4. 始まりの時
階段は長く、深く、しばらく下っても尚終着点がどこになるのか分からない有様だった。
一息つこう、とテレミアは立ち止まり、後ろを振り返って顔を引き攣らせた。
「参ったなぁ。こんな降りちゃうと帰るのが面倒だよ」
既に草原の匂いは遠く、どこまでも広かったはずの空はただの豆粒のように小さく見える。
階段を下っているだけなのに足が疲れてきているような感覚すらある。
「最奥の魔物さえ倒せば休憩はできるはず。今はそう信じるしかない。……ん」
隣で同じように立ち止まったオトが、気を利かせて水筒を差しだしてきた。
テレミアは何気なく口をつけようとして、そこである問題に思い当たった。
「どこかで進むか戻るかの目処をつけておかない? 帰りの分の水と食料が足りない感じなら、一度戻ってしっかりした量を持ち込まないと」
手に伝わる感触からして、残りの水は水筒の半分を少し上回るくらいだろうか。
今はまださして危機的な状況でもないが、仮にこの階段を降りるまでに水を飲み干してしまうようだと、帰りにかなり苦しい思いをすることになりかねない。
喉の渇きは死に直結する。魔物を相手にして集中を欠けば、当然待っているのは身の破滅だ。
オトは目を伏せて考えてから、ゆっくりと首を横に振った。
「……そうすると、きっとミアはみんなに馬鹿にされる」
オトが言いたいことは、テレミアにもよく分かる。
一度成人の儀を始めた後にミノタウロスの王を倒すことなく迷宮の外に出るというのは、つまるところ「成人の儀に失敗した」ことを意味する。
再挑戦を禁じる掟は存在しないから、準備を練り直すことはいくらでも許されている。
しかし、長い怒牛海賊団の歴史の中で、成人の儀に成功し損ねた人物が船団長の座に収まったことはない。その程度の才覚でキャプテンは務まらないし、荒くれ者たちはその程度の存在を自分たちの命を預けるに値する実力者として認めない。
近年ではむしろ「失敗しない」ことにこそ価値があるとまで思われているし、テレミアの前に挑戦した十四人は皆当然のように一回の挑戦で兜を持ち帰っている。
もし、これからテレミアが一角の人物として海賊団の中で認められようとするのなら、成人の儀を途中で諦めるような真似は間違いなく悪手になるだろう。
テレミアもそれは当然分かっている。
分かっていても、どうしようもない。テレミアには力がない。武力も、財力も、権力も、なにも。
ないものづくしの現状で、どんな理想を望めば良いというのだろう。
「良いよ、馬鹿にされるってことは下に見てくれてるってことでしょ? 警戒を解けるならむしろそっちの方が良いかもね」
無理矢理とってつけた正当化のための言葉を、笑顔で自信ありげに口にする。
オトがどんな顔をしているのか見たくなかったから、テレミアはそそくさと階段を下り始めた。
背後でため息が聞こえた。
「……分かった。なら、今」
オトの言葉が不自然な区切りでぶつ切れになって、途絶えた。
「オト?」
振り返る。
そこにはただ白い壁が広がっているだけで、誰の姿もなかった。
「ッ!」
テレミアは即座に剣を抜いた。
前に向き直ると、そこにはつい数瞬前までとは全く異なる光景が広がっていた。
高い天井と真っ白な壁に囲まれた、入り口も出口もない四角い空間。
灯りもないのに視界は明るく、この場所が地下空間だとは到底思えない程だった。
「閉じ込められた……!?」
何らかの罠にかかってしまったのだろう、とすぐに想像がついた。それも、強制的に隊列から孤立させる、かなり危険度の高いものに。
罠の存在など考えることもせずのうのうと歩いていた自分の姿を思い返し、テレミアは唇を強く結んだ。
募る焦りを隠せないままに、何か使える物がないかとテレミアは必死に辺りを見回した。
部屋の最奥部に、何か光を反射するものが据えられているのが見えた。
そっと近づき、観察する。
「……盾?」
置かれていたのは小型の盾だった。
装飾は最小限だが、よく手入れされているのか作られたばかりかのような輝きを放っていた。銀色の表面が、のぞき込むテレミアの髪の赤色を美しく映している。
「踏破報酬……のはずないね」
