103. 誓い
迷宮に閉じ込められてから、三日目の朝。
二人は日の出と共に目を覚まし、ヘステスとオトの石像が水に流されない高所に置かれていることをしっかり確かめてから、問題の噴水へと向かった。
水を切り裂く魚の姿と成り変わることを強く思い浮かべる。
〈──〉
「『大海に御座す青龍よ、我が身を堅牢なる鱗、流麗なる尾鰭によって飾り賜え』」
青い光が舞って、肉体の変化が始まる。
くすぐったさが不快なまでに膨らみ、骨身がグズグズと溶けて歪んで形を変えていく。
黙って耐え忍べばいつか終わると分かっていても、決して気分の良い物ではない。
そのうち、二人の皮膚には鱗が生えそろい、頭は動かなくなった。
〈──〉
乾いた声と共に、手脚の隅々にまで力が漲る。
さらにそこから二人は意識的に、より強靱な肉体を望んだ。
視界の隅に浮かぶ四角の枠が、半分ほどから一杯にまで紫色に染まりきる。
それにつれ、青い身体に宿る力はどんどんと高まっていった。
剣と盾が二人に与える「あらゆる魔導を自在に操る能力」は、単に魔導を放つ以外にも大きな恩恵をもたらしてくれる。
強い身体を望むことで、二人が意識して使う魔導とは別に、多重行使の形で身体強化の魔導が発動するのだ。
詠唱を唱えていないためにどの魔導属性であるのかははっきりしないが、今のように意識的に効果を強めれば、ラズエイダがつくる符紙などとは比べものにならないほどの強化が施される。
これから二人が挑むような肉体の限界を試す戦いにおいて、これ以上に心強い助けはそう多くないだろう。
(行こっか)
(ああ)
空を突き上げるような濁流を睨みながら、二人は覚悟を決めた。
大きく息を吸い込む。
どれほどの深さがあるのかも分からないが、息が続く間に”向こう側”に出られなければ脱出の芽はない。
倒れるように水の中に飛び込み、思い切り足を搔く。水と触れた鱗が歓喜に震えるようになじみ、身体と水との狭間を曖昧にする。
穴の中に身を躍らせると、一段と水の勢いが強まった。
殴りつけるような水の圧を全身に感じる。
それに力ずくで抗い、ねじ伏せながら、二人は一心不乱に身体をうねらせ、流れをかき分けていった。
やがて、周囲が完全に暗闇に閉ざされた。
視界を失ったために凄まじい勢いで向かってくる石を躱すことができなくなり、二人は何度も頭を痛烈に弾かれ切り裂かれた。
(───っ)
最初は強い意志で痛みを押さえつけていたものの、先の見えない闇をかき分け続ける間に、どちらからともなく怯えが生まれた。
息が続くかどうかという絶対的な制限がある以上は、どこかで見切りをつけなければならない。
最初はただの理解として頭の中にあったその考えは、時が経つにつれどんどんと影を大きくして二人の心を覆っていった。
どれだけ進もうと光の差さない闇の中、命を賭して足掻き続けるか、一度戻って姿勢を整え別の方策を探すか。
現実的な選択は、一つしかなかった。
二人は身体から力を抜いた。
すぐに水の流れが二人を網に捉え、閉ざされた迷宮へと連れ戻し始める。
一度力の限りに辿った道をあっという間に通り抜け、青い魚人は高く空に打ち上げられた。
陸の上では動きの鈍い魚人の身体でどうにか受け身を取って着地し、二人は変身を解いた。
乾いたままの黒い布地が現れ、身を包んだ。
〈──〉
「『治癒の力よ』」
人の身体に戻っても消えなかった頭部の傷を癒やし、荒れた息を整える。
(……きっついね)
(考えよう。なにか……手は、あるはずだ)
ラズエイダはそう告げながらも、心の中に苦い思いを抱えている。
どうすれば、この迷宮の外に出られるのか。
あまりの無理難題が、二人の前に立ちはだかっていた。
(ともかく、あの水の勢いを殺さないことには話が始まらないだろう)
(氷か土でどうにか穴を塞いで水をせき止める、とか?)
(塞いだ穴に僕達がどうやって入るのかが問題だな。穴を開ければ、そこからまた水が噴き出してしまう)
(穴に入った後に無詠唱の魔導で塞ぐのは……難しいね。息が続く時間を削っちゃう)
(ああ。そもそも無詠唱かつ多重行使ともなれば、まともな蓋など作れないだろう)
(……別の方法を探さないと)
(学校で治水を学んでおくべきだったか?)
