七海の部活
翌朝、悠がリビングに降りた時、そこにはもう七海の姿はなかった。
「……もう、行っちゃったのか」
部活があるからと早起きをして、悠を起こさないように静かに家を出て行ったのだろう。
七海が何の部活に入っているのか知らないことに、悠はふと気づく。そういえば、彼女の学校生活について、これまで何も知らなかった。部屋の片付けやお見舞い、さまざまな手続きで手一杯で、彼女の日常について尋ねる余裕などなかったのだ。
(……部活も、学校での友達も、どんな顔をして過ごしているのかも、俺は何も知らないんだな)
そんな、彼女の「日常」の輪郭さえ掴めていない状態で、自分はこんなにも彼女を想い、心まで奪われている。その事実に気づき、悠はどこか自分の情けなさと、同時に胸の奥で高鳴るどうしようもない想いに苦笑した。
暇を持て余した悠は、ふと思い立ち、母校である付属高校へと足を向けることにした。
付属高校の図書室は大学の書庫の一部という位置付けになっており、大学生となった今でも、本を借りることができる。
電車に乗り、最寄駅で下車する。学校へ続く商店街がすでに懐かしい。久しぶりに敷地内に入ると、記憶の中の景色が鮮やかに蘇る。部活に励む生徒の声、懐かしい校舎、いつから貼ってるのかわからないポスター。懐かしさに背中を押されるように歩いていると、ふと音楽室の方から、賑やかで力強い合奏の音が聞こえてきた。
「……そっか。もう、そういう時期か」
新入生が正式に加入し、夏のコンクールに向けて部員たちが熱を帯び始める時期。音楽室から漏れ聞こえる音色は、少しだけ不揃いだが、どこか初々しいエネルギーに満ちていた。
悠はこの学校の吹奏楽部OBだった。
悠が3年生の時、部史上初めて東関東大会への進出を果たした、あの夏。あの日々を境に、この部の歴史は大きく動き出した。悠たちが切り拓いたその道は、後輩たちによって数年間守られ、今もなお記録を伸ばし続けているという。
「懐かしいなぁ……」
音楽室を通り過ぎる時、悠は立ち止まり、壁に刻まれたような記憶を反芻した。楽器を抱え、汗だくになって楽譜と格闘した日々。あの頃の自分も、必死に「何か」を追いかけていた。
今の自分は、あの頃と変われているだろうか。
七海の未来を想い、自分の気持ちに戸惑い、それでも彼女を笑顔にしたいと願う今の自分は。
音楽室からの旋律を背に受けながら、悠は少しだけ大人になったような気恥ずかしさと、変わらない情熱を胸に、図書室へと向かうための長い廊下を歩き始めた。
図書室で静かな時間を過ごし、読み終えた本を返却した後、悠は懐かしさを胸に職員室へと向かった。
かつての顧問の先生は、悠の姿を見つけると顔をほころばせた。無事に就職先が決まったことを伝えると、先生は自分のことのように目尻を下げて喜んでくれた。
「立派になったね。……そうだ、せっかく来たんだ、練習終わりの部員たちに少し顔を見せていかないか?」
そんな誘いに乗る形で、悠は再び音楽室のあった校舎へと向かった。廊下を歩くたびに、当時の汗の匂いや、必死に譜面を追いかけた記憶が蘇る。音楽室のドアに近づくにつれ、中からは合奏を終えた部員たちの話し声が聞こえてきた。
顧問と共にドアを開けると、そこには夏のコンクールに向けて練習を終えたばかりの、熱気に満ちた後輩たちがいた。
「――今日はOBが顔を出してくれているので少し挨拶をしてもらおうと思います」
顧問の紹介で、悠は部員たちの前に立った。緊張で少しだけ背筋が伸びる。視線をぐるりと巡らせた、その時だった。
(……え)
部員たちの中に、楽器を片付けようとしていた一人の女子生徒が、俺を見て目を丸くしていた。
……七海だ。
七海が吹奏楽をやっていたなんて知らなかったし、まさか自分の母校にいるなんて、夢にも思わなかった。彼女は少し練習で疲れているのか、頬をうっすらと赤らめ、楽器ケースを抱えて佇んでいる。いつも見ている、あの病室の窓辺で見せる繊細な表情とは違う。仲間と共に音楽を作り上げ、今まさに部活という日常を懸命に生きている、一人の女子生徒としての彼女の姿がそこにあった。
「……お疲れ様です。OBの悠です」
悠は動揺を必死に隠しながら、努めて穏やかな声で挨拶をした。
「もともとクラリネットパートに所属していました」
七海はその言葉を聞いて<<クラリネットケース>>を持ったまま目を丸くしていた。
「少し学校に用があってきただけだったのですが先生に指名されてしまったので少しだけ挨拶させていただきます」
視線は意識せずとも七海の方へ向いてしまう。彼女は、突然のこと驚きつつも、こちらをじっと見つめていた。その瞳が、俺の挨拶の一言一句を逃さないように捉えているのがわかる。
「そうですね……新入生もいるのでこれからについて少し話そうと思います」
部員たちは真剣に話を聞いてくれている。そう言うところが昔と変わっていなくてよかったなと思う。
「これから夏に向けて、苦しいこと、悔しいことがきっとあると思います。でも、みんなで一つの音楽を作り上げる時間は、何にも代えがたい宝物になります。私も現役の時は辞めたいとか辛いとか思うことが何度もありました。でも今ではそんな気持ちも全部大切な思い出になってます。……後悔のないよう、今しかできないことを全力で楽しんできてください。これから暑くなるので体調には気をつけて頑張ってください。応援しています」
悠が言葉を締めくくると、音楽室には温かい拍手が広がった。
ミーティングが終わり、部員たちが片付けを始める中、七海が迷うような足取りでこちらへ近づいてくる。
「……悠くん、どうして……?」
七海の声は小さく、でも確かに俺の胸まで届いた。
部活を頑張っていた七海。そんな彼女の姿を、今の俺は、どうしてももっと見ていたくて、知っていたくてたまらなくなる。
「……七海。君が、この部活にいたなんて。……全然、知らなかった」
「……うん、言うタイミングがなくて」
七海は少しだけ照れたように、でも嬉しそうに楽器ケースを抱き直す。その無邪気な仕草に、昨夜のドキドキが再び胸を駆け巡る。彼女は、今の自分にとって、守るべき対象であると同時に、これからはもっと深く知っていきたい相手なのだと、改めて確信させられた。
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