107. 間違い
地面に横たえたヘステスの石像に、ファンエーマから託された【白の杖】で触れる。
半透明の部分がずぶずぶと身体の奥へと飲み込まれていき、そして淡い光を放った。
「……は!? 何じゃ!?」
剥がれた石の殻の中から姿を現したヘステスは、状況を飲み込めていないのか大声を上げて辺りを見回した。
横からそっと肩を叩く。
「ヘステス、静かに静かに」
「おぬしは……ふむ」
皺の入った顔からすっと血の気が引いていく。
一瞬にしてヘステスは平常心を取り戻したようだった。
ヘステスは横になっていた身体を起こし、モムル、そして青肌姿の二人を順に見つめ、それから髭に手をやって目を閉じた。
「……儂が石とされてから、どれほど時が経った?」
「丸一日くらい、かな」
「……ん、ん?」
閉じられたばかりの目が丸く見開かれた。
「それは真か?」
「うん」
「……儂がおらねば、どれほど短くとも数十年はかかるものと思うておったが」
何のことを言っているのかは分からなかったが、どうやらヘステスが想定していたよりもずっとうまく事態を収拾できつつあるらしい。
「ファンエーマが頑張ったんだよ。一人で渦に飛び込んで、私たちを見つけてくれたの」
そう告げると、ヘステスはパチパチと目を瞬かせた。
次いで、賞賛と呆れが重なったような笑みが皺の入った顔に浮かぶ。
「……やはり、あやつの身体はどうにも人間離れしておるわい。のう、ラズエイダ」
突然話を振られたラズエイダは、「……そうかもしれないな」と言葉を選びながら答えた。
「昔から、エマは何でも出来過ぎるところがあった。最近気になって訊いてみたんだが、特に思い当たる節はないらしい。普通の両親から生まれ、幼い内から私に仕えていただけだと」
オトの乗った郵便船を襲うルカの船を見破ることができたのは何故か、と尋ねたとき、ファンエーマの答えは「目をこらせばぼんやりと見えましたので」というものだった。
異様に優れている五感について尋ねてみれば、「生まれつきのものです。……生みの親に、とても気味悪がられていたのを覚えております」という気まずい返答が返ってきた。
これ以上深入りしても得るものはないだろう、と今のところ二人は判断している。
「そうか。おぬしに問われてそう答えるのなら、その通りなのじゃろうな」
「少なくとも、何かを隠している気配はなかった」
本人のいない場所で話すべき内容でもないだろう、と考えたテレミアは、ヘステスに服を手渡しつつ別の話題を振ることにした。
「隠してたって話で言えばさ、そういやなんだけど。ヘステスが青龍魔導を私たちに教えないでいたのはなんでなの? あんなに便利なのに」
迷宮の中でラズエイダと考えて、結論を出せなかった問いだ。
一見非合理的なこの振る舞いに、何か隠された意味があるのか。それとも、単に不快を嫌っていたからなのか。
未だに読み切れないヘステスの考えの一端を知るためには丁度いい質問でもあった。神罰に関する話題のように、ヘステスは答えを渋るかもしれない。
ところが、
「……儂の最も嫌う魔導であるから、かの」
答えは思っていたよりもあっけなくもたらされた。
「え、あ、そう。……嫌いって、なんで? 変身が気持ち悪いから?」
「魔導の根幹を成す理屈が通用せんからじゃ。想像と異なる現象を引き起こしよる」
ヘステスは髭を撫でながら目を伏せた。
「儂がまだジャルダの船におった頃、ジャルダが少数精鋭を引き連れて青龍の試練を攻略したことがあった。その時、儂らは青龍から魔導を授かる栄誉を得た。ジャルダは海を自由に泳ぐ魔導を望み、儂はあらゆる病を治す魔導を望んだ。他にも何人かがそれぞれの望みを叶えた」
なるほど、ヘステスがやけにこの珍しい魔導の事情に明るかったのは、実際に自分で魔導を手に入れた経験があるからだったのだ。
「儂にとっては垂涎ものの機会じゃった。当時はまだ、儂に使えぬ魔導など無いと思っておったからの。詠唱と効果を聞くだけ聞けば後は全員分の魔導が儂のもの、というつもりでおった」
語りに随分と後悔の成分が多い。「何かあったの?」と尋ねれば、ヘステスは深いため息をついた。
「青龍が儂の企みに勘づきおっての。魔導を全て分割し多重行使を前提とした複数構成に組み換え、一部分のみを使っても想像する魔導とはまるでかけ離れたものになるよう罠すら張り巡らしおった。……例えば、あの醜い魚人の姿は、青龍魔導が本来与える姿ではない。おぬしらはジャルダが海を泳ぐところを見たことはないじゃろうが、実際には」
