46. 疑念
テレミアは板材の上に布を重ねただけの寝床で目を覚まして、少し強ばった身体を伸ばした。
昨日一日降り続いた雨の残り香が島中を満たす芳醇な草花の香りと混じり合っている。テレミアは豊かなそのにおいをしばらく取り込んで、寝起きの頭にかかったもやを晴らしてくれるのを待った。
カライアから大迷宮を目指して出発して以来、一つの島にこれほど長く留まったことはなかった。当然、後を追いかけてきている敵が居るかもしれないし、早く大迷宮に向かう方がいいとはテレミアも分かっている。
それでも、テレミアにはどうしてもニナを放っておくことができなかった。なにか埋め合わせをしなければ、という思いが募って、気が付けばもう花の島にやって来てから四日目になる。木の部族が報酬として約束した白金貨五枚について「かき集めるまで少し時間が欲しい」と支払いを渋ってきたのが、テレミアにとっては都合のいい口実になった。今のところ、金が用意できたとの知らせは入っていない。果たして支払うつもりがあるのかどうかは気になるところではあるが。
ニナの叔父にあたるらしいザグという男から、昨日のニナが塞ぎ込んでいた理由については伝え聞いている。
国長を決めるための試合であからさまに不利な条件を与えられてしまったために、少し立ち直ったように見えた彼女の心は再びへし折られてしまったらしい。
弓を持ち込むことすら許されず、ほとんど使ったこともない武器で戦わされるというのは、テレミアからしてもかなり苦しいように感じられた。猶予として与えられた三十日程度では、まともに打ち合えるようになれれば御の字といったところか。
鍛錬相手を買って出たことへの責任感から、なんとか対人戦がまともにこなせるくらいにまでは道筋をつけてやりたいと願ってはいるものの、どうしたらいいのか、テレミアの中に確たる案はいまだ存在しなかった。モムルやファンエーマに協力を仰ぐことも選択肢の内に入れなければならないかもしれない。
そんなことを考えながらテレミアは身支度を済ませ、「自由に食べていい」と屋敷にやって来たときに紹介された菜っ葉の積まれた食物庫に足を運んだ。
見た目にはただの草だが、素揚げして塩をかけると案外美味しく、今のところテレミアは食事の面ではそれほど不満を抱いてはいない。
ただし、この菜っ葉以外に、例えば麦や米、あるいは肉の蓄えが満足にあるかと問われれば、それに対しては首を横に振らねばならないだろう。
港から屋敷に向かって歩く中で垣間見えた屋敷の外の人々の暮らしは、ここのものよりもさらに苦しいものだった。明らかに痩せこけた彼らの身体からは、立っているだけで精気が失われていくようにも見えた。ニナやアムンダが語っていた「苦しい暮らし」とはこのことなのだろう。
朝食にするためにそれなりの量を籠に詰めて炊事場に向かうと、先客がいた。
「おはよ」
オトは菜っ葉を頬張った口をもごもごさせて挨拶をしてきた。
万が一のときの退路と魔導の使い方を脳裏に描きながら、しかしそうして警戒していることを決して悟られないよう意識的に柔らかな空気を纏いつつ、テレミアはオトと二人きりの状況を受け入れた。
「おはよう。鍋もらって良い?」
「いいよ」
微笑みだけを表にしながら鍋の前の場所を交代し、自分の食べる分を流し込む。
隣にオトが寄ってきて揚がった菜っ葉を油から引き上げるのを手伝ってくれたので、テレミアは彼女に「ありがと」と感謝を伝えた。
返事の代わりに、オトは質問をひとつ投げかけてきた。
「ミア、いつまでここにいるつもり?」
あれ、とテレミアは素直な反応を返した。
「とりあえずカンバの件での報酬が入ってくるまでは、って話にならなかったっけ」
「別に花の島にいる必要はないはず。木の島でも、麦の島でもいい」
そう言ったオトは、少し辺りの気配を探るようなそぶりを見せて、そしてテレミアにだけ聞こえるような音量で続けた。
「船に積んでた魔導具の材料が、この島に来てから不自然に減ってる」
「……盗まれたの?」
オトは小さく頷いた。
「こんなのは初めて。勘違いかもしれないくらいの量、だけど」
「船に勝手に乗り込んでくる奴がいるのか……」
「他の物資のことは分からない。量を把握してないから。でも、この島の人たちが盗みに入る理由はありそう」
オトが述べた分析はテレミアにしても尤もなもので、だからこそテレミアの頭を悩ませた。
盗まれて致命的に困るものは別に積んでいないにしても、もしも盗みが事実だとすれば、確かに長い時間この場所に滞在することは避けたくもなる。しかしそれはテレミアにとってはニナとの時間を失うことをも意味する。
