100. 悲鳴
寒い。
身体の芯が痛むほどの冷たさを覚えて、テレミアは思わず目を開いた。
「───!?」
目の前に、白く、半透明の物体が浮遊していた。
物体の上の方には、丁度二つの目と口くらいの並び方で三つの黒い闇が並んでいた。
物体の両脇には、丁度腕くらいの太さと長さで、同じく半透明の円筒が生えていた。
円筒の先端は、テレミアの胸に向かって伸びていた。
「っ」
咄嗟にテレミアは水の中で倒れていた身体を起こし、飛びすさった。
根拠も何もないが、目の前の白い何かに触れてはいけない、そんな強烈な予感があった。
水に濡れた全身にまた寒気が走る。それでも、テレミアは目前の脅威への警戒を解けなかった。
左手に盾を生み出す。さらに剣を引き抜こうとして、右手が空を切った。
こんなときにどうして、と苛立ちながら腰を確かめる。
すぐに、剣がないどころではない問題が目に飛び込んできた。
頭の中が真っ白に、それから真っ赤に染まる。
「な、な、なんで!?」
テレミアは裸になっていた。
白い衣はおろか、靴も、下着も、何一つテレミアの身体を守る衣服は存在していなかった。
焦りと戸惑いと、誰かに見られたらどうしようという恥ずかしさで、テレミアの心にあったはずの恐怖はいとも簡単に塗りつぶされた。
「ちょ、ちょっと待って!」
そんな願いが聞き入れられるはずもなく、テレミアに向かって白い物体はまっすぐ近づいてくる。
「待ってって!」
どう考えても人間ではない相手に必死に待てと叫びながら、絶対に隠さなければならないところを両手で隠す。その行為に意味があるのか、などと気にする余裕はなかった。
脚を掬おうとする流水を跳ね飛ばしながら、テレミアはとにかく死に物狂いで逃げた。
走り出してすぐ、テレミアは身に降りかかっているさらなる異常に気づいた。
どうやら自分は、人でごった返す石積みの家の中ではなく、絶え間なく水が流れている奇妙な禿げ山の中にいるらしい。後ろに迫る謎の生物と自分の他に動くものは見当たらない。人の気配も、動物の気配もない。
おかしい。
さっきまで、チェリの家で無数の島民に囲まれて、どう切り抜けるのか悩んでいたはずなのに。どうして突然こんな場所に。……裸で。
と、そのとき。
「う、うわぁぁぁぁぁぁ!」
それほど離れていないであろう場所から、聞き慣れた声の悲鳴が届いた。
「ラズエイダ!?」
返事はなかったが、とにかく何かが起こっているのだろう。
そう判断したテレミアは、悲鳴が聞こえた方へ走る向きを変えた。
「ああああああ!? 何なんだあぁぁぁぁ!?」
悲鳴は何度も繰り返されていたから、その元を探し出すのは難しいことではなかった。
一つ小さな尾根を越えると、見下ろす先にラズエイダがいた。
一糸まとわぬ姿で。
「───ぶっ」
テレミアは目の前で繰り広げられている光景のあまりの滑稽さに、自分が置かれた状況も忘れて吹き出した。
ラズエイダは、テレミアも遭遇した白い何かに追われている。
顔を恐怖に歪めて、何度も転げそうになりながら、「ああああ!」とみっともなく叫び、不格好に両手を振り回して走っている。
あまりまじまじと見つめるべきでもないのだろうが、股の間にぶら下がったものが持ち主の動きに合わせて間抜けにぺしぺし揺れている。
これを傍から見て、笑うなという方が無理な話だろう。
「た、助けてくれ、エマァ! テレミアァ! ヘステスッ! どこだ、どこにいるんだぁぁぁぁ!」
ただ、流石に名指しで助けを求められたとなると、放っておく訳にもいかない。
テレミアは手頃な岩に身を隠し、顔と腕だけを突き出してラズエイダに呼びかけた。
「ラズエイダ、こっち!」
「テレミア!? どこだ!?」
「ここ、ここだって!」
竜巻もかくやの勢いで首を振るラズエイダに向けて、テレミアは思い切り手を振った。
幸い、茶色ばかりの環境においてテレミアの赤髪はよく目立つ。
「そこかっ!」
ラズエイダはついに差し伸べられた救いの手を失うまいと、勢いよくテレミアに向かって走り出した。