まだミノタウロスの王を倒してもいないし、そもそもこの迷宮の踏破報酬は牛の兜なのだ。盾が出てくるなど、ヘステスからも一度も聞いたことはない。
そっと剣を握っていない方の左手を伸ばし、盾を手に取る。金属で出来ているように見える表面は、テレミアの左手に嫌になじみ、冷たさを伝えてはこなかった。材質は明らかに鉄や真鍮などではないだろう。裏面には取っ手と手を通すための革の装具がついていて、片手で扱うことを想定された盾であるのが見て取れた。
テレミアは何度も盾を回してひっくり返しながら、どこかに不自然なところがないか確かめた。しかし、元々盾の据えられていた台座を含めても、特にこの部屋を出る手がかりになりそうなものは見当たらなかった。
「これでどうしろっていうのさ」
答えはない。
テレミアはため息をついて、改めて盾を手に取り、せめてそれを自分の物とすることにした。
普段、左手は雷魔導を扱うために空けているが、盾を使った戦闘も一応修めてはいる。
もし堅さを備える優秀な盾であるなら、役に立たないということもないだろう。この場を出ることができて、再び何かと戦うことがあれば、の話になるが。
「もらえるならもらっておくからね!?」
この空間を作ったであろう悪意ある存在に対して一応の挨拶を投げかけて、テレミアはつっと盾を放り投げ、落ちてくるのに任せて装具に左腕を通した。
それが、テレミアの運命を定める瞬間となった。
刹那、盾は溶けるようにして幾重もの光の筋に解け、蛇のように鋭く走る銀色の糸となってあっという間に織り上がりテレミアの左腕を包んだ。包まれた部分の肌が燃えるような熱を持ち、その熱は銀色の生地が肌と一体化するのと合わせすぐに骨身へと浸透していく。
「!?」
テレミアは驚いて思わず手を振り払った。しかし、その動きに妨げられることなく変化は続いていく。
テレミアの腕を包む銀糸はあれよあれよと左腕から肩へ、肩から首、胸へと伝播し、着ていたはずの服を無視してその下にあるテレミアの身体に直接潜り込む。
「何っ、これ!」
熱こそあれど痛みはなかった。が、未知の現象に対しての怯えがテレミアから冷静な思考を奪っていた。
半狂乱になって剣を放り捨て、顔の半分ほども覆いだした盾だった何かを両手で引き剥がそうとする。しかし不思議なことに、「触れた」という感触だけを残して、テレミアの手は銀色の物体に干渉することなくただ無為に肌を掻くばかりだった。
やがて視界が一面の銀色に染まり、そして頭の中までもが沸騰するかのような感覚に襲われる。
かつて経験したことのない衝撃に耐えることができず、テレミアはそこで意識を失った。
靄のかかったような世界から浮かび上がる。
テレミアはすぐに夢と現実の境界を越えたことを知覚した。己が敵の罠の只中で気を失っていたことに思い至り、反射的に腰に提げている剣を抜く。
「ミア!?」
「……オト?」
背後からオトの驚いた声がして、それでテレミアは自分が元の階段に戻されていることに気が付いた。
どうしてかは分からないが、気絶したことで仲間と合流することを許されたらしい。
見えない敵の意図を汲みかねて、テレミアは首を捻った。
「どうしたのミア、敵?」
「……敵というよりは、罠」
「嘘、私の目には何も」
「私の近くにいて、またいつ飛ばされるかわからない」
「飛ばされるって、どこに?」
「え、どこにって……」
テレミアは戸惑った。どうも、オトの反応が鈍い。
「オト、そっちでは何があったのか聞いてもいい?」
オトは細い眉をひそめて答えた。
「そっちでは、って、どういうこと? 私はずっとミアと一緒に階段を下ってる」
「……え?」
嘘をついているような雰囲気はない。
「落ち着いて、私たちの周りには敵の気配も罠の存在も感じられない。ミアの方こそ、何があったの?」
そっと諭されて、テレミアはゆっくりと構えていた剣を下ろした。
「……何の前触れもなく白い空間に一人で飛ばされて、そこで盾のような見た目の……魔物じゃないとは思うんだけど、魔物みたいなのに襲われた。そのあと気を失って、目が覚めたらここにいた」
「……?」
不可解な食い違いの中で冷静に事態を把握しようとしているうちに、テレミアはある違和感に気が付いた。
私は、どうして腰に提げた剣を抜くことができたのだろうか?
