105. 振り出し
改めて水を噴き上げる大穴の前に立つ。さっきと違うのは、テレミアとラズエイダの胸の中に確かな自信が宿っていることだ。
魔物に襲われないよううずたかく積み上げた土の山から、ファンエーマが顔を突き出している。
彼女に手を振って、二人は魔導の準備を始めた。
テレミアが鰓を維持しながら、ラズエイダが魚に身体を造り替えるよう想像を深める。
これから身に押し寄せる不快感を押し殺す覚悟を決め、二人は詠唱のために息を吸った。
〈──〉
「『大海に御座す青龍よ、我が身を堅牢なる鱗、流麗なる尾鰭によって飾り賜え』」
青い光が舞って、肉体の変化が始まる。
くすぐったさが膨らみ───
(……ん?)
二人は何かがおかしいことに気づいた。
舞い踊る光の中で、何故かぼんやりと肉体そのものが光を帯び始めていた。
不快感に移り変わるはずのくすぐったさが、まるで柔らかな鳥の羽で皮膚をなぞるような軽い肌触りを残して消えていく。
骨身をすり潰されるような感触で進むはずの変化が、妙に心地よく感じられる。
ぱっ、と光が弾けたとき、二人は突然その場に立っていられなくなった。
力の入らない足から、水の流れる地面に崩れるように倒れ込む。
原因はすぐに分かった。
(これは……魚の尾か?)
腰から下、本来なら歪な形をした両足が生えているはずの場所に、透き通るような青色の鱗を揃えた長い魚の尾があった。
二人は地面を踏みしめるための足を失って、姿勢を保てなくなったようだった。
腰の辺りで鱗と皮膚とが入れ替わっている。元々身に纏っていた黒い布は消えていて、腹筋の筋が丁度高く上がった太陽の光に影を作っていた。
(逆に腰から上は人間のまま……? なんで?)
(おい、鰓が消えているぞ。魔導を切らすな……いや、続いているな。何故消えたんだ?)
青い肌、黒い髪、所々に差し込まれた金銀の飾り。胸に鰓は残っておらず、本来なら動きの鈍い魚の頭が鎮座しているはずの首から上には普段通りの感触がある。
姿を変える魔導を使ったはずが、何故か上半身は全て元通りとなっていた。
(魚の尻尾があるってことは、一応泳げることは泳げるんじゃない? 息ができるのかはわかんないけど)
(水に入ってみれば分かることか)
ひとまずの結論を出した二人は、穴に向かって進んだ。
陸を進むには不自由な身体で地面を這って進むうちに、長い尾の適切な動かし方がどんどんと頭の中にできあがっていく感覚があった。
蛇のように身をよじる動き方を覚え、打ち上げられた魚のように地面を叩いて跳ね回る動き方を覚え、最終的には片足立ちに近い状態で普通に身を起こして前に進めるようになった。
そして、”歩く”だけではこれ以上進めないという場所に着いた二人は、意を決して水の中に首を突っ込んだ。
顔から肩にかけて海水が覆っていく。
(───っ!!)
その感触は二人の意識に、至上の歓喜をもたらした。
迷いは煙と失せ、衝動のままに全身を爽やかな抱擁の中に委ねる。
手を拭う水の流れが気持ちよい。頭を撫でる水の流れが心地よい。揺れる尾でかき分ける水の流れが愛おしい。
解き放たれた子犬のように、二人は水と遊んで回った。
私は僕は水と一緒に生きるために生まれてきたんだ、そんな気すらした。
流れの速い場所を見つけて、二人はそこに勇んで泳ぎ寄った。
一度水の手に身を任せて、高く空へと登り、空気の中を味気なく飛び降りる代わりに自分を突き上げた噴水にまっすぐ飛び込む。
思い切り尾をうねらせれば、面白いように身体は流れを遡った。
地面に近づいたところ、どうやらこの流れは目の前の深い穴から噴き出ているようだと分かって、二人はワクワクしながらその中に身を投じた。
何度も魚たちとすれ違いながら暗く冷ややかな洞穴を進む。
その内に、だんだんと辺りが明るくなってきた。
開けた場所を見つけて顔を突き出すと、二人の周りには無限の遠くまで見渡す限りの遊び場が広がっていた。頭の上では不思議なお椀形に世界が歪んでいて、その光景はどこまでも二人の興味をかき立てた。
こんな広い場所があるのだから、まずはとにかく速く泳いでみたい───そう無邪気に思った二人は、ぐっと身体を縮めて、爆ぜるように飛び出した。
すぐ下に積もった泥をまき散らしながら突き進む。
そのうちに、のっぺりとした海の底にはあまり似つかわしくない不思議な形の岩を見つけて、気分のままに二人はその近くに泳ぎ寄った。
岩をよく見てみると、それは仲睦まじく身を寄せ合う男と女の姿をしていた。
