第54話 エジプトへの逃避
ステージ袖。舞台の向こうから大きな拍手が静かな廊下まで響いていた。一つ前の学校の演奏が終わったのだろう。俺は握っていたタクトを握り直す。手のひらにはじんわりと汗が滲んでいた。今まで何度も指揮台へ立ってきた。それでも、この舞台だけは今までとは重みが違う。東関東大会。この先へ進むためには、ここで結果を残さなければならない。
「……いよいよだな」
誰に言うでもなく呟くと、隣に立っていた七海が小さく笑った。
「悠くん、手……震えてる。」
「そりゃそうだ。」
正直に認めると、七海は少しだけ安心したように笑う。
「私も。」
そう言って見せたクラリネットを持つ手は小刻みに震えていた。その震えを見れば、七海も俺と同じくらい緊張していることが分かる。県大会を突破してから今日まで、毎日のように練習を重ねてきた。何度も録音を聴き返し、テンポを修正し、音程を合わせ、一つの音楽を作り上げてきた。その積み重ねが今日という一日に集約されているのだから、緊張しない方がおかしい。
「でも。」
七海はクラリネットを胸の前で抱き直し、俺を見上げて優しく笑った。
「楽しもうね。」
「ああ。最高の演奏をしよう。」
俺たちは軽く拳を合わせた。その瞬間、スタッフが静かに近づいてくる。
「〇〇高校さん、まもなくです。」
「はい。」
返事をすると、部員全員の空気が変わった。さっきまで小さく笑い合っていた者も、目を閉じて呼吸を整えていた者も、一斉に表情を引き締める。健太は静かにトランペットを握り直し、響子はオーボエのリードを最後に一度だけ確かめた。打楽器のみんなも互いに小さく頷き合っている。もう言葉はいらない。この一年、一緒に積み重ねてきた時間がある。俺は全員を見渡し、小さく頷いた。
「行こう。」
その一言だけで十分だった。
スタッフが重い扉を開く。眩しい照明が一気に視界へ飛び込んできた。磨き上げられたステージ。整然と並ぶ椅子と譜面台。そして、どこまでも広がる客席。東関東各地から集まった観客の視線が一斉にこちらへ向けられる。一歩踏み出した瞬間、ホール全体の空気が身体を包み込んだ。独特の静けさ。客席にいる何百人もの人たちが息を潜めているはずなのに、不思議なくらい静かだった。俺たちは一定の歩幅でステージ中央へ向かう。
客席には保護者や卒業生、他校の生徒、そして審査員が並んでいた。その中に父さんと母さんの姿を見つける。二人とも真っ直ぐ俺たちを見つめていた。母さんは七海に気付くと、小さく微笑む。七海もほんの少しだけ笑顔を返した。その自然なやり取りを見た瞬間、不思議と胸の奥の緊張が少しだけ和らいだ。
全員が席へ着き、静かに楽器を構える。椅子を引く音、譜面を整える音、息を整える小さな呼吸だけがホールへ響いていた。俺はゆっくりと指揮台へ向かう。一段、また一段。ほんの数歩しかないはずなのに、その距離がとても長く感じた。指揮台へ立ち、部員たちを見渡す。誰一人として視線を逸らさない。全員が俺だけを見ていた。その目には不安もある。緊張もある。でも、それ以上に「この演奏を成功させたい」という強い想いが宿っていた。
(大丈夫だ。)
俺は客席へ向かって深く一礼し、部員たちへ向き直る。ホール全体が静まり返る。誰も咳払いひとつしない。静寂が会場を支配していた。俺はゆっくりと息を吸う。すると、部員たちも同じように息を吸った。呼吸が揃う。視線が揃う。心が一つになる。
(行こう。)
タクトを静かに持ち上げ、小さく頷く。
俺は七海を見る。
七海も一瞬だけ俺を見た。
その瞳から緊張は消えていた。
静かに息を吸い、クラリネットを鳴らす。
澄み切った音色がホールいっぱいへ広がった。
この曲は戦いの音楽じゃない。逃避の音楽だ。幼いイエスを連れた聖家族が、夜の砂漠を静かに旅する情景。その穏やかで幻想的な世界を描くための音楽だった。
木管が柔らかく旋律を紡ぎ始める。音は決して前へ飛び出さない。夜風に乗ってゆっくりと流れるように、静かに、穏やかに進んでいく。五拍子の独特な揺れは、砂漠を歩くラクダの歩みのようでもあり、人の鼓動のようでもあった。ゆっくりと進む旅路。その景色が目の前へ広がっていく。
俺はタクトを大きく振らない。一つひとつの拍を丁寧に繋ぎ、部員たちの呼吸をまとめていく。音を急がせない。焦らせない。ただ静かに物語を進めていく。
七海の音はどこまでも優しい音だった。
まるで星明かりだけが照らす砂漠を、親子が寄り添いながら歩いていく姿が浮かぶ。誰にも見つからないよう、静かに、それでも確かな希望を胸に前へ進んでいく。その情景を七海は一本のクラリネットだけで描いていた。
客席の空気が変わる。
誰も動かない。
誰も物音を立てない。
全員が七海の音へ耳を傾けていた。
これは七海自身が積み重ね、悩み、努力して辿り着いた音だ。
ソロが終わると、その旋律をフルート、オーボエ、サックスが自然に受け継いでいく。それぞれの音色は違うのに、不思議なくらい一つの景色を描いていた。砂漠の夜風。遠く瞬く星々。ゆっくりと歩く聖家族。その幻想的な世界がホール全体へ広がっていく。
俺は指揮を振りながら客席を一瞬だけ見た。誰も身じろぎ一つしない。ただ音楽だけを見つめている。その光景を見た瞬間、確信した。
俺たちの音楽は、届いている。
曲は静かに終結へ向かう。大きな盛り上がりではない。静かに祈りを捧げるように、最後の和音へ近付いていく。俺は部員たちの呼吸を感じながら最後の一拍を示した。音がゆっくりと消えていく。余韻だけがホールに残る。誰も動かない。誰も息をしない。その静寂の中で、俺はタクトを下ろさず、次に始まる第二楽章へ意識を向ける。
穏やかな旅は終わる。
ここから始まるのは、大天使ミカエルと悪魔との壮絶な戦いだった。
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