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迷宮世界のオデュッセイア  作者: 諭吉
四章 燃ゆる槍と燻る弓
99/99

99. 挑発

 身を沈め、潜るようにそれを躱してから、ファンエーマは一気に前方に踏み込んだ。

 近接武器である槍を構えて弓兵へと突撃するのは、考えるまでもなく愚かなことだ。刃が届く距離に辿り着くまでに、ただ一方的に攻撃を受け続けることになってしまう。


 しかし、ファンエーマにはあらゆるものを捉える目と、望むまま敏捷に動く身体が備わっている。

 今モムルが握るボウガンは、モムルの言葉を借りるなら「引きが弱い」。あまりこういった武器に明るくないファンエーマではあったが、対峙してみてその悩みがよく分かった。


「───しっ」


 この程度、見てから躱すのに何の苦労もない。


 再び放たれた一撃を今度は身をのけぞらせるようにして避け、ファンエーマはモムルに向けて加速した。

 モムルはファンエーマから一定の距離を保つように背走し、時折背後を窺っている。


 ぱっと振り向いたモムルがボウガンを掲げ、その引き金に指がかかった。

 射線から逃れるべく、ファンエーマは回避に移った。

 しかし矢は飛んでこず、少し近づいたと思ったモムルの背中は再び遠ざかっていく。


 意識的に脚に力を込めた次の瞬間、


「───!」


 背走したまま、モムルの腕が後ろを向いた。

 狙いを定めないまま、矢が放たれる。視線も手の向きも読み取れない。

 ファンエーマは咄嗟に、身体の急所を護るように槍を振った。

 カン、と乾いた音が響き、手に確かな感触が伝わってきた。


 背中に流れる汗の冷たさを感じながら、ファンエーマは神経をさらに研ぎ澄ませた。

 この男は、やはり殺し合いというものをよく分かっている。



 しばらく、互いの忍耐を試し合うような追いかけっこが繰り広げられた。

 藪の中を駆ける速度はファンエーマの方が優れていたが、罠を仕掛ける権利は常にモムルの方にあった。

 一度でも見失えば一方的に狙撃を受けることなる以上、ファンエーマにはモムルを視界から外すことは絶対にできなかった。一方で、矢の本数という絶対的な制約の中にあるモムルには、どこかでファンエーマを振り切る必要があった。


 先に失敗したのはファンエーマだった。


 モムルが放った矢の軌道が、突然大きくブレた。


 振り抜いた槍をすり抜けて胸へと突き刺さろうとした矢を辛うじて肩で受ける。

 見れば、刺さった短矢は矢羽根が大きく欠けていた。

 チェリの身体を壊し尽くしたときに破損してしまったものだろうか。


 即座にファンエーマは矢を引き抜き、肌身離さず身につけていた主君の符紙を一枚取り出した。

 肩の傷口にあてがい、歯で四隅の一つを噛み締め思い切り首を振る。

 破れた符紙は光に溶け、そのまま傷口を埋めていった。


 しかし、完璧な治癒には至らない。表の傷が塞がる程度で、破れた肉が治った感触はしない。ラズエイダも語っていたように、起符術による治癒はあくまで応急処置程度のものだ。


 動きにくくなった肩を無理矢理回しながら、ファンエーマは顔を上げた。

 逃げ続けていたはずのモムルが、反転してこちらに駆けてきているのが見えた。既に次の矢を装填したボウガンがまっすぐに向けられている。


 ファンエーマは思い切り横へと跳んだ。

 さっきまで心臓があった場所を、ひゅんと音を立てながら矢が通っていった。

 立ち上がり、もう一度飛びすさる。

 追撃の一撃は、やはり心臓があった場所を正確に貫いた。


 ここでようやく、ファンエーマは槍を構えてモムルを正面に見る姿勢を取り戻した。

 モムルはさらに近くへと位置を変えていた。


 距離という有利を切って捨てる不可解な判断を下した理由は、すぐに見て取れた。

 垣間見える矢筒に、たったの数本しか矢が残っていない。

 もうモムルには、牽制のために矢を浪費する余裕がないのだ。さっき肩に突き刺さった壊れかけの矢は、敢えて使ったというよりはむしろ、苦し紛れに放った一撃だったのかもしれない。