盾に襲われたあの時、剣を放り捨てて無我夢中で顔をかきむしっていたはずなのだ。
その剣を気を失うまでに回収した記憶がない以上、さっき腰に提げられていたというのは、どう考えてもおかしい。
脳内で状況を整理する。
「私は夢のようなものを見せられたのかもしれない。一瞬で」
オトが視界に捉えていた限りで何も変化が起こっていないというのなら、体験した全ては幻だったと考えるのが妥当なのかもしれない。
そうだ、腕や身体に何か跡が残っていたりはしないだろうか。
「ちょっと確認して良い?」
左腕をまくる。あれほどの熱を受けたというのに、特に傷も何もない、別に銀色に染まってもいない、見慣れたいつもの肌が現れた。
つまり、あれはやはり夢だったのだろうか。
というよりもそもそも、盾が溶けて身体に吸い込まれるという現象自体が現実には起こるとは到底思えない。
……けれど、その割には腕や頭の中に残る感触はあまりに生々しすぎる。
左腕をしげしげと眺めていると、オトが怪訝な顔で聞いてきた。
「盾に襲われたっていうのは、そこを攻撃された?」
「そう。最初はこれ見よがしに置かれてた盾をここに装備したんだけど」
答えを口にしながら、テレミアは一度手に取ったはずの盾の感触を思い返した。
次の瞬間、テレミアの左腕から銀色が染み出した。
夢の中で見たあの悍ましい光景と酷く似通っているその現象は、テレミアとオトが驚きに目を見開く中で、急速に進行していく。
光り輝くようにも見える糸たちは細かく踊るように絡まり合って、やがて一つの形を成した。
変化が終わった時、テレミアの左腕には夢の中で拾った盾が装備されていた。
「……何、これ」
オトが呆然と呟き、そっと手を伸ばした。盾に触れ、一度手を離し、爪で何度か弾く。キン、キン、と乾いた音が響いた。当然のように、そのたびにテレミアの左手に振動が届いた。
「ええと……夢の中で私を襲った盾」
「……嘘」
「私もちょっと信じられない」
「今は襲わない?」
「どうだろう……」
襲われた時の光景を思い浮かべる。
すると、盾は一瞬で溶けた。
思わずテレミアは身構えたが、今回は盾が包み込むのは左肩までの範囲に留まり、熱さも感じなかった。
「これ、ひょっとして」
盾を持っている状態を意識する。盾が現れる。
盾を自分の身体に戻すよう念じる。盾が溶けて腕に収まる。
何度かそれを繰り返して、テレミアは一つの結論を得た。
「なんか、私この盾を好きにできるみたい」
二人は目を合わせ、何を言えば良いかも分からず、それぞれ僅かに口角の歪んだ引き攣ったような笑みを作った。
「似たような現象に心当たりはある?」
「思いつかない。そもそもミアの引っかかった罠の仕組みからして意味不明」
「そんなに?」
「夢を見せるだけならまだしも、一瞬のうちに長い時間を体感させるとか、現実に夢の中身が出てくるとか、どちらも聞いたことがない」
「じゃあこの盾は?」
「……持ち主に取り憑く呪具があるってヘステスは言ってた。身体を弱らせるものとか、魔導を使えなくするものとか、そういうの」
「嘘、私呪われてるの?」
「今は、特にそうは見えない。遅効性の呪いでないとは言い切れない、かも」
「やだなぁ。ただの盾だったら良いんだけど」
「呪われてなくても、珍しい効果を持つ武具や道具で言えばそれこそ船団長の【猛化の腕輪】がある。あと、中央海域にある大迷宮とか、西の武具迷宮で見つかる剣には、魔導を込められた物がある……らしい」
「らしい、なんて適当なこと言わないでよ。今のところ別に何か魔導が使えるようになった気はしないけどさ」
「念じてみたら使えるかも」
「何を念じたらいいかな」
「……知らない」
「じゃあ普通にミノタウロスの王を出してください、かな」
「それは確かに大切」
二人は階段を登りながらとりとめのない会話を続けていた。
テレミアの身に異変が起こった場所から少し下った先で階段は唐突に終わりを迎えた。何をできるわけでもなく、二人は来た道を引き返すことにしたのだった。
「なんにせよ、あの盾は、外し方がわからない以上受け入れるしかないと思う」
受け入れるしかない、とオトに告げられて、テレミアは小さくため息を吐いた。
テレミアの左腕にまるで当然の顔をして棲み着くようになった銀色の盾は、オトと二人でいくら引っ張ってみても、不思議な力で吸い付いて離れなかったのだ。
