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迷宮世界のオデュッセイア  作者: 諭吉
二章 七つの島の新たな伝説
53/60

53. 「一冊、本を書いて欲しい」

 そうして───ニナや事情を知るものたちにとってはつつがなく───ニナの連戦連勝で試合は進んでいき、ついにニナの前にドルムが現れた。

 初戦を終えて以降は汗一つかかず、全て一撃で片付けてしまうニナを見て、観客たちも流石に何かの謀略が巡らされていることに気付いたようだった。戸惑いと不満の叫びがこだまして、修練場には異様な雰囲気が醸し出されていた。

 ドルムは空気に飲まれたか、目は血走っていて、剣を持つ手は緊張にがたがたと震えていた。


 ニナはその様子を凪いだ心で観察した。

 万に一つも負ける気がしなかった。


 銅鑼が打ち鳴らされる。


 ニナは大きく息を吸い込むドルムの方に向けて無造作に指を伸ばした。

 ドルムの身体の周囲にある魔素を全て巻き込むようにして巨大な光の盾が生み出されることを想像する。


「『魔闘・天衣』ィ!」

「『魔闘・召盾』」


 ニナに向けて駆け出したドルムの身体は、光の衣を纏っていなかった。


「───っ!?」


 己の身に起こった異常事態に気付いたドルムは両目を大きく見開き、怯えるかのように立ち止まった。


 種は簡単だ。

 ”放たれる魔導と同じ属性の魔導を行使し、周辺魔素に相手の魔導とは反対の指向性を持たせ勢いを相殺することで、魔導の発動を阻止できる”。魔導士であれば誰もが知る魔導への抵抗の技法である。

 これを魔闘術に応用できないかとヘステスが思いつき試してみたところ、他の魔導と比べて遙かに簡単に実現できることが判明した。ニナも何度か練習しただけですぐに習得できたので、実戦でも使える切り札の一つとして隠し持つことになった。


 ドルムが焦りのままに魔闘術を使おうとするのを見抜き、それに合わせて相殺をかけた結果が、この取り乱すばかりのドルムの姿である。


 もしドルムが落ち着きを保てていれば、同じように天衣を纏っていないニナに向けてせめて一撃は加えなければと考えることができたかもしれない。

 しかし、ドルムの頭に意味のある思考が生じることはついぞなかった。


 隙だらけのドルムの腕めがけてニナは剣を振り下ろした。


 鈍い音がして、ドルムの「がああああっ!」という悲鳴が続いた。

 ()()()骨の折れた腕で剣を保持することなどできるはずもなく、ドルムの手から剣が滑り落ちた。


 ドルムの背後に回り込んで、そして背中から、丁度心臓がある位置に剣を突き込む。


 潰れた刃は当然防具を貫きはしないが、しかしその一撃は勝敗を決する有効打となるには十分過ぎた。


「勝者、花のニナっ!」


 こうして、ニナは自らの望む新たなニラギへの第一歩を踏み出した。




 花の島の小さな港で、テレミアは見送りにきてくれたニナや他の者たちと最後の別れの挨拶を交わしていた。


「本当に、お礼は差し上げなくともよろしいのですか?」

「だから気にしないでくださいって、ニナのおかげで木の部族からちゃんとカンバの懸賞金をもらえましたから」


 硬貨の沢山詰まった袋の重みを思い出しながら、テレミアは心配そうな顔をするザグに答えた。

 試合が終わった後、木の部族がカンバのしでかした無礼をニナに詫びにやってきたらしい。ニナはその償いとして、カンバにかけられていた白金貨五枚の懸賞金をテレミアたちにしっかり支払うことを命じ、そして必死にかき集めたのだろう、金貨や銀貨まで詰め込まれた袋が届けられたのがつい昨日のことだった。


 そうやってしたたかにお金の取り決めもこなしてしまうしっかり者のニナは、今も相変わらずヘステスと二人で何かを話している。最後の最後まで学び続けようとする貪欲な姿勢は、きっとこれからのニラギに善いものをもたらすのだろう。


 他の者たちとの挨拶を終え、更にしばらく待っても二人の話が終わる気配がしなかったので、テレミアは無理矢理ヘステスの背中を船の方に引いた。


「ほら、いい加減行くよヘステス」

「むう、ここまでか……!」


 心底悔しそうに顔を歪めるヘステスを見て、ニナは朗らかに笑った。


「いいんです、私はもう十分良くしてもらいました。あとは、自分で答えを見つけていきます」

「うむ」


 その言葉はヘステスのお眼鏡にかなったようで、老人は満足げに頷いた。


「約束は覚えておるな?」

「勿論。本ですよね」

「よし。励むのじゃぞ」

「はいっ!」


 何のことかテレミアには分からないやりとりが交わされて、そしてようやくヘステスは船に乗り込んだ。


 その後を追って船に上がる前に、テレミアは振り返ってニナの両肩にそっと触れ、少し屈んで顔の高さを合わせた。


「私からも。頑張ってね、きっと全部上手くいくって信じてるから」

「はい。本当に色々お世話になりました」


 いつか見た空虚など見る影もなく、凜として、そして晴れ晴れとした表情がその顔に浮かんでいるのが、テレミアにとっては何よりも嬉しいことだった。




 ニラギを旅立って少し寂しくなった船の上で、テレミアとラズエイダは相変わらず夜の見張り番を二人でこなしていた。


 どうしたって二人の間での話題はヘステスのことになった。


(ヘステスはああした、合理と幸福を重んじる行動原理を持つだけの……有り体に言えば変人だったわけだ。それも、国一つを己の信念のために変えてしまうほどの)


