5. ミノタウロスの王
階段を登り切ると、正面にミノタウロスの王が待ち構えていた。
これまでに相対してきたミノタウロスたちよりも、二回りは体躯が大きいだろうか。
鈍く太陽の明かりを跳ね返す大斧を構える威風堂々とした姿からは、いかにも王というような風格が漂っている。
テレミアは真っ直ぐ牛の顔に向けて剣先を伸ばした。
「その首、もらっていくね」
その声が開戦の合図となった。
テレミアもミノタウロスも前方へと駆け出し、二十歩ほども離れていた両者の間合いは一瞬で詰まった。背の低いテレミアよりも先にミノタウロスが斧を振りかぶった。
ヘステスの教えが脳裏によぎる。
───単純じゃが、斧の振り下ろし、横薙ぎがかの魔物の攻撃の中では最も速く、重い。おぬしはそれとやり合おうとしてはならぬ。
振りの角度を観察する。横薙ぎ。
であれば、回避方向は前か後ろか。
「『脚』」
懐に突っ込んだ手の中でオトの術のかかった札が燃え尽きるのを感じながら、テレミアは加速した。
一瞬でテレミアはミノタウロスがまさに斧を振り抜こうとしているその向こう側まで辿り着き、そして叫んだ。
「今!」
声に呼応するようにして、気配を消したオトが密かに転がしていた木筒が弾け、辺り一帯に煙が立ちこめる。
斧を振りかぶった姿勢のミノタウロスはテレミアを見失い、その場から動けなくなった。
テレミアは即座に切り返し、ミノタウロスの広い腹を目がけて剣を握っていない左の掌を突き出した。
掌に集約した魔素が天から降る雷へと変じて迸り、魔物の肉を灼き貫くことを想像する。
「『雷よ』っ!」
触れる直前から詠唱を始め、接触時間を最小限に抑える完璧な瞬間に魔導を行使する。斧をやたらめったらに振り回される前に離脱し、負わせた傷を見計らう。
しかし、煙が晴れた時、そこにはほぼ無傷の状態で変わらずミノタウロスが立っていた。
───おぬしの勝利条件は一つ。斧をかいくぐって王の肌に触れ、電撃を送り込むこと。皮膚が分厚い故おぬしの膂力ごときでは剣が通らぬからの。しかし、今のおぬしの技量では雷すら皮膚を貫けぬやもしれぬ。
故に、テレミアは別の方策を進める。
相対する人間が己の脅威であると認めたらしいミノタウロスは、じっと動かずテレミアの出方を伺っている。
「煙」
オトの煙幕が再度石畳の広場を白く染める。
ミノタウロスはその技は一度見た、と言わんばかりに即座に後退し、煙の薄い場所で油断なく斧を構えた。
煙の中から刺突剣を振りかぶったテレミアが現れ、ミノタウロスの武器を構える手とは反対側の脇腹を狙う。
ミノタウロスは吠え、急速に迫るテレミアに正対し辛うじて斧での迎撃を間に合わせた。
勢いよく振るわれた斧が速度の乗って止まることのできないテレミアを叩き潰す。
しかし、飛び散ったのは血ではなく、水飛沫のような煙であった。
驚きもつかの間に、ミノタウロスは己の背後から伸びる影を白いもやのなかに見てとった。
オトの行使する陽炎を囮としてミノタウロスの背後をとったテレミアは、がら空きの背中を踏み台にして高く飛び上がり、牛頭を膝と胸で抱え込むようにして、ピンと伸ばした左手を真っ直ぐに顔に向かって突き込んだ。
ぐじゅり、と指先が嫌な感触を伝えてくる。
「『雷よ』!」
ヘステスとの血を吐くような訓練の末にようやく僅かな適性を見出し使いこなせるようになった、数ある初歩の魔導の中でも最も攻撃力が高い魔導。それを、テレミアは何の躊躇いもなく、ミノタウロスの眼球に叩き込んだ。
───魔物かて生物である以上、いかにしても守ることのできない弱点というものが存在する。肺、眼球、といったところじゃの。そこを狙うことを起点として戦法を組み立てるのが常道じゃな。おぬしには肺を満たすための水の魔導は使えぬ故、眼球を貫くのがよかろう。
ミノタウロスは痛みに悶えて大きな叫びを上げ、斧を放り捨てて滅茶苦茶に頭を振り回し、その場に膝から崩れ落ちた。
弾き飛ばされたテレミアは、決着を付けるべく、更なる一手を残ったもう一方の眼球に放とうと剣を構え突進した。
前触れなく、ミノタウロスの腕がブレた。
テレミアは本能的な反応に身を任せ、攻撃を諦め防御姿勢をとった。
次の瞬間、テレミアの身体は強い衝撃を受け宙を舞った。
「が、っ」
無様に石畳に叩きつけられ、そのまま地面を転がる。