解決策などすぐに思いつくはずもなく、ラズエイダが投げやりに過去を悔やんだそのときだった。
二人の立つ場所に影を作るように、何かが太陽の光を遮った。
何気なく視線を向けた次の瞬間に、二人は走り出した。
例え僅かな一瞬であっても、彼女の顔をラズエイダが見間違うはずもなかった。
〈──〉
「間に、合えッッ!!」
力の限り足を動かし、滑り込むように伸ばした手の先に、湿った感触が走る。決して離さないように、両の腕を引き締まったその身体に回す。
空から舞い落ちてきた彼女が怪我をしないよう、二人は自分たちの身体を下敷きにして水の流れる地面へと崩れ落ちた。
「───エマっ!」
胸に抱かれるファンエーマの顔は真っ青で、半開きの口からは水が滴っていた。
触れる肌からは確かな鼓動が伝わってくるのに、一向に彼女の目は開かれない。
「おい、しっかりしろ、エマ!」
ピクリとも動かないファンエーマを前にして、二人の頭に最悪の未来が過った。
肺に水が入っていれば、彼女は助からない。
外傷を癒やす治癒魔導では肺から水を取り除けないし、溺水は病ではないから医術も通じない。
「目を覚ませ、頼む! エマ! 私を置いていくな!」
頬を叩き、祈るような気持ちで何度も声をかける。
ごぼっ、とファンエーマの口から水が溢れた。
「!」
「……っ、か、はっ、はっ!」
異物を吐いていたのは最初だけで、すぐにファンエーマの身体は空気を出し入れすることを思い出した。
鍛えられた手足に力が戻り、彼女の意思の元に動き出す。
パチリと開かれたファンエーマの両目が、すぐ上から見下ろす金銀入り交じる双眸を映した。
「……イダ、様?」
「ああ……良かった……っ」
喜びが胸に満ちる。
二人はファンエーマの口から零れたままの水を拭い、額に張り付く白い髪をどかして、徐々に血色の戻りつつある彼女の顔を綺麗に整えた。整えるものがなくなってからも、二人は何か手を伸ばす理由を見つけてはファンエーマの頬に指や手のひらを触れさせた。彼女が生きていることを、その美しい顔に冷たい死の色味が浮かんでいないことを、何度でも確かめたかった。
手を動かす度に、彼女の温みを感じる度に、心の中に花が咲くような気分がする。大切な人が死なずにいてくれたことが、ただひたすらに嬉しかった。
ふとファンエーマの手が伸びてきて、二人の手に触れた。
ファンエーマは自分の顔を撫でていた青い手に、初めはただゆっくりと己の手を重ね、それから確かめるように何度も力を込めて握りしめた。
その目が見開かれたと思った次の瞬間、
「───!」
「イダ様っ!!」
二人は彼女に抱かれて、背中を水の流れる山肌に押しつけられていた。
「よくぞ……ご無事で……っ!」
巻き付けられたまだ冷たい腕が、痛いほどに身体を締め付けてくる。
そこで再びファンエーマは激しく咳き込んだ。その咳は飲み込んでしまった海の水ではなく大きすぎる感情に由来するものなのだとは、押しつけられる胸の奥に感じる鳴動と耳元のすすり泣きが鮮明に伝えてくれた。
背中に腕を回し、ぽんぽんと叩いてやる。
しばらくそうやって大きな子供をあやしていれば、だんだんとファンエーマは落ち着きを取り戻していった。
やがて自分がどんな行為に走っているのかにようやく思い当たったらしく、彼女はあわあわと姿勢を正し主君の身体を引き起こした。
「申し訳ございません、とんだ無礼を!」
「良い、気にするな。どうやら随分と心配をかけてしまったようだな」
「……一生の不覚をとったものとばかり、思い込んでおりました」
平伏するファンエーマの声には、例えようもないほどの安堵が表れている。
きっと、二人が迷宮に閉じ込められていた間、ずっと自分のことを責め続けていたのだろう。
再会できたことをまずは喜び合いたいラズエイダが「そう固くならないでくれ」と顔を上げさせて、ファンエーマはゆっくりと立ち上がった。
「本当に、生きていらしたのですね……」
「ああ。僕達の身に何が起こったのかはまるで知れなかったが、二人いれば大抵のことはどうにかなるものさ。……イダ様イダ様って言うけど、私もいるんだよ?」
ラズエイダがずっと暇を持て余していたテレミアに口を動かすよう伝えてきたので、テレミアはありがたく久方ぶりの言動の自由を満喫することにした。
「そ、そうでした。テレミア様も、ご無事で何よりです」
「ごめんねー、主従水入らずの再会にしてあげられなくって。イダ様に会いたかったんだもんね」
「いえ、そんな、滅相もございません」
ファンエーマの顔は赤い。
(変な台詞を口にするのはやめてくれ、僕まで変な気分になるだろう)
(もうなってるね。かぁわいぃー)
(おい!)
(ほら、あとは好きに喋りなよ)
照れ隠しの叫びをファンエーマに聞かせてやれないのを口惜しく思いつつ、テレミアは再びラズエイダに発言の主導権を譲った。
「……とにかく! 私もお前も、テレミアも、みんな無事と分かったんだ。今はそれを喜んでおこうじゃないか」
「……はい、主様」
ラズエイダは場の空気を引き締めるべく区切りをつけるような言葉を選び、ファンエーマは恥ずかしげに頷いた。
そんな二人を茶化してやる隙を探していると、やおらにファンエーマが片膝をついた。
さっきまでの照れはどこへ消えたのか、真剣な顔でいる。
そして、
「偉大なるアルタス様に誓って、二度と御身を傷つける刃を通しはしません」
ラズエイダが聞き慣れた凛々しい声が、聞き慣れない仰々しい言葉を紡いだ。
突然こんなことを言われれば、二人の中では戸惑いが先に立つ。
(御身を傷つける刃って、どういうこと? あんた別に怪我も何もしてなかったけど。アルタスっぽい言い回しだっけ?)
(……いや、そんなことはない。アルタス様に誓うのは、騎士の誓いとしてありふれた表現だが)
(だよね。……私たちが気絶してる間に何かあったのかな)
(おそらくな。後で訊いてみなければ)
(うん)
二人で相談する間も、ファンエーマは微動だにせずラズエイダの言葉を待っていた。
ラズエイダはどう答えるべきか少し考えてから、右手に剣を生み出した。
剣の腹でファンエーマの肩を叩く。アルタスの騎士の叙任式が、このような形式だった。
「私はお前のような傑物が仕えるには値しない落伍者でしかないが、お前の献身を誰よりも強く信じている。どうか、我が身果てるまで私のエマであってくれ」
「必ず」
芯の通った返事だった。




