108. この身はただひとえに
「準備は良いか?」
己の身体を力強く抱きかかえる主君が問いかけてきた。
「……はい」
噴き上げる水の柱を睨み、ファンエーマは確かな覚悟を心に刻んだ。
「こればかりは、お前に負担をかけることになる。すまない」
「負担などとは思っておりません。主様を信じておりますから」
「……ああ。必ず、お前は生かしてみせるさ」
ファンエーマの主君は、そう言って頼もしく笑った。
こんなことを主君に言わせてしまうとは、やはりこの身は護衛失格だ。
悔しさを胸に秘めつつ、ファンエーマは思い切り息を吸い込んだ。
やがて、もうこれ以上は吸えないというほどに空気を身体の中に詰め込んだ状態で、ファンエーマは合図を出した。
青い手が首元に伸び、首輪に触れる。
「『海の上に上がるまで、息を止め続けて』」
ピリリと痛みが頭の中を走った。
試しに息を吐き出してみようとするも、最後の最後に身体が頭の命令を拒んで動かなくなる。
首輪は間違いなく効力を発揮していた。これから、海の上に辿り着くまで、ファンエーマは自らの意思では息をすることができなくなった。
渦の上から”無の世界”に落ちるまでの時間でも耐えることができなかったのだ。
同じ距離を今度は流れに逆らって進むのに、その間自力で息を止め続けていられるはずもなかった。
だから、ファンエーマは隷属の首輪に頼ることになった。
主人の命令を身体に刻み込まれた状態でなら、例えどれほど苦しくても、水を飲んで溺れてしまうという事故は起こらない。より正しくは、起こしたくとも起こせない。
よって、これからファンエーマを待つのは、窒息による苦悶の果ての死か、全てが上手くいっての生還劇か、その二つに一つとなる。
青い半魚がぐんと身をよじり、水をかき分け始めた。必然的に、ファンエーマの身体も水が覆うようになる。
周りが暗くなり始めた段階で、ファンエーマは目を閉じた。
先を見ていては心が折れかねない。
激しく身を打ち据える激流をただじっと耐え続け、時折感じる魚か何かとの衝突を数えて気を紛らわせ、やがて全身を押し潰すような圧力が頭に血を上らせちかちかと瞼の裏に星が舞い始めた頃。
誘惑に負けて、ファンエーマは薄く目を開いた。
まだ暗闇の中にいた。
きゅっと目を閉じ、試練の到来を受け入れる。
イダ様が「必ずお前は生かしてみせる」と言ったのだ。
我が主君が言葉を違えるはずがない。
だから、これは己の頑丈な身体がどれほどの苦しさに耐えられるのか、その限界を知るというだけの話だ。
たとえ肺が破裂しようと、眼球が潰れようと、海の上にさえ辿り着けばヘステスが治療を施してくれる。
だから、何が起こってもそれは問題ではない。
新鮮な空気を求める手脚がどれほど暴れても、痛みに悶える頭が何度胸板を打ち据えても、苦しさをどこまでも一人で抱えていられるよう、主君の青い腕がしっかりとそれを戒めてくれる。
だから。勝手に諦めてはいけない。
痛い、苦しい、苦しい、痛い、怖い。
そんな感情すらも胸の中に掠れきった空気と一緒に封じ込めて、ただ耐え続けるのだ。
だから───
頭を包むように腕が回されるのを感じたとき、ファンエーマは自分が上を向いているのか下を向いているのかも分からなくなっていた。
逞しい腕の感触が暴れ回る苦痛の額縁となり、介錯を求めるファンエーマの意識を人の形に繋ぎ止めていた。
もう気を失ってしまいたい。もう、耐えられない。
そう思っても許しなど与えられない、果ての無い地獄の中に、
「───!?」
思いも寄らぬ救いが訪れた。
唇に柔らかいものが触れていた。
澱みが抜け落ちる。
使い古しの命綱が、喉と口を伝い、舌の上、そして歯の先を通り抜け、唇の奥に奪い取られていく。
風が吹き込む。
清涼な癒しが、真っ赤に枯れ果てていた肉体をたちまちのうちに駆け抜けていく。
同じことが繰り返される。
そのたびに、ファンエーマの苦しみは半分ずつに減っていく。
取り戻したなけなしの理性でいやいやと首を振ろうとも、主君の唇は執拗にファンエーマの唇を捕まえ直した。
ざぱ、という水しぶきの音が耳に飛び込むまで、ファンエーマは自分が海の上に生きて辿り着いたことに気づかなかった。
目を開くと、綺麗な像を結ぶことすらできないほど近くに金銀の瞳があった。
思い切り顔を引き剥がす。もう、唇が着いてくることはなかった。
「っ、はっ、はっ、はっ」