〈ケカシェ〉だ。
心にすっと刃を差し込まれたような気分がして、二人は我に返った。
(これ……)
(僕達の前か、もっと前の〈ケカシェ〉か。……眠っている間に不意を突かれたのだろうな。惨いことだ)
半分ほどが泥に埋まった石像のあちこちからは海藻が生え、二度と光を見ることのない四つの目にはびっしりと小さな貝が張り付いている。
一歩違えば、これが自分たちの運命だったのだ。
(……遊んでいる場合ではなかったな。一刻も早く、この忌々しい場所を離れなければ)
(そうだね)
冷静さを取り戻した二人は後ろを振り返り、不自然に凹んだ海面の底を目指し来た道を急いで引き返し始めた。
渦の流れに乗って飛び出した先に、少し不安げな顔のファンエーマが待っていた。
変身を解いた二人は彼女の元に飛んで、これからの動きを説明することにした。
「渦の外まで、普通に泳いでいけるみたい。これからヘステスとオトを引きずり出して、渦に引き込まれないような場所に置いてくるよ。ファンエーマは、最後。ヘステスを人間に戻して、何が起こってもすぐ治せるようにしてから連れてくね」
「仰せのままに」
ファンエーマは軽く頭を垂れた。
「一応訊いとくんだけど、モムルはまだ島にいるんだよね?」
今のところ所在が分かっていないモムルについて尋ねる。
〈ケカシェ〉として渦の中に落とされるには男と女の二人組で石像となる必要があるはずだから、ファンエーマが一人でここに現れたのならモムルは別の場所にいるはずだった。
ファンエーマがこれまで話題にしなかったあたり、そこまで大きな問題が起こっているとも思いにくい。つまりは、島の上で皆の帰りを待っているのだろう、と予想が付いた。
「はい。私どもは村から離れた場所に野営地を設けて、そこを拠点として過ごしておりました。モムル様は、その……」
突然言いよどんだファンエーマの目線がすっと逸らされた。
「……怪我を、しておりますので。そう遠くへは動いていないはずです」
「え、怪我? 大丈夫なの?」
動けなくなるほどの怪我とは何事だろう。島民に襲われでもしたのか。
「ご心配には及びません、イダ様のお作りになった治癒の符紙を渡しておきましたので」
考えていると、ファンエーマがおずおずと付け足した。
ヘステスがいない状態で怪我を治すには、確かに符紙に頼るほかにないかもしれない。
しかし、頑なにラズエイダやファンエーマの手を借りようとしないモムルが突然信条を変えてまでそんなものを使うだろうか。
「大丈夫」とファンエーマは言うが、意地を張って血を流し続け、一人息絶えているだろうという予想の方がよほど説得力がある。
「わざわざありがとうだけど、モムルのことだし符紙は使ってないんじゃないかな」
「いいえ、使うはずです」
間髪入れずに芯の通った声色で返事が返ってきて、テレミアとラズエイダは驚いて彼女の顔を見つめた。
さっきまで逸らされていたはずの目に、揺らがぬ力が籠もっている。
主君に対して物を言うのをあまり好まないファンエーマにしては、随分と珍しいことだった。
水の流れる音だけが大きく聞こえる時間があって、そしてファンエーマの口が動き始めた。
「誰の耳もないうちに、お伝えしておきたいことがございます」
含みのある表現だった。
「何、改まっちゃって」
「モムル様は、テレミア様を裏切ってなどおりません」
頭にその意味が染みこむまでに時間がかかった。
「え?」
モムルは裏切り者でない。
ファンエーマはそう言いきった。
テレミアもラズエイダも未だに掴みかねているモムルの腹の底を、モムルと反目し合っているはずのファンエーマが断言する。
それはあまりにも、考えがたいことだった。
「……どういうこと」
「私の武人としての勘のようなものが、そう言うのです」
全く当てにならない、主観の極みのような”勘”に根拠を置くなど、なんのつもりか。
そう指摘を告げるよりも先に、ファンエーマの表明が続いた。
「言葉と……刃を、交える機会がありました。その中で、モムル様の性格を深く知ることができたと確信しております。彼は、邪な感情でテレミア様を眺めてなどおりません」
芯の通った口調、そして「確信」という強い表現。
相変わらず何も客観的な根拠が示されないのに、不可解なほどに、ファンエーマの意思は強固だった。
「……やけに自信あるんだね」
