第58話 美少女が家族になった話
旅行から戻った翌日、俺たちは佐伯さんの病室を訪ねた。
七海は全国大会の推薦状と、旅行先で買った小さな土産を抱えている。包装紙には青い魚の模様が描かれ、歩くたびに紙袋の中で箱が小さく揺れた。
病室の扉を開けると、佐伯さんはいつものように穏やかな笑顔で迎えてくれた。
「おかえり、七海」
「おかえり、だけでいいの? ……悠くんと旅行に行ってきたんだよ?」
七海は父親をからかうように言った。
佐伯さんは俺を見て、片方の眉を上げる。
「それは、一応詳しく聞いた方がいいのかな」
「佐伯さん、誤解を招く言い方をしないでください」
俺が慌てて答えると、七海が声を上げて笑った。
「冗談だよ。……ただいま、お父さん」
「ああ。おかえり」
七海は迷いなく答え、ベッドのそばへ椅子を寄せた。
旅行で撮った写真を一枚ずつ見せていく。海岸で風に帽子を飛ばされそうになったこと。小さな水族館で、俺が魚より解説文ばかり読んでいたこと。商店街で買ったソフトクリームを落としかけたこと。
「悠くんね、ソフトクリームを受け取った瞬間、溶けたところが手に垂れてきて、すごい顔してたの」
「あれは店員さんが盛りすぎたんだよ」
「大盛りで喜んでたくせに」
「食べ物を残すわけにはいかないだろ」
「それで私の分まで食べたんだよ」
「七海がもういらないって言ったからだろ」
俺たちのやり取りを、佐伯さんは声を立てて笑いながら聞いていた。
「良い顔をするようになったな」
不意にそう言われ、七海が言葉を止める。
「前は良い顔じゃなかった?」
「前も可愛かったよ。ただ、笑うたびに少し心配だった」
佐伯さんは細くなった手を伸ばし、七海の頭を撫でた。
「小さい頃から、七海は私を心配させないように笑う子だったからな」
七海が視線を落とす。
「私、そんなに分かりやすかった?」
「父親だからね。全部分かっていたとは言えないが、少なくとも、無理をしている時くらいは分かったよ」
「じゃあ、どうして何も言わなかったの?」
その声には、ほんの少しだけ責めるような響きがあった。
佐伯さんはすぐに答えなかった。
窓から差し込む午後の光が、白いシーツの上へ淡い四角形を作っている。
「私も怖かったんだ」
やがて佐伯さんが言った。
「七海に無理をしなくていいと言ったら、私の方が先に弱くなってしまいそうでね。病気のことも、これからのことも、本当は怖くて仕方がなかった。だから、七海の笑顔に甘えてしまった」
七海は父親の手を両手で包んだ。
「ごめんよ」
「ううん。私も、お父さんに心配かけたくなくて、本当のことを言えなかったから」
「似た者親子だな」
「嬉しくないところが似ちゃったね」
二人は小さく笑った。
佐伯さんは俺へ視線を向ける。
「悠くんが、七海に言ってくれたそうだね。無理に笑わなくていいと」
「はい。でも、俺も何度も間違えました。七海のためだと思って、勝手に距離を置いたこともあります」
「それでも、二人で戻ってこられた」
「七海が迎えに来てくれたからです」
七海が照れたように俺を見る。
佐伯さんは満足そうに目を細めた。
「今は、ちゃんと幸せな人の顔をしている」
七海は唇を噛み、父親の手へ額を寄せた。
「私、幸せだよ」
「そうか」
「お父さんが加藤家のみんなに会わせてくれたから。悠くんに会わせてくれたから、私、今すごく幸せ」
佐伯さんは静かに目を閉じた。
「それを聞けて、安心した」
七海は首を横に振る。
「安心するのはまだ早いよ。全国大会も見てもらうんだから」
「これは手厳しいな」
「絶対に来て。私、お父さんのためにも吹くから」
「七海」
俺は思わず名前を呼んだ。
彼女は一瞬きょとんとした後、すぐに自分の言葉の意味へ気づいたようだった。
以前の七海なら、父親のためだけに完璧でいようとした。
けれど今は違う。
七海は小さく笑い、言い直した。
「ううん。私が吹きたいから吹く。お父さんにも、悠くんにも、みんなにも聴いてほしいから」
「それなら、必ず聴きに行かないとな」
佐伯さんは満足そうに頷いた。
「全国では、何を演奏するんだい?」
「同じ曲だよ。でも、同じ演奏にはしない」
七海は真剣な様子でそう告げる。
「東関東大会より、もっと私たちらしい音にする。全国だからって、上手く見せようとするんじゃなくて、私たちが伝えたい景色をちゃんと届けるの」
その言葉を聞いて、俺は驚いた。