脚を放り出して回転を止める。
目眩と戦いながら立ち上がり、どうにか剣を構える。片目から血の代わりに光の粒を立ち上らせる魔物は、さっきまでの無様な姿をどこに置いてきたのか、鼻息荒くテレミアを怒りに滾った形相で睨んでいた。
どうやら、敵には演技をする程度の知恵もあるらしい。
じりじりと距離を詰めてくるミノタウロスと一定の距離を保つように後退しつつ、被った被害を確認する。
幸いにも手足は今のところ石畳で擦ったくらいで健在だ。
まともに殴打を食らった胴が一番酷い。おそらく脇の下辺りで肋骨が折れているのと、腹に鈍く重い痛みが残っている。内臓がひしゃげていないと良いが。
小さく頭を振って、痛みを意識から切り離そうと努める。
指示を出してはいなかったが、テレミアの負傷を庇うためか煙が戦場に満ちようとしていた。
ミノタウロスは不満げに鼻を鳴らしつつ、テレミアに追撃を加えるのを諦め効果範囲から逃れていった。
オトが稼いでくれた時間が、テレミアに残された勝利への最後の可能性だった。
必死になって頭を巡らせ、策を考える。
手の内はおおよそ見せきった。
次に同じことをしたところで、おそらくミノタウロスは背後をとらせてはくれない。
そして、もう一撃を食らうことに、私の身体は耐えられないだろう。
……一つだけ、手札が残っている。本当なら頼りたくはなかったが。
テレミアは左腕に盾を呼び出した。
まるで昔から慣れ親しんでいたかのように嫌になじむ感触を確かめながら、頭に新たな戦略を描き出す。
「オト、次の陽炎は私と同時に突っ込ませて」
緊張と苦悶がオトに伝わらないように、テレミアはできる限り明るい声で指示を出した。
返事こそ届かなかったが意は汲んでもらえていると祈りつつ、懐から札を二枚取り出して盾ごと左手に握りしめ、好機を待つ。
「ここっ!」
煙幕が薄れだした瞬間を見極めて、テレミアは敢えて敵の正面から飛び出した。
白く霞む視界の中にもう一人の自分が映り込んだ。オトが自らの指示を違えずに遂行したことを把握して、テレミアは一気に加速した。
どちらが陽炎の方かなど知るよしもなく、ミノタウロスは一瞬迷い、故に斧の描く軌道にブレが生まれる。先ほどの攻撃が効いているのか、その速度は最初に見たものよりもずっと遅い。
こうして生まれた勝ち筋を、テレミアは見逃さなかった。
「『腕』!」
身体強化の札を燃やしながら斧の軌道をすらすように左腕の盾を滑り込ませ、同時に全力で斧の攻撃範囲から身体を逃す。
盾と斧が衝突する瞬間甲高い金属音がして、左肩にはじけ飛ぶような衝撃が叩きつけられる。
腹の鈍痛が衝撃に共鳴し、身体が軋む。
「ッ、あああ!」
苦痛のあまりに漏れた呻きを、テレミアは活力の咆吼に繋げて無理矢理かき消した。
盾は与えられた役目をしっかりと全うした。
斧の切っ先が描く縦方向の筋は盾との衝突によって大きくずれ、生まれた隙間を縫うようにしてミノタウロスの懐に五体満足の状態で滑り込む。
「『脚』!」
脚を強化して高く飛び上がったテレミアは、跳躍の勢いを乗せて残ったもう一方の眼球に思い切り剣を突き出した。
刺さったことを手の感覚で確認した瞬間に、テレミアは剣を手放した。自由になった右手を伸ばし、ミノタウロスの眼球から生えるような格好となった刺突剣の、最も眼球に近い刀身部を素手で握りなおす。
「『雷よ』ッッ!!」
稲妻、そして轟音のような断末魔。
二種類の音が広場を満たし、そして薄れていった。
やがてミノタウロスが握っていた大斧が地面に叩きつけられる鈍い音がして、それが戦いの決着を告げた。
オトが霞の術を解いて駆け寄ってきた。
「ミア、無事!?」
「うん、大丈夫。生きてるよ」
「お腹は? 絶対痛んでるはず」
「んー……」
相変わらず、鈍い痛みは治まる気配がない。
「帰り道はちょっと厳しい、かも」
痛みを堪えながら無理矢理笑顔を作って答えるも、その姿をみてオトはむしろ唇を噛んだ。
「もし、本当に辛いなら、私が外に走ってヘステスを呼んでくる。ミアはあの階段の中で隠れてて」
それは成人の儀を途中で放棄しようという提案に他ならなかった。
嫌、と反射的に答えようとしたとき、喉に何か温かいものがこみ上げてきて、テレミアは声を出す代わりに大きく咳き込むことになった。
吐き出されたものは赤い色をしていた。