息苦しさとは全く違う理由で、ファンエーマは激しく息を吸って吐いてを繰り返した。
「えっと、大丈夫みたいだね。よかった。怪我はしてない?」
「も、問題、ありません!」
年甲斐もなく上ずってしまった声が、また恥じらいを積み重ねる。
勢い余ってイダ様の唇を傷つけたりはしなかっただろうか、とか、私の吐いた息は臭くなかっただろうか、とか、正気なら絶対に考えもしないあれやこれやが頭を駆け巡る。
この身は槍であるはずなのに、不必要な感情を抱いてはいけないはずなのに、心が勝手に暴れ回るのを止められない。
「しばらく表に出てこれなさそうだから、一応、ラズエイダの名誉のために弁解しとくね。思いついたのは私。ラズエイダは最後まで迷ってたけど、エマが苦しそうだって思った瞬間に───」
そこで、おそらくテレミアのものであろう発言は不自然に途切れた。
しばらくの沈黙の間、青い肌を金銀の意匠で飾った端麗な主君の顔は、愉悦と葛藤の表情を何度もめまぐるしく往復した。
どちらがどちらなのかは、おそらく想像の通りなのだろう。
やがて、一瞬閉じられた目が開かれ、そっとファンエーマのことを捉えた。
「これ以上は何も言えないかも」
「……はい」
消え入りそうな声が、ファンエーマが保てた冷静さの全てだった。
「ほれ、曳け曳け」
「ねえ人使いが荒くない!?」
「今のおぬしらは人ではなく半分魚じゃろうて」
「ならばっ、魚使いが荒くないか!?」
「やかましいわい!」
「結局たたき落とすのなら同じだろう!」
わいわいと賑やかなやりとりが交わされている。
ファンエーマを救い出した後、テレミアとラズエイダは忍術で姿を消して村に忍び込み、島民たちが漁に使う舟を一隻盗み出した。島渡りの長い航海をするにはあまりにも頼りない大きさだったが、”大いなる海”に抱かれて暮らす封海の民はそれ以上に大きな船を持たないようで、他の選択肢はなかった。
モムルと二人で漕ぎ進むのだろう、と当然のように考えていたファンエーマの手には、今、櫂ではなく黒い帯の一端が握られている。
帯のもう一端は海の中に伸びて、青い半魚の手の中に収まっていた。
テレミアとラズエイダの二人が舟を曳くようにして前を泳げば良いのだ、とヘステスが命を下し、それを実行に移したのが今の状態だった。
二人に曳かれる小さな丸木舟は、まるで風を帆一杯に受ける帆船のような速度で、波間を跳ねるように進む。
当然、舟が揺れれば身体はなすすべもなく小さく大きく宙に浮くし、木をくりぬいただけの船底は全く冷徹に着地する尻を出迎える。
「ね、ちょっと、お尻痛い……!」
「我慢せいオト、これはジャルダも使うておった由緒正しき青龍魔導の活用法じゃぞ」
「うぅぅ……!」
オトに手を差し伸べようとしても、小さな舟の上で、道具もなく、できることは多くない。
せめて心の内で彼女の尻の無事を祈って、ファンエーマは自分に与えられた仕事に集中した。
流石に夜の海を勢いよく進もうとはならず、日が暮れた頃に一度舟は動きを止めた。
テレミアとラズエイダが掴み取ってきた魚をヘステスが丸焼きにして、それが四人の食事となった。
働きづめの二人は、「私たちは良いよ、お腹減らないし」と分け前を断って、今は四人の食事風景を海の中から穏やかに見つめている。
一番に食べ終わったモムルが、骨と皮と内臓の垂れ下がる魚の残骸を海に放り捨てた。
「おかわりいる?」
「いいや、十分だ」
テレミアの申し出を断ったモムルは、どっかりと船の縁に背中を預けた。
丸い底の舟は大きく揺れ、魚にかぶりついたままのオトが不満げに顔をしかめる。
それを傍目に、モムルは大きなため息をついた。
「昨日食ったくっせえ鳥と比べりゃ余っ程旨いけどもよ、いい加減まともな飯をまともに食いたいもんだ」
「とんだ目に遭ったからの。生きておるだけ丸儲けじゃて」
「そりゃそうなんだが。捌きもしないで丸かじりだろ? せめて香草がありゃあな」
「モムル、黙って。私まだ食べてる」
「もうほとんど食い終わりじゃねえか」
「……じゃあおかわり。ミア、ラズエイダ、お願い」
「いいよー」
あっという間に海の中に消えていった二人を見送ってから、オトはモムルを睨んだ。
モムルはオトの言いたいことを察したのだろう、両手を上げて降参の姿勢をとった。
「悪かった」
「ちゃんとミアとラズエイダに感謝して、文句言わずに食べるべき。常識だと思う」
「だから悪かったって」
「明日の魚はおいしいおいしいって連呼しながら食べて。そうしたら許す」