即座には結論を出せなかったので、テレミアは「考えておくね」とお茶を濁しておくことにした。
「他に変なことはされてない?」
「置き場所を見つけにくいところに変えたから……うん、この葉っぱ美味しい」
オトが突然不自然に話題を切り替えて、その直後に炊事場の入り口が騒がしくなった。
「───とはいえ、島の人間でない者に迷宮への立ち入りを認めるわけにはいかんのです」
「だから、言ってるでしょ? 麦の奴らが押しつける決まりなんて、今更何の意味もないって。私たちの迷宮のことは、私たちが自分で決めればいいの」
「そうじゃ。大方、〈カルトゥール〉とやらに権力を集めるために仕組まれた規則なのであろうな。迷宮に島の外の実力者を招聘するのを認めないことが、麦の族長に依存せねばならない歪な構造を生んでおる。長年の慣習だか何だかは知らぬが、儂からすれば不合理なことこの上ないぞ」
「ううむ……」
ニナとヘステスがザグを伴ってやって来た。
二人から突き上げられて渋い顔のザグは、テレミアとオトの姿を見つけて会釈した。
「どうも……朝から何の話?」
オトを背中に隠しながら軽く挨拶を返して、テレミアはヘステスに尋ねた。
「ニナを鍛えるために迷宮に入ってはどうかと思いついての。ニナに訊けばどうも儂ら外者は迷宮には入れないと言いおるから、こうしてその許可を頂こうと頑固頭を口説いておるところじゃ」
「父がいない今は、ザグ叔父さんかヨンド叔父さんがこの島で一番偉いんです。ヨンド叔父さんのほうは熱を出して寝込んでるので、ザグ叔父さんになんとかヘステスさんたちと迷宮に入っても良いって認めさせようとしてて」
「迷宮内部であれば周囲を気にせず攻撃を放てる、魔導が使いやすい、魔素切れからの回復も早い、魔物を屠れば手っ取り早く実力も伸びる、とかく良いことづくしじゃろう」
「はい。テレミアさんも、何か言ってくれませんか?」
「ちょ、待って待って」
ヘステスとニナが口々に並べ立てたあれこれを飲み込み切れず、テレミアは待ったをかけた。
「まずなんでヘステスがニナのこと気にしてるのさ」
「おぬしがくよくよ気にしておるからに決まっておるわ。こやつをどうにかせねばニラギを発つつもりもないのであろう? であれば、さっさと鍛えきってしまうのが道理じゃろうて」
半分呆れたような顔でヘステスが答えたのは、テレミアに対しての配慮ともとれる理由だった。
「え、あ、バレてた?」
「あからさまに他人の顔を眺めおって、気付かぬとでも思ったか」
「……流石だね」
「これでもおぬしの育て親じゃからな」
ふん、と鼻息を飛ばして、ヘステスは続ける。
「それに、直剣での戦いを素人に一から仕込むのは骨が折れるじゃろう。そもそもおぬしの得物は突剣じゃからの。儂が対人用の魔導の使い方を叩き込む方が余程理にかなっておるわい」
そうやってヘステスが告げたのはテレミアが昨日からずっと抱えていた悩みへの解決策そのもので、思ってもみない方向から事態が前に進もうとしていることに、テレミアは目を丸くした。
ニナが見違えるようにぴんぴんしているのも、もしかしたら既にヘステスから何か仕込んでもらって自信を取り戻せたからなのかもしれない。
「いいの? 勝手に協力してもらう感じになってるけど」
「既に言ったぞ、早くニラギを出る為にはこうせねばならん」
「えっと、ありがとう」
感謝を伝え、テレミアはザグの方に顔を向けた。
「そういうことなんで、私からもお願いします」
ザグは天を仰ぎ、しばらく動かないでいた後に、深く息を吐いた。
「……昨日仕舞った薬草を干し直さねばなりませんで、今日は迷宮に見張りを立てる余裕はないでしょうな」
いかにも思わせぶりな口調で、ザグはテレミアたちとは目を合わせずに口を動かす。
おぉ、とヘステスが呟いた。
「それに今日だけではない、人手が足らんのです。どうです、しばらく迷宮の見張りの仕事を任されては下さらんか。その分他の仕事に人を割けるようになればとてもありがたい」
なるほど、この表現であれば、ザグは自らしきたりに違反したことにはならない。
とはいえ、それは殆ど建前だけのようなもので、実際にはザグはいろんな事情を勘案しつつ迷宮への入場の許可を出したという格好になるだろう。
「応とも、引き受けようぞ」
「くれぐれも、他の部族の人間には見つからないように、頼みますよ」
「分かっておる。そのような下手は打たん」
どうやら交渉は成立したようだ。
ニナが無邪気に「ありがとうザグ」と感謝を伝え、ザグは困った顔で「ああ、うん」と曖昧に返した。それを見て、ヘステスはくっくとこみ上げるような笑いを浮かべていた。
