意識し始める2人
病室から出てきた彼女の表情が、今朝までのそれとはどこか違って見えた。いつもはどこか影を纏っているような、儚げな彼女が、今は夕陽に照らされて、驚くほど柔らかく、そして温かい顔をしている。
「待たせてごめんね、悠くん」
そう言って向けられた微笑みに、俺は足の置き場を失うような感覚を覚えた。
なんてことのない、ただの謝罪と感謝の言葉。なのに、今の七海の表情には、彼女の年相応の瑞々しさと、今まで俺が守らなきゃいけないと固く信じていた「脆さ」とは別の、芯の強さのようなものが宿っている気がした。
(……綺麗だな)
不意に浮かんだ思考に、自分自身で驚く。
彼女のことを「可愛い」と意識して以来、彼女の表情の一つ一つが、目に焼きついて離れない。今、横に並んで歩く彼女の横顔を、俺は思わず見惚れてしまった。風に揺れる髪の先が夕陽で金色に染まり、少しだけ上気した頬が、夕闇に溶けそうなほど優しく輝いて見える。
ふと、七海が歩きながら俺の気配を感じたのか、視線をこちらに向けてきた。
目が合う。それだけで、俺の鼓動は一段と速くなった。
「……どうかした?」
不思議そうに小首を傾げる彼女に、俺は慌てて視線を前へと戻す。心臓が跳ね上がるのを必死に隠しながら、俺は喉の奥から絞り出すように言葉を紡いだ。
「いや……なんでもない」
あまりにも不自然な反応だったけれど、七海はそれ以上深くは尋ねてこず、ふふっと小さく笑った。
しかし悠は頭の中から無理やり思い出させる。彼女との距離感は常に慎重であるべきだ、と。もし彼女がうちにに居づらくなるようなことがあれば、それは俺が一番守りたかったものを壊すことになる。だからこそ、今のこの「ただ隣に並んで歩く」という距離を、守らなければならない。
「……ねえ、悠くん」
七海が少しだけ立ち止まり、俺の袖をそっと引いた。
「もしよかったら……近いうちに、どこか出かけない?」
予想もしなかった言葉に、俺は思わず足を止めた。
七海は少しだけ緊張した面持ちで、でも期待に満ちた瞳で俺を見つめている。彼女から「出かけよう」という提案があるなんて。
「……出かけるって、どこか行きたい場所があるの?」
俺がそう聞き返すと、彼女は少しだけ俯き、照れくさそうに指先をいじった。
「ううん、どこでもいいの。ただ……悠くんと、病院の外で、ゆっくり話がしたくて」
彼女の真っ直ぐな言葉が、胸の奥に直接届く。
そんなことを言われて、期待するなという方が無理な話だ。彼女との距離が、昨日までのそれとは確実に変わろうとしている。俺は自分の拳をポケットの中で強く握りしめ、高鳴る鼓動を必死に抑え込みながら、努めて落ち着いた声で返した。
「……ああ。俺も、行きたい。七海がいいなら、ぜひ行こう」
その言葉を聞いた瞬間、七海の顔がパッと明るくなった。まるで季節が春に変わる瞬間を見たような、そんな鮮やかな笑顔だった。夕暮れの橙色が、彼女の頬をいつもより一層赤く染め上げている。いや、それは夕陽のせいだけではないはずだ。
彼女のその純粋な喜びに、俺は再び目を奪われる。
先ほど病室から出てきた時も思ったが、今の七海は、ただ可愛いという言葉では足りないほど眩しい。見惚れてしまうとは、こういうことかと納得するほど、俺の視線は彼女から逸らせなくなっていた。
「どこに行こうか。……どこか行きたいところとか、見てみたいものとか、ある?」
俺はできるだけ平静を装って尋ねた。彼女が今、どんな気持ちで俺を見ているのか。父とどんな話をして、どうしてこんなにも大胆に誘ってくれたのか。知りたいことは山ほどあるけれど、今はただ、二人で出かけるという「未来」を共有するだけで精一杯だった。
「どこでも……って言ったけど、本当は少し考えてた場所があるの」