「来なさい!」


 己に活を入れるため、ファンエーマは吠えた。

 槍を振り上げ、三たび心臓をめがけて飛んできた矢を弾き飛ばす。


 ついに槍の届く場所にまでモムルは詰めてきた。

 ファンエーマは身体に染みついた動作に忠実に、モムルの大きな身体を的として槍を突き出した。

 モムルは目を大きく見開いて、矢を放ったままのボウガンを棍棒のように振り回した。

 槍の柄に鋭く当たったボウガンからの力が、槍の描く軌跡をモムルの身体に当たる寸前で大きく歪めた。


 僅かに脇の下を裂いていった槍を、モムルは腕を畳んで挟みこんだ。

 ファンエーマが槍を切り返すよりも早く、モムルの顔に獰猛な笑みが浮かんだ。


「っらぁ!」


 ぐん、と手に力が伝わる。

 次の瞬間、槍の穂先だけが宙を舞った。


「っ!?」


 モムルは力に任せて、決して細くはない木製の柄をへし折ったのだ。


 驚く間もなく、鋭い膝蹴りがファンエーマを襲った。

 槍の残骸で軽く打撃を当て、勢いをいなす。

 するりと躱した動きのままに、ボウガンを握る左腕を取って懐に入り込む。


 凄まじい力業に瞠目こそしたが、しかしファンエーマがラズエイダのために身につけた戦いの技は、当然槍ばかりではない。


「『雷よ』!」


 こうして距離を詰められたのなら、別の方法で戦うまでだ。


「ぐう、っ……!」


 がら空きの腹にもろに雷の一撃を食らったモムルは、苦悶の叫びを上げて身を折った。

 普通なら痛みのあまり白目をむくものだが、脚を踏ん張り崩れ落ちない辺りが、この大男の頑強さをよく示している。


 苦し紛れに振り回された腕を軽く避け、今度は心臓に手を伸ばそうとして───


 きらり、と何かに反射した太陽の光が目に届いた。


「───!!」


 考えるよりも先に、ファンエーマは思い切り身をかがめた。

 頭上をぶんと風が撫でていく。


 肌がヒリつくほどに感じられる殺気を信じて、飛びすさる。

 目の前で再び振り抜かれた右の拳からは、鉄製の鏃が突き出ていた。


 開いてしまった僅かな間合いは、モムルにとって最後の勝ち筋だった。

 目にも留まらぬ早業で矢がボウガンに添えられ、弦が引き絞られていく。

 これだけの至近距離で放たれる矢を避けることは、さしものファンエーマといえども叶わない。


 ファンエーマは右手に握った槍の残骸に全ての力を込めた。

 全身で生み出す前への推進力をただ一点にかき集め、折れ痕に残るただのささくれで鎧のような筋肉を刺し貫かんとする。


 手に伝わる反発を撥ねのけ、肩の捻りで皮膚を食い破り、踏み出す足で肉を裂く。

 確かに、ファンエーマの放った突撃は、モムルの腹を貫いた。


 しかし、その時には既に、勝負の決着はついていた。


 己の心臓にまっすぐ向けられたボウガンを、ファンエーマはどこか穏やかな感情で眺めた。


 ───なんと惨めな終わり方を迎えてしまったものだろう。


 【白の杖】を手に主君を救いに向かうのは、モムルの役目となった。

 目を覚ましたテレミアはきっと、ラズエイダが目を覚まさないことを知って、手を尽くしてラズエイダを救おうとするはずだ。モムルがどんな思いでそれを支えるかも知らないままに。


 とはいえ、この男の心が何を嘆こうと、私の知ったことではない。それは生き残ったモムルが甘んじて受け入れるべき、勝者の義務だ。


 ……どうか、どんな形でも構わないから。

 イダ様のお側に、この役立たずの魂が生まれ変わりますように。


 ファンエーマは目を閉じ、その時を待った。


 風がファンエーマの耳を撫でた。


 どさり。


「……?」


 ファンエーマは目を開き、重たい音の出所を確かめた。


 目の前で、モムルが地面に座り込む姿があった。

 ボウガンを握る右手は、力なく地面に垂れていた。


 へっ、とかすれた笑い声が響いた。


「……お前の勝ちだ」

「……何故、ですか」


 私は、まさか情けをかけられたのか。


 信じられない思いで返すと、ぎろり、とモムルの目がファンエーマを貫いた。

 次いで、モムルは左手を腹の傷口に添えた。


「お前が死んだら誰があいつらを助けるんだよ」

「ですが……」


 モムルの傷は、正しい処置さえすればだが、別に命には差し障りない程度のものでしかない。

 それなのに、どうして。


 問いを言葉にする前に、答えはモムルの口からもたらされた。

 