正面に待つテレミアに、全てをさらけ出す形で。
テレミアは思い切りラズエイダから顔を背け、右の手だけを伸ばした。
「けっ、剣、剣出して! 私盾出してるから!」
「っ、わ、分かったっ!」
さっきまで恐怖ばかりが現れていたラズエイダの声に、間違いなく恥じらいの色が混じり込んでいることがよく聞き取れた。
足音がどんどんと近づいてきて、そしてテレミアの右手を何かが掴んだ。
意識が金銀に爆ぜ、慣れ親しんだ形に収束する。
テレミアの心に、ラズエイダの感情がなだれ込んできた。
悶絶するような気恥ずかしさが二人の身体を包む。
ラズエイダの動かした両手が顔を覆った。
(その……何だ。すまなかった)
(……最っ低)
不可抗力だったと理解していたが、詰る他に上手くこの場を切り抜ける方法は思いつけなかった。
何が悲しくて、こんな状況で互いの感情までも思い知る羽目になっているのだろう。
(……しばらく、僕の記憶を覗くのはやめておいてくれないか)
(……元からそのつもりだったから。最低)
(……すまない)
ぎこちない思念のやりとりを続けていたとき。
目の前の岩を貫いて、ぬっと白い何かの手が突き出てきた。
「ぬおおお!?」
思わぬ場所からの追撃にラズエイダが腰を抜かしそうになるも、今のラズエイダは一人ではない。
(何してんの馬鹿!)
テレミアは焦って逃げ出そうとするラズエイダの本能を叩きのめし、そのまま右手に剣を生み出した。
(斬れるかどうかくらい試さないと!)
(お、おうとも!)
〈──〉
動きは大して素早くない白い何かを、頭らしい部位の側から袈裟懸けに切り飛ばす。
手応えは全くなかったが、斬った場所から煙となって半透明の身体は霞んでいった。すぐに、煙は見慣れた光の粒になって二人の握る剣へと飛び込んだ。
(……ま、魔物だったのか、これは)
(みたいだね。じゃあここは迷宮なのかな)
残心を解いて剣を消す。
いざ本気で向き合ってみれば随分とあっけない相手だった。
(助けてーって叫ばなくても、あんた一人でどうにかできたんじゃない?)
揶揄うような気分で伝えると、ラズエイダの感情はさっきまでとは別の恥ずかしさに染まった。
(状況が飲み込めない中で、むしろよく逃げたものだと思って欲しい)
言い訳らしい言葉を、一応黙って受け止めてやることとする。
(僕がヘステスに何を仕込まれたのかはお前も知っているだろう。相手を見定めるよりも先に逃げるべきだと身体に叩き込まれたんだ。ほら、普段の迷宮であればお前やエマが近くにいるはずだろう? 二人に対処を任せて僕は身を守ることに集中するのが役目なはずだ。現に、これまではそれでうまくやってきたじゃないか。さっきだって、結局お前に声が届いたんだから僕がやったことは間違ってなかったはずだ、そうだろう)
明らかに普段より言葉数が多いあたりに、ラズエイダの本音がよく滲んでいた。
(ま、さっきの逃げっぷりは面白かったよ)
何気なく返すと、ラズエイダの心が黒く染まった。
(……お前のその馬鹿にする感情は、実に不快だ)
(えー?)
馬鹿にするもなにも、面白かったのだから仕方ない。
面倒な反発をどう丸め込むかを考えて、テレミアはかつて海賊団で男どもの相手をするために鍛え上げた話術の中に答えを得た。
(粗末なもの見せつけといて、不快なんてよく言うね)
(っっ!?)
効果はてきめんだった。
ラズエイダの心は完全に沸騰しながらも、女の前で下の話をするわけにはいかないという高貴な育ち由来の足枷が邪魔をして、何も言葉を生み出せない。
結果。
(お、お、お前という奴は……っ!)
ラズエイダはただの不満を表にすることしかできなくなった。
(あはは、男ってほんと単純)
(覚えていろっ……! いつかこの屈辱は、必ず……!)
大層な決意を胸に秘めはじめたラズエイダのことを改めてこけにしつつ、またそれを怒りの燃料と換えられつつ、としているうちに、二人はいつもの調子を取り戻していった。