「下半身だけが魚になって、上半身は人間のまま、とか?」
テレミアが挟み込んだ言葉に、ヘステスは目を剥いた。
「何故知っておる」
「ファンエーマに「水の中で息をする魔導」を教えてもらったんだ。それと変身の魔導を重ねたら、綺麗な尾鰭付きの魚の身体になれたよ」
そう説明しながら、テレミアは今も鮮やかに思い出せる衝動と感動を心に描いた。
あの水と一体になるかのような素晴らしい感覚こそ、本来の青龍魔導がもたらす歓びだったということなのだろう。
「……見せてみよ」
「うん」
頼まれた通り、二人は海を自由に泳ぐ魔導を本来の形で行使することとした。
テレミアが鰓を、ラズエイダが身体を、それぞれ受け持って想像する。
〈──〉
「『大海に御座す青龍よ、我が身に水中の肺たる鰓を授け賜え』、『大海に御座す青龍よ、我が身を堅牢なる鱗、流麗なる尾鰭によって飾り賜え』」
青い光が消えた後に、二本の足は美しい鱗のびっしり並んだ魚の身体に置き換わっていた。
「ほら」
ひらひらと尾鰭を揺らす。
ヘステスは、目を見開いて呆然と二人のことを見つめていた。
このままいても陸の上では不便なので、目的は達しただろうと二人は魔導を切った。
取り戻した人の肉体で、まっすぐ地面に足を伸ばす。
「ま、剣と盾のくれた力の良いところだよね」
ヘステスには多重行使は扱えない以上、ジャルダの技を再現できるのはこの世にテレミアとラズエイダだけということになる。
もしかすると、ヘステスがずっと言葉もなく突っ立ったままいるのは、それが悔しいからだったりするのだろうか。
「ヘステス? おーい」
テレミアは未だなお動こうとしないヘステスの目の前で手を振った。
全く、魔導のこととなるとこの老人は───
「おぬしらが唱えた詠唱は、間違うておる」
「……え?」
テレミアも、ラズエイダも、ヘステスが何を言ったのか、すぐには理解できなかった。
「正しくはこうじゃ」
すぅ、とヘステスが息を吸った。
「『大海に御座す青龍よ、我が身に水を吸い吐く鰓を与え賜え』」
ヘステスが口にした言葉は、確かに、ラズエイダが偶然言い当てた詠唱の文言とは違っていた。
そのはずなのに、ヘステスの身体をあれよあれよと青い光が取り囲んでいく。
やがて両の肩から胸にかけて集中した光は、何の前触れもなく消え去った。
ヘステスが服の胸元をはだけると、そこには当然のように肉の割れ目が生まれていた。
「……何故だ」
ラズエイダの声が二人の口から漏れた。
ヘステスの教導の下、魔導の原理について学びを深めたラズエイダは、たった今起こった現象が起こってはならないものなのだと理解していた。
魔導とは、創世の神々が人間の魂に与えた道具であり、不幸な事故を防ぐため、「型」通りの動きをするものとして定められている。
詠唱はその「型」の一つであり、決まった言葉を使わなければ魔導が形にならないという絶対的な制限なのだ。
まさか、間違った詠唱によって魔導が発動するなど、あってはならないことのはずだった。
ラズエイダは頭に浮かんだ仮説を確かめるため、ある現象の想像を始めた。
空気中の水蒸気を寄せ集め、一点に凝固させ、形熱を奪い去る。
(テレミア)
(な、なに?)
(適当な詠唱を考えてくれ)
(え?)
(何でもいい。本来の詠唱とは違う言葉であれば、何でもだ)
(じゃ、じゃあ───)
〈──〉
視界の四角が、僅かに紫色に染まる。
「『凍れ』」
氷魔導の本来の詠唱は、「出でよ氷壁」「貫け氷槍」といった具合に唱えられるものだ。「凍れ」から始まる技は、氷魔導の中に存在しない。
そのはずなのに、二人が見つめる先で、丸い氷の球体が形となって浮かび上がった。
一抱えほどの大きさに育った氷球は、一度太陽に向けて打ち出された後、大地に引かれて落ち、割れた。
全て、ラズエイダの思い描いた通りの動きだった。
「このことは他言無用じゃ。落ち着いたなら、色々試させてもらうぞ。構わんな?」
ヘステスの静かな声が鼓膜を揺らした。
砕けた氷から視線を引き剥がして目を合わせる。
ラズエイダの思い浮かべたかつての夜の記憶がテレミアの中にまで入り込み、目の前の風景と重なり合う。
”神罰”と口にしたあのときと同じ、揺らがない瞳の輝きがそこにあった。
「……ああ」
深く、二人は頷いた。




