第57話 十八歳の約束
東関東大会から一週間後。
九月の朝は、夏の名残を残しながらも、風の中に少しだけ秋の匂いを含んでいた。
目を覚ましてリビングへ向かうと、七海がキッチンに立っていた。
「おはよう、悠くん」
「おはよう。……誕生日なのに、主役が朝食を作ってるのか?」
「いつも通りがいいの」
振り返った七海は、少しだけ得意そうに笑った。
「それに今日から十八歳だから。昨日までの私とは違うんだよ」
「一晩で何が変わったんだよ」
「大人の余裕」
そう言った直後、フライパンの上で卵を焦がしかけ、七海は慌てて火を弱めた。
「余裕、ね」
「今のは見なかったことにして」
朝から交わす、どうでもいい会話。
かつての七海なら、失敗を隠して完璧な朝食を出そうとしただろう。けれど今は、少し焦げた目玉焼きを俺の皿へ載せ、「悠くんのだけ特別仕様」と笑っている。
その変化が嬉しかった。
朝食が終わる頃、父さんと母さんがリビングへ入ってきた。二人が同時にクラッカーを鳴らし、七海が肩を跳ねさせる。
「七海ちゃん、お誕生日おめでとう!」
「十八歳か。早いものだな」
「ありがとうございます。でも、二人とも起きてたなら朝ごはん手伝ってくださいよ」
「主役が楽しそうだったから、邪魔しないようにしたのよ」
母さんはそう言いながら、隠していた紙袋を七海へ差し出した。中に入っていたのは、落ち着いた色合いの革の財布だった。
「ずっと同じのを使っていたでしょう?」
「覚えててくれたんですか?」
「家族のことだもの。当たり前よ」
七海は財布を胸元へ抱き、深く頭を下げた。
「大切に使います」
父さんからは、少し高級な万年筆が贈られた。
「これから進路を決めたり、いろいろな書類を書いたりするだろう。自分で選んだ道に、自分の名前を書けるようにな」
「……はい」
父さんらしい不器用な言葉に、七海の表情が柔らかくなる。
最後に、俺は用意していた細長い箱をテーブルへ置いた。
「誕生日おめでとう」
七海の表情が輝く。
「開けてもいい?」
「もちろん」
箱の中に入っているのは、銀色の小さな音叉を模したネックレスだった。派手ではない。けれど光を受けると、二本の線が寄り添うように柔らかく輝く。
「音叉……?」
「うん。二つの音叉が近くにあると、片方の振動がもう片方へ伝わって、同じ音で響き始めるだろ」
七海はペンダントを指先でそっと持ち上げた。
「俺たちも、そんなふうでいられたらと思って」
しばらく返事がなかった。
やっぱり少し気取りすぎたかと不安になった頃、七海が俯いたまま小さく言った。
「……悠くん、つけて」
彼女の後ろへ回り、留め具を首元で合わせる。髪をかき上げた七海のうなじが近くて、指先が少し震えた。
「できた」
七海は胸元のネックレスへ触れた後、振り返って俺へ抱きついた。
「ありがとう。ずっと大切にする」
「気に入ってくれてよかった」
「プレゼントも嬉しいけど、言葉が一番嬉しかった」
俺の胸へ頬を寄せたまま、七海が続ける。
「私ね、家族になったばかりの頃は、同じ家にいるだけで怖かった。迷惑をかけたら居場所がなくなると思ってた」
彼女の背中へ腕を回す。
「でも今は、失敗しても、泣いても、悠くんと喧嘩しても、ここへ帰ってきていいって思える」
「当たり前だろ」
「その当たり前を、悠くんが教えてくれたんだよ」
七海が顔を上げる。
その瞳に、もうかつての作り物の笑顔はなかった。
「悠くん。私を家族にしてくれて、ありがとう」
「違うよ」
俺は彼女の頬に触れた。
「七海が、俺たちを家族にしてくれたんだ」
七海の目から涙がこぼれる。
俺はそれを親指で拭い、彼女の額へ短く口づけた。
「十八歳、おめでとう」
「……うん」
彼女は泣きながら、今までで一番幸せそうに笑った。
その日の午後、俺たちは海の見える小さな町へ向かった。
七海が以前から望んでいた、誕生日の旅行だ。
電車が街を離れるにつれ、車窓の景色は高い建物から田園へ変わっていく。七海は窓に頬がつきそうなほど身を寄せ、流れていく景色を眺めていた。
「旅行って、出発してる時が一番わくわくするかも」
「着く前が一番なのか?」