「この傷で海に潜れる訳ねえだろ」

「……あ」


 それは言われてみれば当然のことだった。

 血をだらだらと流す傷口を抱えたまま海水に身を晒すなど、紛うことなきただの自殺だ。命をかけてでも主君を救いに行こうとする決意とは、何を間違っても同じものとは言えない。


「……まさかお前、俺と差し違えようとでもしてたのか?」


 ファンエーマは顔を俯かせた。確かめるまでもなく、きっと真っ赤に染まっているだろう。

 

「……お前、さては馬鹿だな」

「……弁解のしようもありません……」

「俺ぁ、どうしてこんな女に負けちまったんだろうなぁ」


 モムルは肩をすくめ、そして手を伸ばした。


「いいか。死んでもあいつらを助けろよ」


 揺らぎのない瞳に宿る思いは、ファンエーマの心にまっすぐに届いてきた。


「……」


 ファンエーマは少し熱の冷めた頭で考えて、伸ばされた大きな手を握り返す代わりに、一枚の紙を握らせた。


「あ?」


 モムルは怪訝な目つきで手を引き寄せ、開いた。

 そこにはラズエイダが作った治癒のための符紙が収まっている。


「……何だこの紙くず」

「使い方は知っているでしょう」


 ファンエーマはモムルのことを突き放した。

 今なら、多少の挑発程度は受け容れられるだろうという確信があった。


「もしあなたが生きてテレミア様に会いたいのなら。……テレミア様の弓を全うしたいのなら。あなたはすべきことを分かっているはずです」

「……余計なお世話だ」


 顔を背けたモムルは、きっと隠れて傷を癒やすのだろう。

 血を失いすぎれば体力の回復に大きく響いてしまう。

 一刻でも早く傷口を閉じるのがモムルにとっては最善となるはずだ。


「それでは」


 ファンエーマはくるりとモムルに背を向け、戦う間にいつしか大分離れてしまった元の焚き火の場所に向かって歩き始めた。



 島民に見つからないよう【白の杖】を隠し持ったまま、ファンエーマは海岸に舟を探した。幸いにも、目的の舟は昨日四人で降りた場所にそのまま残っていた。


 海に向かって舟を押し出し、水に浮かんだのを確認して乗り込む。

 モムルと二人で漕いだ時よりも少し長い時間をかけて、ファンエーマは渦を目前に見る場所まで辿り着いた。


 相も変わらず現実味がないほどに大きな渦は、あらゆるものを飲み込まんとごうごう吠えている。


 今からこの中に飛び込むのだ。

 そう思うと、心の中にはどうしたって恐怖が湧き上がった。


 ファンエーマが決意を固めるのを待つことなく、渦の引力が小さな舟を引き寄せ始めた。


 舟はぐんぐんと海の上を進み、やがて櫂での操縦は利かなくなった。

 すり鉢の縁を乗り越え、一気に底へ向かって滑り出す。


 バクバクとうるさい心臓を押さえつけて、ファンエーマは大きく息を吸った。

 これ以上吸えば肺が破裂すると思うほどに吸い込んだ瞬間、ついにファンエーマの身体は海の中に放り投げられた。


 まるで予測などできない、絶え間ない全方位からの水の抱擁を気力だけで耐え忍びながら、ファンエーマは眼下に見えた闇の口をにらみ付けた。


 あの奥に、何かが待っている。

 

 ”無の世界”か、水で一杯のただの洞穴か。

 四人の石像か、何も見つからない絶望か。


 奇跡を(おの)が手に掴むことを強く強く念じながら、ファンエーマは水の流れるままに海の底のさらに底へと、凄まじい勢いで引き込まれていった。

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