106. 大きな手
まず手始めに、ヘステスの石像を抱えて二人は魚人に変身した。
水の中を思いのままに動き回る身体にとってこの程度の荷物は何の苦にもならないようで、二人はあっという間に洞穴を通り抜け迷宮を脱し、海の中へと辿り着いた。
海面から顔を突き出し、双子島の方角を確認する。
見つけた島の方に泳ぎながら、テレミアはこれから顔を合わせる相手とどうやって話をするべきか考えていた。
ファンエーマがモムルを「テレミア様の弓」と評した以上、モムルを前に無理をして笑顔を貼り付ける作業はもう必要ないのかもしれない。しかし、自分の目と耳で確かめてもいないのに、モムルが味方なのだと簡単に受け入れるのも難しかった。
ファンエーマが嘘をつくとは考えにくくとも、彼女が騙されているという考え方なら十分できるだろう。モムルは魔導適性を持っていないはずだが、何か隠していて、嘘を本当に見せかける技術をここぞとばかりに使ったのかもしれない。それに───
(それ以上は止めてくれ、魔導が切れそうだ)
(あ……ごめん)
二人で分け合う魔導の維持を、いつの間にかラズエイダがほとんど一人で受け持つようになっていた。
そっとラズエイダの意識から自分の方に魔素の操作をたぐり寄せる。
(エマが騙されている、か。とんだ妄想だな。お前にはエマがそんなに鈍く見えているのか?)
ダダ漏れの思考を読み取られていたのだろう、ラズエイダは乾いた感情でテレミアを責める。
(考えるのは後だとさっき決めたぞ。失意の中考えにふけっても良いことは何もない。ただ昏い想像ばかりが膨らんで、手に負えなくなるのがオチだ。かつての僕のような、何も映さないがらんどうの目を皆に見せたくはないだろう?)
(うぅ)
何も言い返すことができず、テレミアはただ黙ってラズエイダの正論を自分の中に刻み込む。
そんな姿を案じてだろう、ラズエイダは何か話題を探して頭を回し、あることに思い当たったようだった。
(さて、そろそろ島に着くわけだが。ヘステスをどうしようか)
大雑把な問いを投げかけるだけ投げかけて、ラズエイダは静かになった。
昏いことを考えるよりは、前に進むためのことを考えろ───そういう意図が込められていた。
周囲の光景や鱗に感じ取れる水の揺れ動きを踏まえつつ、ヘステスの石像の扱いを考える。
渦の中に放り込まれたはずの石像を島に引き上げたなら、島民たちになにをされるか分かった物ではない。それに、迷宮の中で目覚めたテレミアとラズエイダと同じように、ヘステスも服を着ていない。何か着るものを探してからでないと、元に戻してはやれないだろう。
(……この辺りだったら、島の人たちには見つからないと思う。流れもあんまりないし、隠しておくにはちょうどいいんじゃない?)
(よし)
ラズエイダはテレミアの意見をそのまま受け入れ、薄く泥の積もった海の底まで泳ぎ降りた。
手に抱えていた石像をそっと手放して、泥を巻き上げながら海底に接するまでを見守る。
(さて、モムルに会いに行こう。怪我をしているのなら、しっかりした治療が必要かもしれない)
(……うん)
(野営地にいる、とエマは言っていたな。どうやって探そうか)
ラズエイダは再びテレミアに問いを投げかけ、思考を委ねてきた。
(ええと、あんまり深い森が広がってる感じの島じゃなかったから、空から探せば見つかるかな。島の人たちに見つかると面倒だから、島からは遠い場所から飛び立つ方が良くて……でも、海の中からだと空気の動きを作れないから飛べないか。氷で台でも作ったらいいかな)
(分かった、そうしよう)
またもラズエイダはテレミアの考えを二人の考えとして受け入れた。
反論や反対をするつもりなど、きっと元からなかったのだろう。
(……ありがと)
黙っていても心の中に浮かんだ感謝の念は伝わってしまうのだから、テレミアはせめてそれを言葉という形に飾って差し出すことにした。
(なに、当然のことさ)
気取らない感情がテレミアの差し出した感謝を包み返した。
空に舞い上がり、モムルを探す。
村からはそれなりに離れた場所にいるだろう、と当たりをつけて飛び回るうちに、焚き火の跡が見つかった。
近くに何か人影がないかとよく目をこらすと、腹を押さえて木によりかかるモムルの姿があった。
どこか遠くを見つめたまま固く動かない表情は、テレミアのあまり知らない種類のものだった。
ラズエイダに背中を押されるようにして、テレミアはモムルの前に舞い降りるべく風を操った。
だんだんと地表が近づくにつれ、モムルの座る場所を強い風が吹き回るようになる。
初めは軽く髪の毛を揺らすほどだった風が鋭く肌を搔きはじめた頃に、モムルはそれが何であるのかに思い当たったようだった。
黒い瞳が空を見上げ、水色の空を背景に舞う青色の影を捉える。
目が合った、と思った矢先に、モムルは手で顔を覆って視線を遮ってしまった。
ひくつくように口角が震えている。
二人が地面に降り立ったとき、モムルは絞り出すような笑い声を発した。
一歩、一歩と歩み寄る間も、目元を隠したままのモムルは吐息にも似た笑いをこぼし続けた。
側にはボウガンと折れた槍が並んで置かれている。
きっと、二人が戦った跡なのだろう。
やがて、モムルが顔から手を離した。
「……そうか、無事だったか」
ついに全体が見えるようになったモムルの表情は、ファンエーマの浮かべていたものと同じで、苦しみからの解放を遂げた安堵そのものだった。
そこに偽りがあるようには思えなかった。