七海は言いながら、また顔を赤くして、今度は俺の顔を伺うように少しだけ上目遣いになった。その仕草があまりにも無防備で、俺は喉の奥が鳴るのを必死にこらえた。
「……あの、病院のすぐそばにある水族館、行ってみない?」
七海は少しだけ身を乗り出し、期待と不安が入り混じった瞳で俺をじっと見つめた。
「一度行ってみたくて……もしよかったらだけど……」
その言葉が、俺の胸の奥を激しく揺らした。水族館。薄暗い館内、ゆらゆらと揺れる水槽の明かり、そして隣には七海。そんな状況を想像しただけで、心臓が早鐘を打つ。
「水族館、か。……いいな、行こう」
俺は努めて落ち着いた声を絞り出した。七海のその真っ直ぐな瞳に見つめられると、いけないことをしているような、それでいてこのまま溺れてしまいたいような不思議な感覚に陥る。
「……本当? よかった。……悠くん、ありがとう」
彼女は安心したようにふわりと微笑んだ。その笑顔があまりにも眩しくて、俺は思わず息を呑む。さっき病院を出てきたときから、彼女の表情の一つ一つが、これまでとはまるで違う輝きを放っているように見える。
(……ほんと、可愛いな)
見惚れてしまうとは、こういうことかと納得するほど、俺は七海の表情から視線を逸らせなくなっていた。
「……今度の休みにでも行こうか」
「うん。……楽しみにしてるね」
彼女が、俺の服の袖をほんの少しだけ掴んだ。
その小さな仕草に、理性がまた音を立てて崩れそうになる。けれど、彼女のその控えめな甘えを、俺は否定できなかった。
帰宅後、加藤家の夜は静かに更けていった。
リビングで過ごす時間が終わると、二人はそれぞれの自室へと引き上げた。だが、ドアを閉めたその先で、どちらもすぐには眠りにつけそうになかった。
悠は、自分のベッドに腰を下ろすと、先ほどまでの時間が幻だったのではないかと何度も確かめるように溜息をついた。
「……デート、だよな……」
口に出すだけで、心臓の鼓動が耳元まで響いてくる気がする。病院からの帰り道、七海が袖を引いてくれたあの感触が、手のひらにまだ残っているようだ。
彼女は、自分との時間を求めてくれている。その事実が、たまらなく嬉しい。
「俺が、七海を楽しませないと……」
悠は拳を強く握りしめ、自分に言い聞かせるように呟いた。彼女がどんな魚が好きか、歩き疲れないルートはどれか。今まで以上に慎重に、そして誰よりも彼女が笑えるような計画を立てなければならない。彼女にとって、この日が「ただの病院の帰り道」よりもずっと特別な一日になるように。悠の胸には、責任感と、それ以上に膨れ上がる期待で、熱い火が灯っていた。
一方で、七海の部屋は、彼女の心の動揺を映すかのように、どこかそわそわとした空気が流れていた。
ベッドの上で足を抱え込み、七海は真っ赤になった顔を膝に埋める。
「……誘っちゃった」
言ってしまった言葉が、あとから波のように押し寄せてくる。悠くんは困っていなかっただろうか。迷惑ではないだろうか。そんな不安が頭をよぎるたび、胸がぎゅっと締め付けられる。けれど、あの時の悠くんの、少し驚いたような、でも真っ直ぐな瞳を思い出すと、心臓が跳ねた。
彼は自分のために、一生懸命考えてくれようとしている。その優しさに甘えるだけではなく、今の自分にできることをしなければ。
「私……もっと、意識してもらえるようにアピールしないとだめだよね……」
七海は鏡台に向かい、自分の顔をじっと見つめた。ただのお世話になる「良い子」のままではいられない。彼が自分をただの「守るべき対象」ではなく、一人の女性として見てくれるように。恥ずかしさに押しつぶされそうになりながらも、彼女の瞳には、かつてないほどの強い決意が宿っていた。
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