「……俺そんな悪いことしたかぁ?」
「二人の目を見て同じこと言える?」
んぐ、と呻きが漏れた。
オトがさらに畳みかけようとしたとき、海の中からざぱりと頭が突き出てきた。
青い両手に二匹ずつ、びちびち跳ねる魚が握られている。
「お待たせー」
「えと、私、そんなに食べられない」
「どれか一匹選んでよ、他はいいから。泳ぐの楽しくって余計に捕まえちゃっただけだし」
「じゃあ……」
少し悩んでから、オトは右手に握られた魚のうち鱗の薄い方を選んだ。
残りの三匹をテレミアが手放そうとしたとき、
「……やっぱ俺にも一匹くれるか? 右手の残ってるやつがいい」
モムルが気まずそうな声で願った。
ヘステスが氷の杭で頭を突いて、開いた穴に櫂を刺し火で炙る。
渡された焼き魚を、二人はそれぞれ大きな口を開けて頬張った。
「……うめえ」
「そう? よかった」
ファンエーマは月明かりの下、皆が寝静まった舟の上で静かに考えを巡らせていた。
ああした四人のやりとりを眺める限りにおいて、誰かが胸の内に悪意を秘めているとは考えにくかった。
というよりは、そもそも最初から、ファンエーマの目には誰一人としてテレミアを嫌う人間がいるようには見えていなかった。
テレミアに「誰かが私を裏切った」と告げられた時からずっと、打ち消せないでいる疑問がある。
なぜテレミアと、そしてラズエイダは、三人だけを疑い、ラグーダという男が別の方法でテレミアを陥れたことを疑わないのか?
二人だけが共有する記憶の中に答えがあるのかもしれないが、それはファンエーマには分からない。
チラリと主君の寝顔を盗み見て、ファンエーマは小さくため息をついた。
曰く、服がないからしばらく元の二人に戻りたくはない、らしい。
ファンエーマとしては、互いの心を読み合える状態で長い時間を過ごす方が、よほど恥ずかしいことのように思えてしまう。考えることを全て他人に知られるなど、とても耐えられる気がしない。ましてや、二人は十五の年若い男と女なのだ。余計なことをいくらでも考えていて然るべきだろう。
なのに、「今の方が居心地が良い」とでも言わんばかりに、二人はいつまでも心を通わせたままでいる。
ファンエーマが見守ってきたラズエイダは、抑圧されながらも、鬱屈した成長を遂げた訳ではない。フジュロに空を飛びたいとせがんでみたり、シキといういけ好かなくも親切な学友に反発してみたり、……耳にするだけで恥ずかしくなるような口説き文句を、八つも年上の女に投げかけてみたり。あの鳶色の目の内側に、実に豊かで、やんちゃな情緒を湛えているはずだった。
それを、ラズエイダはまるで当然のようにテレミアに明かし続けている。テレミアも、まるで当然のように、ラズエイダの心の全てを自分の物にし続けている。
普通なら有り得ないことだろう。
勇者アルタスの剣を神々から授かった時に、二人は精神のつくりを書き換えられてしまったのではないか。そうでも考えなければ説明が付かない。
それとも、本当に、テレミアはラズエイダにとってどこまでも心を許せる相手だとでもいうのだろうか。
───イダ様に、あんな、ふしだらな真似をさせるような女が。
いつの間にか、目線が主君の唇に落ちていた。
ファンエーマは慌てて顔を背けた。
男を知らない行き遅れに、あの柔らかな思いやりは、あまりにも効き目が強すぎた。
ついに主君の幸せを後ろで見守る覚悟を固めきったと思った直後に、何という仕打ちだろうか。これでは、忘れるものも忘れられない。覚悟などかなぐり捨ててしまいたくなる。
「───っ」
ぱあん! と夜の海に乾いた音が響き渡った。
じんじんと熱を持った頬を風に当て、ファンエーマは頭をよぎってしまった不埒な考えを遠く彼方へと追いやった。
余計なことを考えてはいけない。
この身はただひとえに主君の槍なのだ。
音に反応してだろう、モムルがのっそりと身を起こして周囲を確かめた。
やがて首をかしげたモムルは、ファンエーマの方を向いて「何かあったか?」と訊いてきた。
「……何も。私の発した音です、お気になさらず」
「ふん」
変なことしやがってよ、と文句を垂れて、再びモムルは目を閉じ眠りについた。
月明かりが照らす遠くに、ファンエーマの鋭敏な感覚は島の影を捉えていた。
どうやらこの小さな舟の上で明かす夜は一晩だけで済みそうだった。
ここまでをお読みくださったあなたに感謝を。