「すまねえ。とんだ苦労をさせちまった」
二言目に謝罪を選んだモムルのために、テレミアはふさわしい言葉を探した。
あまり深く考えるまでもなく、「私のほうこそ、心配かけてごめんね」と口にすることができた。
「まさか石に変えられるなんて思わなかったからさ。油断してた」
モムルは静かに首を横に振った。
「……俺がお前を無理矢理にでも連れ出しとけば良かったんだ。油断したのは俺だ」
責任を背負いこむように言ったモムルは、一つ息を吐いてから続けた。
「俺達、と言うべきかね」
「……”たち”って、もしかしてファンエーマのこと言ってるの?」
モムルは小さく皮肉に笑って、「そうだ」と呟いた。
「俺達が変な意地を張らずに協力してりゃ、多少マシな結果もあったかもしれねえ」
テレミアは己の耳を疑った。
今、モムルは「協力」と言った。
あれだけファンエーマを目の敵にしていたモムルが、ファンエーマとの協力を口にしたのだ。
さらに続けて、信じられないような発言がモムルの口から飛び出した。
「あいつは生きてるか?」
モムルがファンエーマを指して使う表現が、驚くほど柔らかくなっていた。
「槍女、って呼ばないの?」
恐る恐る訊けば、モムルはそっと視線をそらし、躊躇いがちに答えた。
「……あいつの覚悟は並のもんじゃねえ。それを思い知ったんだ」
それはモムルがファンエーマを一人の戦士として認めたという表明に他ならなかった。
ファンエーマがモムルを庇う態度で「モムル様は敵ではありません」と主張していたのを思い出す。
たった三日離れていただけなのに、二人の間で何が起こったというのだろうか。
あまりの変容をどう受け止めれば良いのかを考えているうちに、モムルが「俺の話はもういいだろ」と声を上げた。
ファンエーマの安否を問うモムルの質問にまだ答えていないことを思い出し、思索の奥底から自分を引き戻す。
「ごめんごめん。ヘステスとオトも入れてみんな無事だよ。今から引き上げるところ。こっちに来たのは、モムルが怪我してるってファンエーマに聞いたから」
「ついでかよ。泣いて喜んだ方が良かったか?」
「そういうのはファンエーマだけでおなかいっぱい。モムルが大泣きしてたら……ちょっと、ね」
「……そうかい」
ふん、と鼻を鳴らしたモムルは、少し悩む素振りを見せてから、「屈んでくれ」と小さな声で言った。
言われたとおりにすると、モムルがおずおずと右手を伸ばしてきた。
「これくらいはいいだろ」
ぽん、と頭に大きな手が乗って、続いて、わしわしと髪が乱された。
テレミアが小さかった頃から続く、モムルの癖だ。
上手に剣を振れるようになったときや母親のぬくもりを探して震えていたときに、こうしてモムルは不器用に愛情を伝えようとしてくれた。
今、頭の上を覆う力強い感触は、その頃のぬくもりと何も変わらないようにしか思えなかった。
テレミアが心を預けてきた、大きく、優しく、頼りがいのある手。
最早この手を素直に信じられない己のことが、テレミアには無性に悲しく思えた。
そばにいるラズエイダも、今は何も言えないでいるようだった。
テレミアの感情に飲まれた二人の前で、「……ふぅ」とモムルがおもむろに息を吐いた。
「王子サマよ、聞いてるんだろ」
手を頭に乗せたまま、モムルはテレミアではなくラズエイダに語りかける。
「……ああ。どうしたんだ」
ラズエイダの声には隠せない驚きが乗った。
モムルがラズエイダにこうして話しかけてきたことなど、二人の記憶にはない。
「もし俺が死んだら、お前がテレミアを守るんだ。分かってんだろうな」
そのらしからぬ発言に対し、ラズエイダの思考は即座に答えを導き出した。
「当然だ。だが、そもそもテレミアが簡単にお前を死なせると思わない方がいい」
「……つくづく腹の立つ野郎だ」
モムルの嘆きは藪の中へと失せていった。
治癒魔導で腹に空いていた穴を塞いでやると、モムルはがぜん元気を取り戻した。
「ほら行けよ、俺んとこには怪我を治しに来ただけなんだろ? さっさと全員引き上げて、こんな島とはおさらばしようぜ」
ラズエイダに促されて、テレミアは表情に笑顔を貼り付けた。
扱い慣れたこの笑顔だけは、どんなときもテレミアを裏切りはしない。
「そうだね。見た感じ、この辺りには島の人たちもあんまり来ないみたいだから、一回ここに全員連れてくるよ」
会話が自然に成立するよう、”大迷宮までの旅を急いで進めたいテレミア”が口にするはずの言葉を探してつなぎ合わせる。
「ヘステスとオトが着れる服はある? 石像にされた人間は裸に剥かれるみたいでさ、今の二人も裸なんだよね」
焚き火跡の近くに並んだ荷物の中には、テレミアとラズエイダが着ていた服も畳んで積まれていた。
ただ、残っているのはそれだけで、二人の後を追うように迷宮に落ちてきたヘステスとオトの服は見当たらない。
「無いな。村に行きゃあるんだろうが、下手に奴らをつっつくとまた余計な面倒を抱えちまう」
「わかった。私たちの服を着てもらうしかないかな」
「そうだな」
軽く取り決めを終え、テレミアとラズエイダはヘステスを拾うために再び空へと舞い上がった。
(……)
(ほら、あの辺りだったはずだ)
(……うん)
(……)
モムルの視界を外れ”普段通りの元気な私”の演技の必要がなくなってから、テレミアは己の心に残った澱を観察し続けた。
それは自分の決意を鈍らせるもののはずなのに、それに向き合わなければどこにも進めない、そういう諦めにも似た確信があった。