善は急げ、ということで、テレミアたちは早速迷宮に向かうための支度を始めた。「迷宮の主を倒してもらえるとみんな助かるので、できれば私の鍛錬だけじゃなくてそっちもお願いしたいです」とニナが頼んできたので、万が一を考え、モムルにラズエイダも引き連れて迷宮に潜ることになった。オトとファンエーマにはザグとの約束通り「見張り」の役目を担わせ、迷宮の外で不審な人物が現れないかを見張ってもらう。
オトが気にしていた船に入ったらしい盗人の情報をそれとなく共有したところ、ヘステスが「魔導具で罠を仕掛けてこよう」と申し出て船へと向かっていった。帰りを待っている間に、テレミアはこの国における迷宮の立ち位置をニナからあれこれ教えてもらうことにした。
七つの迷宮はニラギの大切な財産であって、国の七部族以外の人間には明け渡してはならないのだ、というのが基本的な教えらしい。
これまでにテレミアたちが渡ってきたフレンカやマレムなどの「迷宮にたくさん人を呼び寄せて資源の産出量を上げる」という方向性とは随分と異なるものの、理屈は通っているように思われた。考えてみれば、牛鬼海賊団が独占的に管理しているカライアの迷宮も似たような扱いではある。
また、七つの迷宮には、「迷宮の主を倒すとしばらくの間魔物がみな弱体化する」という他にはないニラギ特有の特徴があるのだという。資源を安定的に獲得するためには定期的に主を駆除せねばならず、だからこそ魔闘術を使える麦の族長は大きな権力を持つのだ───という話を聞かされて、テレミアの中で色々な事情が腑に落ちた。例えば、もしも悪意ある人間が力を持ったとしたら、ひいきの部族の迷宮だけを回るとか、そういう悪意に満ちた振る舞いができてしまうだろう。その上で、身内以外の人間を迷宮に入れて代わりに主を駆除してもらうのを認めないのだから、全くよくできた服従の仕組みだ。
「なんですけど、ここ最近ずっと、主を倒してもすぐ魔物の強さが元に戻っちゃうっていうことが続いてるんです。それで、私の父みたいに戦える人間は迷宮攻略にかかりっきりになってて。花の迷宮なんて金にならないから、とにかく国全体を飢えさせないために麦とか鉄の迷宮を回ってるんだ、って聞いてます」
「そうなんだ。大変そう?」
「はい。昔、私がカンバと島から旅立ったときも、何ヶ月も会えてなかったくらいです」
「そっかぁ」
屋敷の倉庫で埃を被っている剣を漁りながら、テレミアとニナはあれやこれやと話を続けていた。
テレミアは一本の直剣を引っ張り出して、鞘から引き抜いた。
「これとか良いんじゃない?」
「そうですか?」
確か、地面に突き立てて股下くらいの刀身があればいい、みたいな目安があったはずだ。
そんなことを考えつつニナの前にさび付いた剣を突き立てると、確かに程よい長さの剣であるように見えた。
「持ち手に張られた革も別に悪くなってないしね。どう?」
鞘に収めてニナに渡すと、ニナは一度片手で受け取ろうとした後に、慌ててもう一方の手を添えた。
抜き放つのも一苦労といった有様で、構えてみてもどうしたって彼女には似合っていない。
「……重いです」
「その辺は仕方ないね。本番でも馬鹿みたいに重たい剣を配られるって思っといた方がいいでしょ、きっと」
「……はい」
ニナは苦笑いを浮かべた。
ヘステスが戻ってくるまでは暇を持て余すことになるので、他にも使えそうな剣がないか探すためにテレミアは再度山と積まれた古い武具の方に視線を向けた。
ニナが「でも」と切り出したのはそのすぐ後だった。
「ヘステスさんに聞いたんです。迷宮で魔物を倒せばすぐに力も強くなるって。確かにテレミアさんは強かったですけど、そうなんですか?」
「んー」
この質問に対しては、どうやって答えるのが正解だろうか。
迷宮で魔物を倒すことによって、力を得られるというのはその通りだ。しかし、一匹を倒した程度で得られる力などたかが知れている。
当然、例の盾のような特殊な道具があれば話は変わってくる。ただ、ニナの前では余計な秘密を明かせない以上、テレミアは盾もラズエイダの剣も封印したままでおくつもりだった。だから、三十日で見違えるほどに成長できるか、と問われれば、おそらく否が答えとなる。
しかし、正直に答えてニナの気分を損ねるのも、あまり好ましいとも思えない。
「……すぐに、とはいかないかなぁ。魔物を倒したら、神々の祝福が光になって溢れてくるのは知ってる?」
「はい、もちろん。カンバと二人で魔物は沢山倒してきました」
