全国へ
朝の光が窓から差し込み、俺のまぶたを優しくこじ開けた。
時計の針はまだ六時を回ったところだったが、不思議と頭は冴え渡っている。隣の部屋で眠る七海も、きっと同じように目を覚ましているだろう。昨夜の廊下での出来事が、夢ではなく現実だったことを確認するように、俺はベッドの上で大きく息を吐き出した。
今日は、東関東大会当日。
朝食の席では、両親がいつも通りの温かい笑顔で送り出してくれた。七海は少し緊張しているようで、トーストを口に運ぶペースがいつもよりゆっくりだったが、俺と目が合うと、ふにゃりと柔らかく笑った。その笑顔に、昨夜の抱擁の温もりが重なる。
駅のホームに立つと、少しずつ集まってくる部員たちの姿があった。皆、どこか顔つきが違う。不安と期待、そして「自分たちの音楽を届けたい」という静かな闘志が、駅の雑踏の中に小さな輪を作っている。
会場のホールに到着すると、そこには特別な空気が流れていた。
各校が思い思いの場所で最後の音合わせをしている。重なり合う楽器の音、張り詰めた空気、そこかしこに漂う緊張感。まさに、俺たちが目指してきた戦いの場だ。
俺たちは控室に集まり、最終調整を行う。
部員一人ひとりの表情を眺める。
「……みんな」
俺が声をかけると、部員たちが一斉にこちらを向いた。
「緊張してるよな」
部員たちはみんな頷く。
「……俺もめっっっっっっちゃ緊張してる!!!」
俺がそう叫んだ瞬間、部室の空気は一瞬だけ静まり返り、次の瞬間、まるで堰を切ったように部員たちの笑い声が弾けた。
「え?ほんとに?!」
「なんか、ちょっと安心した!」
張り詰めていた彼らの表情が、少しずつ崩れていく。俺は指揮者という立場を忘れ、ただの等身大の自分として彼らの輪の中に立った。
「正直、昨日の夜から心臓がうるさくて眠れなかったし、今だって胃がキュッてなる。……でもさ、これだけ緊張するってことは、それだけ俺たちが本気でこのステージに向き合ってきたってことだろ?」
俺はぐるりと全員を見渡した。
「だから、その緊張を『排除』しようとするな。むしろ、今のこの心拍数も、震える指先も、全部音楽に乗せて。今日の演奏を楽しんでくれ」
俺は七海と視線を合わせた。彼女はさっきまでの不安が嘘のように、意志の強い瞳で俺を見つめ返している。
「七海、お前のソロが会場の空気を最初に変えるんだ。……緊張して当たり前だ。でも、その緊張すらも味方にして、一番綺麗な音を響かせてこい」
「……うん。任せて!」
七海が深く息を吸い、楽器をしっかりと握りしめた。
俺の視線は、そのまま小さく深呼吸を繰り返していたオーボエの奏者、響子へと移った。
「響子」
名前を呼ばれた彼女は、少し驚いて顔を上げた。彼女のオーボエの音色は、神秘的な響きを持っている。
「お前のソロは、ただ美しいだけじゃない。……聴く人の心の奥底にある、言葉にならない感情を呼び覚ます力がある。緊張で音が硬くなってもいい。曲の雰囲気的のも緊張があっても構わない。……ただ力強さや表現も忘れずに。君なら大丈夫だ。全力で表現して観客を魅了しろ」
響子は目を見開き、それから静かに、けれど確かな決意を込めて小さく頷いた。その瞳から迷いが消えるのを、俺は見逃さなかった。
続いて、俺はトランペットの健太へ視線を移す。彼は終盤にピッコロトランペットのソロを担当している。
「健太」
「……はい、悠先輩」
彼は背筋を伸ばし、トランペットを胸の前で抱えた。
「お前の出すあの高音は、神だ。……最高に綺麗だ。だからその綺麗な音で神の啓示を精一杯表現しろ。自分は神だって思え」
「……はい!」
「言ってみろ!自分は神だって!」
健太は少し恥ずかしそうに、でも必死に声を張り上げた。
「……俺は、神です!!」
「……だそうだ」
そう俺が言うと部屋が揺れるほど爆笑が起きた。張り詰めていた空気が、まるで魔法のように一気に霧散する。
「あはは!健太が神様だってさ!」
「おい神様、俺たちを全国に導いてくれよ!」
金管楽器の連中はさっきまで緊張で顔を真っ青にしていた。極度の緊張では音が外れやすくなる。こうして一度、力の抜けるような馬鹿なことをやるのが、結局は一番の特効薬だ。
「緊張は解けたか?」
健太は顔を赤らめながらも、もう肩の力は抜けていた。
「はい……なんか、もうどうにでもなれって気分です」
「そうだな。……本番で本当に『神』になったら、何か好きなもん奢ってやる。打ち上げの時にな」
その言葉を聞いた瞬間、健太の目がギラりと光った。
「……よし!頑張ります!絶対に神になってやる!!」
そのあまりに単純で現金な様子に、また部員たちが声を上げて笑う。
そして最後に全体を見渡す。
「金管! お前たちが奏でるかっこいい音を、誰よりも目立って思いっきり見せてやれ!」
「「「はい!!!」」」
金管の面々が、誇らしげに楽器を掲げて力強く応える。彼らの瞳には、もはや迷いなど微塵もない。
次に、俺は全体を支える低音パートに向けて拳を突き出した。
「低音! 控えめになる必要なんてない。重低音で会場の床を揺らすんだ。多少音が割れたって構わない、会場の奴らを驚かせるくらいの迫力で表現してやれ!」
「「「はい!!!」」
低音陣が地響きのような頼もしい声で返事をする。その気迫だけで、ホールが震える予感がした。
最後に、旋律を彩る木管セクションへ視線を送る。
「そして木管! 柔らかい音も、キラキラした音も、全部お前たちの表現で見せてやれ! 」
「「「はい!」」」
木管のメンバーたちが、楽器を優しく抱きしめるように頷く。
俺は大きく息を吸い込み、部室の扉に手をかけた。
「……よし。全力で楽しむぞ!」
「「「はい!!!!」」」
全員の声が重なり、部屋の空気がビリビリと震える。
俺たちが作り上げた、この最高の夏。その成果を奏でる時が、ついに来た。
扉を開けると、そこには眩いばかりの光が待っていた。
俺たちは一歩ずつ、その光の中へと踏み出していく。
隣で七海が、緊張と高揚が入り混じった最高の笑顔で俺を見上げていた。
「行くぞ」
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