第56話 名前を呼ばれるまで
舞台袖へ戻った瞬間、全身から力が抜けた。
さっきまで確かに握っていたはずのタクトが、急に他人の物みたいに軽く感じる。けれど右手は震えたままで、指を開こうとしてもうまく動かなかった。全身で音楽を動かしていた反動が、遅れて一気に押し寄せてきたのだろう。
「悠くん」
七海に呼ばれて顔を上げる。
彼女も頬を赤くし、肩で大きく息をしていた。クラリネットを抱く腕には、まだ演奏の熱が残っている。それでも、その瞳だけは不思議なくらい澄んでいた。
「届いたかな、私たちの音」
「ああ」
迷わず答えた。
審査員がどう評価するかは分からない。全国へ行けるかどうかも、今は誰にも分からない。それでも、最後の一音が消えた後の静寂を、俺は忘れないだろう。
あの数秒間、客席にいた全員が、俺たちの音楽の中にいた。
「ちゃんと届いたよ」
七海は安心したように笑った。
控室へ戻ると、部員たちが一斉に俺たちを囲んだ。
「先輩、最後のドラ、やばくなかったですか!?」
「健太のピッコロ、神だった!」
「俺、本当に神になりました!」
胸を張る健太に笑いが起きる。緊張から解放されたせいか、みんな妙に声が大きい。泣いている者もいれば、抱き合っている者もいた。
「悠先輩」
健太が俺の前へ立ち、期待に満ちた目を向けてくる。
「約束、覚えてますよね?」
「……好きなものを奢るって話か」
「はい。俺、神になりました」
「結果が出るまでは仮免の神だな」
再び笑いが弾けた。
けれど、笑い声が落ち着くと、みんなの顔に少しずつ不安が戻ってきた。演奏を終えた直後は、やり切ったという気持ちだけで満たされていた。時間が経つほど、自分たちの音を頭の中で採点し始めてしまう。
「あそこの入り、少し早くなかった?」
「最後の和音、私、音程高かったかも」
「木管の連符、ちょっと転んだよね」
あちこちから後悔が漏れ始める。
俺は手を叩き、全員の注意を集めた。
「反省会は学校へ戻ってからだ。今ここで考えても、もう演奏は変わらない。それより、お前たちが今日ここまで来たことを、まず自分で認めてやれ」
部員たちが静かになる。
「完璧だったとは言わない。でも、最高の演奏だった。少なくとも、俺は振っていてそう思った。だから胸を張って結果を聞こう」
コンミスが力強く頷いた。
「はい」
それを合図に、他の部員たちも少しずつ表情を上げる。
七海が俺の袖を軽く引いた。
「悠くんは?」
「何が?」
「悠くんは、自分の指揮を認めてあげられる?」
思いがけない問いに言葉が詰まった。
部員たちには胸を張れと言いながら、俺自身は、もっとできたことがあったのではないかと考えていた。第二楽章で金管を煽りすぎたかもしれない。第一楽章の五拍子を、もう少し自然に流せたかもしれない。
そんな迷いを、七海は見抜いていた。
「……難しいな」
「じゃあ私が認める」
七海は真っ直ぐ俺を見つめた。
「今日の悠くんは、世界で一番かっこいい指揮者だったよ」
「世界は広すぎるだろ」
「少なくとも、私が知っている世界では一番なの」
頬が熱くなる。周囲を見ると、近くにいた部員たちが聞こえないふりをしながら笑いを堪えていた。
「お前たち、聞いてただろ」
「何も聞いてません!」
「世界一の指揮者、おめでとうございます!」
結局、控室はまた笑いに包まれた。
やがて係員から集合の案内があり、俺たちは表彰式の会場へ移動した。
出場校の生徒たちが、プログラム順にまとまって座っている。さっきまで舞台上でそれぞれの音楽を奏でていた者たちが、今は同じ不安を抱えながら発表を待っていた。
七海は俺の隣に座った。膝の上で組んだ手が、痛いほど強く握られている。
「手、冷たいな」
「悠くんこそ」
俺は座席の間で、そっと小指を伸ばした。
七海がこちらを見る。
何も言わず、彼女も小指を絡めてきた。
壇上へ上がった係員が、マイクの高さを調整する。紙をめくる音が、妙にはっきりと聞こえた。
賞の発表は、出場プログラム順だった。
一番の学校から、一校ずつ名前が読み上げられていく。