「もちろん着いてからも楽しいよ。でも、これから何が起きるか分からない時間って特別じゃない?」
「七海らしくない発言だな」
「どういう意味?」
「前は、分からないことがあるとすぐ不安そうな顔をしてた」
七海は少し驚き、それから窓へ映る自分の顔を見た。
「そうかも。今は悠くんが一緒だからかな」
「俺が何かやらかす可能性もあるぞ」
「その時は二人で困ればいいよ」
あまりにも自然に言うものだから、胸の奥が熱くなった。
古い駅舎を出ると、潮の匂いを含んだ風が吹き、遠くから規則正しい波の音が聞こえてきた。
七海は帽子を押さえながら、子供のように目を輝かせる。
「海!」
「見れば分かるよ」
「そういうことじゃないの。旅行で見る海は特別なんだよ」
七海は俺の手を取り、海岸へ続く坂道を駆け出した。
俺たちは砂浜を歩き、小さな水族館へ寄り、商店街で焼きたての魚を食べた。最初のデートで水族館へ行った時よりも、七海はずっとよく笑うようになっていた。
水族館では、七海がクラゲの水槽の前からなかなか動かなかった。
青い光の中を、半透明の体がゆっくりと漂っている。
「綺麗」
「前にもクラゲ、ずっと見てたよな」
「覚えてたの?」
「七海が見てるものは、俺も見てるから」
口にしてから、少し恥ずかしくなる。
七海は何も言わず、俺の腕へ自分の腕を絡めた。水槽の青い光が、彼女の横顔と胸元の音叉を優しく照らしていた。
夕方、岬の展望台へ着く。
海へ沈んでいく太陽が、水面に長い光の道を作っていた。
「綺麗だね」
「うん」
七海は手すりに両腕を置き、風に髪を揺らしている。
「私ね、怖かったんだ」
「何が?」
「誕生日が来るのが」
意外な言葉に、俺は彼女の横顔を見つめた。
「楽しみにしてたんじゃないの?」
「楽しみだったよ。でも、十八歳になったら急に大人にならなきゃいけない気がしてた。自分のことは全部、自分だけで決めて、自分だけで責任を取らなきゃいけないのかなって」
七海は胸元の音叉へ触れる。
「でも違った。大人になるって、誰にも頼らなくなることじゃないんだね」
「そうだと思う」
俺だって大学生になっただけで、急に立派になれたわけじゃない。迷うこともあれば、間違えることもある。そのたびに家族や友人に助けられてきた。
「自分で選ぶことは増える。でも、一人で抱える必要はないよ」
「悠くんにも頼っていい?」
「頼ってほしい」
「悠くんも、私に頼ってくれる?」
「努力します」
「そこは即答してよ」
七海が頬を膨らませる。
俺は笑いながら、彼女の手を握った。
宿へ戻り、夕食を終えると、窓の外はすっかり暗くなっていた。
波の音だけが静かな部屋へ届いている。
七海は窓辺に座り、しばらく海を見つめていた。やがて覚悟を決めたように立ち上がり、俺の前へ来る。
「悠くん」
「うん」
「今日、伝えたいことがあるって言ってたよね」
「覚えてたのか」
「忘れるわけないよ」
俺は深く息を吸った。
用意してきた言葉は何度も頭の中で練習したはずなのに、七海を前にすると、どれも借り物のように思えた。
だから、今の気持ちをそのまま伝えることにした。
「七海。俺はまだ学生で、できないことも多い。今すぐ七海の未来全部に責任を持てるなんて、簡単には言えない」
七海は黙って聞いている。
「でも、いつか胸を張って言えるようになりたい。七海と一緒に生きたいって。だから、それまで俺の隣にいてほしい」
彼女の瞳が潤む。
「それ、プロポーズ?」
「予約、かな」
「何それ」
泣きながら笑う七海へ、俺も笑い返した。
「ちゃんとした指輪は、その時に渡す。今はまだ、この約束だけ」
「……うん。予約、受け付けました」
七海は俺の隣へ座り、肩へ頭を預けた。
「私も悠くんと生きたい」
触れ合った唇は、これまでのどんなキスより静かだった。
急いで何かを証明する必要はない。
互いの意思を確かめ、言葉を重ね、同じ未来を見つめる。それだけで、今夜は十分だった。
窓の向こうで、波が寄せては返している。
俺たちはその音を聞きながら、手をつないだまま長い夜を語り明かした。
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