以前の七海なら、全国大会へ行けば、誰よりも完璧に吹かなければならないと自分を追い詰めていただろう。
今の彼女は、完璧さではなく、自分の音を届けることを選んでいる。
「良い音楽になりそうだ」
佐伯さんが言う。
「うん。悠くんが指揮してくれるから」
「またハードルを上げるなよ」
「世界一の指揮者なんでしょ?」
「誰が言ってたんだよ」
「部員のみんな」
表彰式の翌日には、部員たちの連絡グループで『世界一の指揮者』という妙な呼び名が広まっていた。美里にまで知られ、散々からかわれたばかりだ。
「悠くんは昔から、褒められることに慣れていないようだね」
「佐伯さんまでやめてください」
二人の笑い声が病室に響く。
しばらく話した後、佐伯さんが疲れた様子を見せたので、俺たちは帰ることにした。
「また来るね、お父さん」
「ああ。次は全国大会の練習の話を聞かせてくれ」
「うん。約束」
七海は父親と小指を絡めた。
病院を出ると、夕暮れの空に一番星が見えた。
七海が俺の腕へ自分の腕を絡める。
「ねえ、悠くん」
「ん?」
「最初に会った日のこと、覚えてる?」
「病院で、ものすごく丁寧に頭を下げられた」
「私、必死だったんだよ。嫌われないようにしなきゃって」
「知ってる」
「あの頃の私に教えてあげたいな」
七海は俺を見上げた。
「これから暮らす家には、ちょっと不器用で、考えすぎで、時々信じられないくらい鈍感な人がいるけど――」
「悪口が多いな」
「最後まで聞いて」
彼女は楽しそうに笑う。
「その人が、無理に笑わなくていいって言ってくれる。泣いても、失敗しても、ここにいていいって教えてくれる。だから、怖がらなくて大丈夫だよって」
俺は足を止めた。
「俺も、あの日の自分に教えたいよ」
「何を?」
「これから美少女が家族になるぞって」
七海が呆れたように俺を見る。
「そこ?」
「それから、その子を好きになって、たくさん悩んで、何度もすれ違う。でも最後には、一緒に全国へ行く約束まで叶えるんだって」
「最後じゃないよ」
七海は俺の右手を取り、指を絡めた。
二人のペアリングが並んで、夕陽を反射する。
「全国大会は、これからだよ」
「そうだったな」
「それに、私が卒業した後のことも、大学のことも、その先のこともある」
「不安?」
「うん。少しはね」
七海は正直に頷いた。
「でも、楽しみでもあるよ。分からない未来を、悠くんと一緒に選べるから」
家へ続く道を、俺たちは並んで歩き出す。
夕食は何だろう。帰ったら全国大会へ向けた練習計画も見直さなければならない。大学の研究もあるし、七海は進路について学校へ希望を出す時期だ。
明日になれば、また忙しい日常が始まる。
きっと、これからも何度も迷うだろう。
最初は、ただ同じ屋根の下で暮らすだけだった。
それから互いの弱さを知り、心を重ね、家族になった。
けれど、物語はここで終わらない。
全国大会の舞台も、七海の卒業も、その先にある未来も、まだ何ひとつ決まっていない。
だからこそ、一緒に選んでいけばいい。
歩幅がずれたら立ち止まり、言葉が足りなければ何度でも伝える。
二人の音が離れそうになったら、相手の音へ耳を澄まし、もう一度合わせればいい。
「ただいまって、どっちが先に言う?」
家が見えてきたところで、七海が突然尋ねた。
「一緒に帰ってきたんだから、どっちでもいいだろ」
「だめ。今日は勝負ね。玄関が開いた瞬間、先に言えた方が勝ち」
「勝ったら何があるんだよ」
「負けた方が、勝った方のお願いを一つ聞く」
七海が俺の手を離し、少しだけ歩調を速める。
「おい、もう始まってるのか?」
「もちろん!」
彼女は笑いながら駆け出した。
俺もその背中を追う。
夕暮れの住宅街に、二人分の足音と笑い声が重なる。
玄関の扉へ同時に手をかけ、競うように開いた。
「ただいま!」
二人の声は、ぴたりと一つに重なった。
家の奥から、父さんと母さんの「おかえり」が返ってくる。
隣を見ると、七海も俺を見ていた。
どちらからともなく笑い出す。
勝ち負けなんて、もうどうでもよかった。
一つ屋根の下で始まった、俺と七海の物語。
その第二楽章は、未来へ続く音を響かせながら、今、静かに次の小節へ進んでいく。
読んでくださってありがとうございます。
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