるときには常に行使し続けている帆風の魔導から切り替えるようにして、ラズエイダとテレミアは温かい水が生じることを想像し始めた。
大量に生み出すのは難しいだろうから、生み出すのは掌の上に乗るような小さな球くらいでいい。魔導としての発動条件が何であるのかは知りもしないが、水魔導と同じように水蒸気を寄せ集めれば良いだろうか。しかしただ生ぬるい水ではなく、明確に温かく、湯気の立つような温度の水であることが求められる。
〈──〉
聞き慣れた音がした。
視界の片隅に浮かぶ縦長の四角の半分以上が紫色に染まる。
直後、求めたとおりに、差し伸べた右手の上にもくもくと湯気をたてる球体が生まれ出でた。
(おお)
(できたね)
(これほど簡単で良いのか、という気もするな)
(お湯っていうけど、これどれくらいあったかいんだろ)
テレミアがそう思うなり、左手を右手の上に回し、湯の上に手を被せた。
湯気で湿るよりも先に、熱が皮膚の表面に感じられた。
(わ、結構熱いね。これ普通の水魔導と混ぜて騙し討ちに使えたりしない?)
(面白い。少し試してみるか)
二人は一度湯の操作を打ち切った。
ぱしゃん、と甲板に飛び散った熱湯が僅かに足にも跳ねてきて、二人はわたわたと足を振り払った。
それから、改めて魔導の準備に取りかかる。
今度は、水魔導での一般的な水球と同じくらいの大きさで、しかも初速を付けて前に飛んでいくような姿を想像して───
〈────〉
(っ!)
警告音が届いたことで、二人は反射的に思考を止めた。
縦長の四角が、紫ではなく赤色で埋まっている。
(……ダメか)
(ちょっと大きくしようとしただけなのにね)
(この具合だと、古の魔導を使いこなして戦いを有利に進める、というのは少し難しいのかもしれないな)
残念に思う気持ちを忘れるために、二人は再び風を操り始めた。
ぱん、と音を立てて帆布が膨らんだのを確認して、二人は甲板上の椅子に腰を下ろした。
(ま、ちょっとでも使えるって分かっただけでも良かったんじゃない? またヘステスからなんか便利な古代魔導教わってきてさ、試してこうよ)
(そうだな、何か有用な魔導が見つかるかもしれない)
(うんうん、頑張ろ)
(とはいえ教わるのは僕ひとりで、お前は僕の努力にただ乗りすればいいわけだが)
(……なーんでそこで皮肉付けちゃうかなー)
(考えが全て筒抜けなのだからどうしようもない、我慢してくれ。お前だって僕に何も遠慮しようとしないだろうに)
(だって私はあんたの主人だもん)
(寛大な賢王たろうとする割に都合の悪いときにだけ権力を振りかざすのは、為政者として最も愚かな振る舞いの一つだと教わったな)
(うるっさいなぁ。元はといえば、あんたが迷宮で戦えるようにヘステスに仕込んでもらおうって話なんだから。黙って勉強してな)
(無論、本来の目的を忘れてなどいないさ。しっかり風の扱い方も教わっている。次に迷宮に挑むときには、僕にも少し働かせてくれ)
(はいはい、それなりに期待しとくね)
傍から見れば静かなまま、二人はやいやいと思念を交わしながら今日も今日とて長い夜を共に過ごしていくのだった。