「ミア!」
テレミアはぺたりと座り込んだ。
激しい目眩と吐き気が止まらない。
「……ごめん、もう立ってられないや」
「待ってて、ヘステスを」
「オト」
駆け出そうとしたオトの服の裾を掴み、柔らかな声を意識して呟く。
「いいよ。たぶん間に合わない」
搦め手を主体とする暗躍が生業のオトにとって、正面戦闘というのは全く得意とするところではない。身を隠す場所のないこの迷宮の奥地まで進んでこられたのは、テレミアという光の影に潜むことができたからに他ならない。
しかし、今の状態ではオトは一人で迷宮を進まなくてはならない。おそらく、時間をかけさえすれば不可能ではないだろう。息を潜めてミノタウロスの視線をかいくぐり、必要であれば煙に巻けば良い。
時間をかけさえすれば、だ。
焦るオトが冷静に迷宮を抜けられるとは、とても思えなかった。危険を顧みず魔物たちの闊歩する草原を真っ直ぐ突っ切ろうとすれば、すぐに複数の魔物に囲まれて、それで終わりだろう。
自分なんかのためにオトが死ぬことを認めたくなかった。
オトにはもっと、広い空の下で、好きなように、しがらみなく生きていてほしかった。
テレミアは痛みを堪えながらゆっくりと剣を鞘に収め、涙を浮かべるオトに感謝を伝えるべく口を開いた。
「私の力が足りなかったってだけだから、絶対に気にしないでね。今まで本当にありがとう、オト。もう、弱っちい私なんかに従わなくたっていいから。誰でも、好きなキャプテンを選んで、生きてね」
心の底からの笑みを浮かべて、テレミアはオトの手を握った。
オトはテレミアの身体に縋り付こうとして、しかしそうすることで痛みが生まれてしまうと気付いたか、抱きつくかわりにその場に崩れ落ちた。
「そんな、こと、言わないでっ……」
二人の側でミノタウロスの王の骸が光に解けていく。
やがて光が無数の粒になるように崩れ今にも天に昇らん、とした頃に、テレミアは左腕の盾が脈を打つように震える感覚を覚えた。
腕に収めるのを忘れていたな、と思いながらぼんやりとそちらを見る。
「あれ?」
盾が、崩れる魔物と同じような柔らかな光を発していた。
その光はテレミアの見つめる先で段々と強さを増していく。
そして、不思議なことが起こった。
ミノタウロスの王から生まれた光の粒が、一つ残らず盾に飛び込んだ。
「何、これ」
天に昇るはずだった光は盾の光と交わり、溶け合い、そして段々と薄れていく。
そして、テレミアの左腕には先ほどまでと全く見た目の変わらない盾だけが残った。
「光が、吸い込まれていった?」
「そうとしか見えなかった……どういうこと?」
「私に聞かれても分かんないよ……」
いよいよこの盾のことが分からなくなった、と思った矢先、テレミアはあることに気が付いた。
身体のどこと言えば良いのか、内側の芯の部分に、何か普段とは違った感覚がある。熱さとは違った、しかし何か滾るものが、身体を満たしている。
目を閉じてその滾るものの正体を探ってみれば、直感的に答えが浮かび上がった。
「……ちょっと、いい?」
テレミアはその答えを確かめようと、立ち上がってオトの背中に右手を回し、彼女の身体を持ち上げた。
「え、立って、ひゃっ」
片手で担ぐだけで、軽々とオトの身体は宙に浮いた。それに、オトを担ぐのにそれなりに負荷がかかっているはずなのに、さっきまであれほど身体を締め付けていた痛みがまるで嘘だったかのように消え失せている。
足をばたつかせるオトの様子を視界の片隅に収めながら、もう一方の手で痛みの取れた腹をさする。
全く苦しくない。むしろ、普段よりも調子が良いくらいだ。
「……ミア、大丈夫、なの?」
そっとオトを地面に下ろす。
彼女の頬に流れるものを優しく拭いながら、テレミアははにかんだ。
「うん。……なんか、格好つけたみたいになっちゃった、わっ」
オトが胸に飛び込んできたのを、テレミアは辛うじて倒れずに受け止めることができた。
「よかったっ……!」
オトはわっとテレミアの肩に縋り付いて震えるように泣き出した。
テレミアは何かを口にしようとして、それを諦めた。気恥ずかしさと嬉しさと、他にもいろんな感情が入り交じった今の気持ちを、言葉で表現することはできなかった。
かわりにしばらくの間、テレミアはオトのことをそっと撫でていた。