 変人、という言葉で濁されてはいたが、そこにはラズエイダの正直な感情が詰め込まれていた。


(いいんだよ、あのジジイ頭おかしいだろって言っちゃいな。どうせ私には伝わってきたし)

(……まぁ、常人には辿り着けない境地に達しているのは間違いない)

(流石王子様、お言葉がお綺麗ですわね)

(よせ、お前のような言葉遣いをエマの前で出したくないだけなんだ)

(わあ可愛いとこあるじゃん)


 からかってやるとラズエイダが照れ隠しに怒りの感情を叩きつけてきたので、テレミアは(ごめん、ごめんって)とひたすら赦しを請うた。


 しばらくしてラズエイダが落ち着いたので、テレミアは本来共有したかったことを共有することにした。


(ともかく、ヘステスが裏切り者だって考えるのはちょっと難しくなったね)

(そうだな。例の信念に従えば、ヘステスがお前の幸福を求めるのであれば裏切るはずもないし、逆にラグーダに付き従っているとすればお前はとっくのとうに破滅しているのが合理的だ)


 そうすると、これからテレミアとラズエイダが考えるべきことは、少し変わってくる。


(残りは二人って思っていいのかな)

(そうかもしれないな。無論、確証を得たわけではないが)

(ちょっとやりやすくなるなぁ。ほんのちょっとだけど。気楽でいいや)


 息を吐き出すような気分で伝えると、ラズエイダは少しの間静かになってから、おずおずと切り出してきた。


(やはり、演技をし続けるのは疲れるか)

(んー、でもずっとそうやって生きてきたし? 今更でしょ)

(取り繕わなくともいい、伝わる)


 包み隠さない心配と同情の気持ちを受け取って、テレミアは暖かさを胸に抱いた。

 とはいえ、である。


(今の時点で他に何かできるってわけでもないからね。私が背負ったものだから、ちゃんとやりきるよ)


 ラズエイダはテレミアの決意を聞いて、(そうか)とだけ思念を浮かべた。




「『風よ』」


 ラズエイダが魔導で帆風を生み出し、船はゆっくりと港を滑り出していった。

 

「ありがとうございましたー!」


 遙かに小さくなっていく船の上の六人が目で追えなくなるまで、ニナは手を振ることを止めなかった。


 やがてニナは手を下ろし、そして大きく息を吸い込んだ。


 やらなければならないことはいくらでもある。不満を抱えた麦の部族との折衝だの、相変わらず魔物の活発なままの迷宮をどうするだの、文字通り仕事が山積みの状態だ。まだ新しい国の方針を布告することすらしていない。


 それでも、すべきこと、自分ができることはしっかり分かっている。


「よし」


 小さな決意の声を海の方に吐き出して、波間に吸い込まれそうな心にしっかりと区切りを付ける。

 ニナは花の島の方に振り返って、確かな足取りで歩き始めた。




 これからニナの導くニラギにおいて、遙かな昔から伝えられてきた花にまつわる知恵の数々は徐々に姿を消していく。

 自由な移動と職業の選択が認められるようになるのだから、薬づくりという金にならない仕事に好き好んで就こうとする人間はそう現れないだろう。



 ある夜に、いつか花の島からは人すらもいなくなってしまうのではないか、とヘステスに尋ねたことがあった。老人は静かに頷いて、こうニナに問い返した。


「おぬしはそれを不幸と思うか?」


 ニナはしばらく考えて、「いいえ」と答えた。


「飢える人がいなくなるのなら、誰も不幸にはなっていないと思います。今の状況を知る花の仕事が好きな人は、仕事仲間が減っていくのを悲しむかもしれませんけど、二代、三代と長い時間が経てば誰も悲しいとは思わなくなる。これで合ってますか?」


 ヘステスはにこりと笑って、「よくできておる」とニナを褒め称えた。

 しかし、そこで問答は終わらなかった。


「では、おぬし自身はどう思う?」


 ニナはさっきよりも長い時間考えて、結局上手く理屈をつけられずに、最初の直感をそのまま答えにすることになった。


「……寂しいです。きっと、寂しく思うはずです」

「それもまた、間違いではない」


 ヘステスは優しい声でニナを肯定し、座る姿勢を正した。それが何か重要な物事を告げる前の合図だと知っていたから、ニナも合わせて背筋を伸ばし、ペンを握り直した。


「おぬしは二つの感覚を併せ持たねばならぬ。国を治め、民の暮らしを正しく導くための広い視点と、国に暮らす者が実際に見て感じるものを想像できる豊かな心の二つじゃ。二つは時に交わり、時に相反する。どちらに重きを置いて政を進めるか、常におぬしは自省と共に再考を続けていくことになるであろう」