そのくせ「消えろ」と念じれば一瞬で光に解けて身体の中へと収まっていくのだから、気味が悪いことこの上なかった。
「受け入れる、かぁ。……確かに、得体が知れないのと時間が経ったときどうなるのか分からないのとを無視すれば、いつでも防具を忍ばせておけるってのは便利かも。オトも刀を隠したりするもんね」
問いかけられたオトは、すぐには答えなかった。
ずっと惰性で続いていた会話が、初めて明確に途切れた。
「……その「無視すれば」が一番の問題」
やっと絞り出されたオトの声は沈んでいた。
テレミアは無理矢理笑って、わざとらしく頬を掻いた。
「何があっても私が我慢すれば良いんだよ、我慢すれば。ね」
「……また、面倒事が一つ増えた」
自分のことを案じてくれるのはありがたいことだが、起こってしまったことを悔やみ続ける必要もないだろう、ともテレミアは思う。
「ま、もともといつ消えてもおかしくない命だったしね。ちょっと呪いで死にやすくなったかもしれないなー、ってくらいで変わんないって」
「……本当にそう思ってるの?」
オトが静かに訊いてきた。
テレミアはその問いに対して適切な答えを口にすることができる。
「私は死ぬまで生きることを諦めないから。死なない間は何があっても同じだよ」
「そういう意味じゃなくて……!」
オトはふるふると首を横に振った。
心を揺るがされたくなかったから、テレミアは彼女の口元に伸ばした人差し指を触れさせた。
「私のことをオトが気にする必要なんてないんだよ」
こうやって静かに言い放ってやれば、内気なオトは言葉を引っ込めてくれる。長い付き合いなのだ、それくらい分かっている。
「オトは私に言われたことをちゃんとこなしてくれればそれでいいの。だって、オトは私の”駒”なんだからさ」
「……」
オトと目線が絡み合う。
テレミアはオトの意見を押し潰すため、重たい沈黙を押しつけた。
初めは何かを訴えかけようとしていた紺青の瞳は、願った通り、力なくしおれていった。
しゅんとオトの顔が俯く。
「それに、別にあの盾が私の邪魔をするって決まったわけでもないし。本当に害のない盾だったら儲けものだって」
気まずい空気を塗り替えようと明るめの声で言い放ったとき、
「───!」
オトが立ち止まった。
見れば、さっきまでとは打って変わって真剣な表情をしている。
「どうしたの?」
「……上に大きな敵がいる」
「!」
階段の外まではあと少しといったところで、既に太陽の明かりが二人の足下を照らし始めていた。
「ってことは、つまり」
こくり、とオトは頷く。
「多分階段の代わりに本来出てくるはずだった、迷宮の主」
来るべき時が来た、ということだろう。
テレミアは戦闘に向けた支度を始めた。
腰の剣を確かめ、懐の取り出しやすい場所に必要な道具を揃える。
「最初から出てきてくれれば何も困らなかったのになぁ」
「とにかく、これを倒せば成人の儀は終わり。頑張ろう」
「うん。オトもよろしくね」
「任せて」
ヘステスに教えられたミノタウロスの王との戦い方を思い出しながら、二人は互いの手札を確かめ合った。
最後にオトが口を開いた。
「盾は使うの?」
テレミアはぱっと左腕に盾を呼び出した。階段を登る間何度も出し入れしているうちに、まるで生まれつきの持ち物であったかのように操作に慣れてしまっていた。
無骨な盾の縁を右手の指でなぞりながら、考える。
重すぎず軽すぎず、という具合の適度な感触からすれば、左手に付けた状態でも殆ど普段と変わらない戦い方ができはするだろう。
しかし、この得体の知れない盾がどれほどの硬度を持っているのか、何回の打ち合いに耐えられるのか、そうしたことは一切分かっていない。一度も実戦で試したことのない盾に命を預けるというのは、いくらなんでも気が引ける。
怯えて満足に使えない盾を構えて頭の働きを鈍らせてしまうよりは、最初から頼らないと決めておいた方が負担は小さく済むだろうか。
「……使わないでおく。帰り道で手の内の分かってる弱い魔物相手に試してみようかな」
「わかった。なら私の術と魔導具がミアを守る」
悩んだ末に出した答えにオトが迷わず頷いてくれたので、いくらかテレミアの気は晴れた。