「あ、じゃあ全部知ってるか。私たち人間はその光を取り込めばちゃんと強くなれるけど、でも一回で取り込めるのはほんの少しだけだからさ。頑張って沢山倒そうよ」
ニナが気落ちしないようにゆっくりと言葉を選びながら、前向きな表現を作る。
うまくいっただろうか。
ニナの表情を窺うと、そこには落胆でも興奮でもなく、疑問の色が濃く滲んでいた。
「え、でもテレミアさんとあの男奴隷は、不思議な青色の身体に移り変わって光を自由に集められるって聞きました」
テレミアは思わず作業の手を止めた。
「誰から聞いたの」
声色が不自然なまでに冷たくなってしまったことに気付いたのは、ニナが跳ねるように身を縮こまらせたのを見たときだった。
誰かが漏らしたのか、それとも盗み聞きをしたのか。
人前では剣と盾の力について話題にしないよう、全員によくよく言い聞かせてある。指示通りに皆が動いていれば、こうしてニナが「光を自由に集められる」と口にできるはずがないのだ。
いや。
誰が、とは考えるまでもないかもしれない。
「え、その、ヘステスさんが、普通に」
「───うむ、儂が教えた」
怯えたようなニナの言葉を、丁度戻ってきたらしいヘステスの表明が上書きした。
都合の悪いときに、とテレミアは内心で毒づきながら、「おぉ散らかっておるのお」と倉庫の中に踏み入ってきたヘステスに手を貸した。
昨日の時点では特に何も知らない様子だったニナが今日にかけて交流を持ったのはヘステスただ一人なのだから、当然情報源はヘステスと考えるのが妥当だろう。
そこにある思惑は何なのか。
尋問の準備など一切できないまま、ヘステスの弁解を聞くことになってしまった。
易々と流されないように注意しなければ、とだけ頭に刻み込みながら、テレミアはヘステスに「理由を聞いてもいい?」と投げかけた。
「理由? 使えるものは全て使えば良いであろう、他に理由が必要か?」
つつかれるなど思ってもみなかった、というような態度でヘステスは答えた。
その顔に浮かんだ困惑の色が限りなく本物に見えたのを、テレミアは一つの情報として記憶した。
「このことはしばらく私たちだけの秘密にする、って最初からずっと決めてたよね。どうして勝手に他人に明かしてるのかって聞いてるの」
「案ずるな、ニナは言うなと言われれば秘密を墓まで持ち込める程度の分別は持ちあわせておる。のう」
水を向けられたニナは、何度もこくこくと頷いた。
「てっきり、テレミアさんも既に事情は聞いてるのかと思って。安心してください、ちゃんと秘密にします」
「それはほんとにお願いするね……じゃなくて、ヘステス。せめて私に一言確認とるくらいはして欲しいんだけど」
「おぬしかて何も知らないファンエーマの前で盾を生み出したではないか。それとこれと何が違うのじゃ」
「あれは私とモムルが生き残るためだったから、これとは話が全然違う」
ぴしゃりと叩きつけると、ヘステスの反論が止まった。
少しの沈黙があって、そしてヘステスはややしおらしい態度を滲ませた。
「……そこまで深く考えてなどおらんかった。気を悪くさせてすまぬの」
そう出るか、という苛立ちがテレミアの率直な感想だった。何か邪な思惑があるとしたら、隠すためにあれこれ語って聞かせてくるだろうし、推測できるものがあるだろう───と予想をしていたが、さしたる抵抗をせずに早々に折れるとは。何も語らず即座に場を収め余計なボロが出ないように動いている、という考え方もあるだろうか。
何にしても、謝罪が出てきた以上、余計な追求はむしろヘステスの側に”テレミアは儂を疑っているのではないか”との疑念を産みかねない。
「ニナを鍛えるって決めたのは私だから、まあいいけどさ。でも、これから勝手に他人に話すのはナシね。絶対に私や他のみんなと相談すること」
「相分かった」
念を押して、それにヘステスが了承した。
ニナの前で妙な緊張感が残るのが嫌だったから、テレミアはどうしようかと考えて、「そうだ」と明るめの声を出した。
「どうせなら、ちょっと見てみる?」
えっ、と反応したニナの方に、無造作に左腕を突き出す。
銀色の光がテレミアの身体から湧き出して、みるみるうちに盾を形作るようにまとまっていく。
驚きに目を丸くするニナの眼前に、金の意匠がちりばめられた銀の盾が完成した。
「こんな感じ。ラズエイダも同じように剣を出せて、二人くっつくと身体が一つに合わさるの。面白いでしょ?」
「は、はいっ」
笑いかけると、少しうわずった声でニナは答えた。
狙い通り、彼女の顔から曇りが消え去っていく様子がよく見て取れた。