 「国を治める広い視点」「人々の実感を想像する豊かな心」の二つを書き留めて、ニナはしばらく頭を捻った。


「……つまり、私は花の島から人が離れるように誘導することも、花の島が寂れてしまうのを悲しむ人を尊重することも、両方しなくてはいけないんですか?」


 それらは互いに矛盾していて、達成できないことのように思えた。

 ヘステスは髭を撫でて、少し考えてから「難しい問いじゃ」と口にした。


「今の儂には、適切な答えを生み出せはしない。おぬしや、おぬしと共に立つ者、そしておぬしの後を継ぐ時の為政者が、何を以て最大の幸福とするかの信念に基づいて判断を下すことになろう。一方を切り捨てるも、双方を追い求めるも、共に答えたり得る」

「信念、ですか」


 ニナは耳にした新しい言葉を意識的に呟いた。

 とても強く、同時にとてもあやふやな言葉だと感じた。


「うむ。少数の者に不幸を押しつけ他全員の大きな幸福を得ようとする、皆で平等に僅かな幸福を得ようとする、或いは過去から未来にかけての幸福の総和の最大化を追求する、全て理にかなった信念たり得るであろう。幸福そのものの定義もまた───」


 それ以降の話はニナにはよく分からなかったから、ニナはただヘステスの発言を書き留めることに集中した。

 いつか大きくなったときに見返してみれば、分かるのかもしれない。そう思って書き留めた「わからなかったこと」の数々は、既にニナの部屋の棚の一つをぎちぎちに占有していた。


「───決断を下さねばならぬときどの信念に基づくかは、まあ好みと、あとは駆け引きじゃな」


 語り終えた後のヘステスは、ニナが手を止めるまでいつも静かにしていてくれる。

 今回もその例に漏れず、ニナが必死にペンを走らせているうちに新しい話題が降ってくることはなかった。


 ペンを置き顔を上げると、ヘステスは目を閉じていた。先程からずっと髭を撫でている手は、相変わらず同じ場所にあった。


 虫の鳴き声が届くほど静かな時間がしばらく続いて、そして不意にヘステスの目が開かれた。


「……とはいえ、連綿と紡がれてきた知恵そのものが泡と消えるのは、やはり惜しいものじゃの」


 独り言のような声量で呟いたヘステスは、顔を上げ、ニナと真っ直ぐ目を合わせた。


「儂から一つ、頼みがある」


 ニナは素直に驚いた。

 それまでヘステスから頼みごとをされたことは一度もなかった。

 

 ニナが驚いて反応できなかったのをいいように受け取ったのか、ヘステスはそのまま続けた。


「一冊、本を書いて欲しい。この島で紡がれてきた数々の知恵、知識を、おぬしの手でまとめ、記録に残すのじゃ。未来永劫、花の部族の存在が消え去らぬように」


 最後に付け足された一句のおかげで、それが花の部族のため、そして寂しいと言ったニナのためを想った”頼み”であることが分かった。


 ニナは一も二もなく頷いた。紙に「本を書く」と書き留めておく必要は、感じなかった。



 その夜の最後に、ニナはヘステスに尋ねた。


「ヘステスさんは、私が書く本を読みたいですか?」


 ヘステスが本をこの上なく好いているのはニナも知っていた。

 そんな人間が「本を書け」と頼むのだから、そこにはきっと読みたいという欲求が隠れているのだろう、と考えるのは自然なことだった。


 しかし、意外にもヘステスは笑って首を横に振った。


「読みたいのは当然としても、()()()()()()()()であろうな」


 読めない方が良い、とはどういう意味か。

 何を言えば良いか分からず曖昧な顔でいると、ヘステスはニナの肩にぽんと手を置いた。


「儂が死ぬまでに完成させようと甘えられる程、この島が重ねてきた歴史は浅くはあるまい。出来上がったなら写本を墓にでも供えてくれ、儂はいつまでも待っておるぞ」

「!」


 さらりと付け加えられた言葉は、まるで夜の海のような深さでニナの身体に染み渡った。

 ああ、終わりを決めてくれないなんて、この人はとんでもないことを言う。


 ニナは老人の顔に浮かぶ笑みが、年甲斐もなく随分といたずらっぽいものであることに気付いた。

 揺れる長い睫毛の奥に光る目はきっと、より良い本を書くためにあれもこれも、と終わりなき模索を続けるニナの未来を見つめていた。


「……はい。必ず」


 ニナは強い決意を込めて返事をした。

 それは、ニナの生涯をかけた仕事が一つ増えた瞬間だった。


ここまでをお読みくださったあなたに感謝を。

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