「はい。テレミア様が「私のために死ね」と一言命じれば、テレミア様の弓たるモムル様は、躊躇うことなく命をテレミア様のために捧げるでしょう」
瞬き一つせず、ファンエーマはモムルの忠義を代弁した。
テレミア様の弓、と聞いて、頭に浮かんだ記憶があった。
───この身はイダ様の槍でございますから。命など惜しくもありません。
再会した後、命を大事にしろと怒るラズエイダに対して彼女が口にした覚悟の台詞。
自分を物言わぬ道具になぞらえる滅私の姿勢は、頼もしく、しかし大切な存在として彼女を見るテレミアとラズエイダにとっては物悲しくもあった。
テレミアを裏切ったはずのモムルが、同じ覚悟を宿しているとでもいうのだろうか。
どうして、ファンエーマがそれを知ることができたのだろうか。モムルとはまるで噛み合わないでいたというのに。
何もかも、まるで信じがたいことでしかない。
しかし、どれだけファンエーマの言葉が不可解であっても、一つ揺るがない事実がある。
ファンエーマは、決して主君に背きはしない。
(───まさか)
ふと、ラズエイダがまた別の記憶をつなぎ合わせた。
組み上がった予想は、テレミアから見ても真実味のあるものだった。
「エマ、お前はモムルと刃を交えたと言ったな。そして、モムルが怪我をしているが、死んではいないとも言った。一つ訊こう。お前とモムルは、どちらが渦の底へと私達を探しに行くのかで決闘をしたのではないか?」
問われたファンエーマの表情が大きく震えるのを、二人ははっきりと認識した。
「……ご明察です」
観念したように小さな声で肯定を表して、それからファンエーマは右手で左の肩を押さえた。その仕草が何を意味するのかは、二人には分からなかった。
「一つしかない【白の杖】を巡って、私とモムル様は争いました。勝者が杖を握り、渦の底へと主君を探しに向かう。敗者は勝者の帰りを待ち、何も成果がなければ、南の果てまで主君を救うための魔導を求めて旅をする。そういう決意がありました」
ラズエイダの感情は大きく揺れ動いている。ただ、今ばかりは怒りよりも呆れが勝ったようだった。
「……お前ならやりかねないだろうな」
どうせ、上手くいかず無為に命を散らすことへの恐怖など、まるで頭の中になかったのだろう。
ファンエーマはそういう人間なのだとは、もう痛いほどよく分かっている。
「ただ話し合って決着をつければ済むことであり、それをわざわざ決闘という形にしてしまった以上、私どもの行いは愚行の誹りを免れません。物を言わない槍と弓が、勝手に互いを損なおうとしたのです。叱責は、いくらでも甘んじて受け入れます」
頭を垂れたファンエーマは、しかしすぐに頭を上げなおし、姿勢を正した。
「ですが、それはモムル様も同じ思いであったということの何よりの証左ではないでしょうか」
まっすぐに金銀入り交じる双眸を見つめながら、ファンエーマは「どうか」と請うように息を吐き出した。
「どうか、モムル様を敵と思うことのないよう、私が代わってお願い申し上げます」
あれほどいがみ合っていたはずのファンエーマとモムルの間で、いったいどんなやりとりがあったのだろうか。ファンエーマにこうまで言わせるほどに、モムルの意志は潔いものだとでもいうのだろうか。本当に、モムルを信じてもいいのだろうか。
そうして渦巻く数々の疑問の中心に、ある重大な問題が浮かび上がる。
「……そしたら、誰が裏切り者になるの」
ヘステスは、私を真人間とすべく力の限りに生きる術を叩き込み続けたのだと言った。
オトは、いつでも私の友達だと胸を張って答えてくれた。
モムルが私の弓であるというのなら。
誰が私の苦しみを望んだのだろう。
「ねぇ、誰なの」
「……私には、お答えできかねます」
「振り出し、ってこと?」
「……申し訳ございません」
ファンエーマの答えは、固い声だった。
暗い海のただ中に放り出された、そんな気分だった。
こういうとき、
(テレミア)
ラズエイダは決まってテレミアの心に手を差し伸べる。
深く沈もうとする感情を無理矢理引き上げるべき時は力ずくで、心が壊れないように労るべき時はそっと寄り添い、ただ「僕が側にいる」ことを知らせてくる。
痛みを知るラズエイダが向ける感情は、どんな形であっても、テレミアの割れた心を満たしてくれる。
(成すべきを成そう。考えるのはそれからでいい)
(……うん)
二人で膝に力を込め、歩き出す。
今は、この迷宮から外に出ることだけに集中するときだ。
考えるのは、それからでいい。