「銅賞」
拍手が起こる。
「銀賞」
また拍手が起こる。
そして金賞の学校には、独特の呼び方が響いた。
「ゴールド、金賞」
その言葉が告げられるたび、会場の一角から歓声が上がる。
俺たちの学校は、プログラム後半だった。
順番が近づくにつれ、隣の七海の指に力がこもる。反対側では健太が両手を合わせ、ぶつぶつと何かを唱えていた。
「神様が神頼みするなよ」
小声で言うと、健太は青い顔で振り返った。
「今だけは、もっと上の神に頼らせてください」
笑いそうになった、その時だった。
「プログラム二十一番、〇〇高等学校」
会場の空気が止まる。
マイク越しの声が、わずかな間を置いた。
「ゴールド、金賞」
背後で誰かが息を呑んだ。
次の瞬間、部員たちから押し殺した歓声が漏れる。肩を叩き合う者、口元を覆う者、静かに涙を流す者。七海の指も、俺の小指を強く握った。
「金賞だよ、悠くん」
「ああ」
嬉しい。間違いなく嬉しい。
けれど、まだ終わっていない。
金賞を受賞しても、全国大会へ進めるとは限らない。
すべての学校の賞が発表されるまで、俺たちは拍手を送り続けた。最後の学校の賞が読み上げられ、いったん壇上が静かになる。
係員が新しい紙を受け取った。
会場に、先ほどまでとは違う緊張が走る。
「続きまして、全国大会への推薦校を発表いたします」
七海が息を止めたのが分かった。
推薦校も、出場プログラム順に呼ばれていく。
最初の学校名が読み上げられると、遠くから大きな歓声が上がった。次の学校名。その次の学校名。
呼ばれるたびに、残された枠が一つずつ減っていく。
俺たちより前のプログラム番号が呼ばれた。
そして、司会者が次の紙へ視線を落とす。
数秒にも満たないはずの沈黙が、永遠のように長かった。
「プログラム二十一番――〇〇高等学校」
一瞬、意味が分からなかった。
次の瞬間、地鳴りのような歓声が上がった。
部員たちが一斉に立ち上がり、抱き合い、泣きながら名前を呼び合う。健太は椅子から転げ落ちそうになり、隣の部員に支えられていた。
「全国だ!」
「本当に行けるんだ!」
「やった、やったよ!」
俺は立ち上がることもできず、ただ壇上を見つめていた。
目指すと言い始めた時は、途方もない夢だった。
部員たちと衝突した。七海ともすれ違った。自分に指揮者としての資格があるのか分からなくなり、逃げ出したこともあった。
それでも、みんながもう一度俺を指揮台へ戻してくれた。
七海は隣で動かなかった。
大きく目を見開き、俺を見つめている。
「……悠くん」
「うん」
「私たち、全国に行けるの?」
「行けるよ」
そう答えた途端、七海の瞳から大粒の涙がこぼれた。
「一緒に、行けるんだね」
俺は頷き、周囲の視線も忘れて彼女の肩を抱き寄せた。
「約束、守れたな」
「うん……うん!」
胸元で何度も頷く七海の声は、歓声にかき消されそうなほど小さい。
それでも、その二文字は、今日ホールで聴いたどんな音よりも鮮明に俺の胸へ届いた。
しばらくして、健太が涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔を近づけてきた。
「悠先輩……俺、全国でも神になります」
「まず顔を拭け、神様」
差し出したハンカチを受け取り、健太は声を上げて泣いた。
七海も泣きながら笑っている。
会場には、次の部門の準備を促すアナウンスが流れ始めていた。それでも俺たちは、なかなかその場を動けなかった。
夢が現実になった場所を、目に焼き付けておきたかった。
俺は七海とつないだ手を見下ろす。
二人の指にあるペアリングが、会場の照明を受けて並んで光っていた。
全国大会への切符は、誰か一人が手にしたものではない。
ここにいる全員の音が重なって、ようやく届いた場所だ。
「行こう、七海」
「うん」
「今度は、全国の舞台へ」
七海は涙を拭い、最高の笑顔で頷いた。
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