前日
それから県大会も勝ち進み、ついに東関東大会前日。
部室に漂う空気は、先月の県大会の時とはまるで違っていた。
ただの緊張感ではない。もっと鋭く、それでいて「全国」という二文字の重みが、部員一人ひとりの肩にのしかかっているような、そんな静寂が広がっていた。
俺は譜面台に向かい、最後の一音まで確認する。
指揮台に立つのは俺だ。ここで俺が迷えば、七海たちの音も迷う。責任の大きさに、ふと背中が冷たくなる。
部員たちの視線が俺に集まる。俺は深呼吸をして、一人ひとりの顔を見渡してから、ゆっくりと口を開いた。
「……いよいよ明日、本番です」
その言葉だけで、部員たちの背筋がピクリと震えるのがわかった。彼らの瞳には、全国への憧れと、失敗への恐怖が混ざり合っている。
「……本来、コンクールに臨む指揮者として、これから言うことは少しおかしいかもしれません」
俺はあえて、少しだけ間を置いた。部員たちの息が止まる。
「『全国大会』に行くこと、それを目標にするのはやめてください」
部室がざわめいた。驚き、動揺、そして困惑。七海も目を見開いて俺を見つめている。俺は部員たちの目を見つめ返し、静かに続けた。
「……諦めろと言っているんじゃない。……みんなががここまで積み上げてきたのは、ただ結果を残したいってことを表現するためではないだろ」
俺は譜面台の楽譜に手を置いた。
「全国という目標を背負って、結果のために演奏しない。……自分たちで作り上げてきた音楽のイメージを、客席の一人ひとりに届けること。物語を語り、心を揺さぶり、聴く人を泣かせ、驚かせること。その『表現』だけに集中してほしい」
部員たちの表情が、少しずつ変わっていく。焦燥感が、熱い決意へと塗り替えられていくのがわかった。
「明日、間違いなく、緊張すると思う。……でも、それを無理に消そうとしないでいい。その緊張さえも楽しんでほしい。……大舞台に立てるなんて、そうそうある経験じゃない。……すべてを楽しむつもりで、ステージに上がろう」
俺は全員の目を見渡して、最後に力強く言い放った。
「音を楽しむ。と良く言うけどそれだけじゃなくて音で観客を楽しませよう!……明日は最高の『音楽』を奏でよう!」
部室の空気が、一気に熱を帯びた。部員たちの瞳から、迷いが消える。
「「「「はい!!!!」」」」
全員の、魂が震えるような返事が響く。
その中には、誰よりも力強く、誇らしげに叫ぶ七海の姿があった。
彼女と目が合う。俺たちは言葉を交わさずとも、互いの覚悟を確認し合った。
「よし、解散!……今日はちゃんと寝るんだぞ」
俺の言葉とともに部員たちが動き出す。
七海が俺のそばに歩み寄り、楽器ケースを提げたまま、嬉しそうに微笑んだ。
「悠くん、今の言葉……すごくよかった」
「……そうか。ちょっと言いたいこと詰め込みすぎたかな」
「ううん。すごく良かった。正直明日怖かったから」
彼女のまっすぐな瞳に見つめられ、俺は少し照れくさくなって視線を逸らした。
「……明日は、楽しもうな」
「うん!」
彼女はそう言うと、部室の扉へと向かった。
開け放たれた扉から、涼しい夏の終わりの夜風が吹き込んでくる。
明日は運命の日
俺は譜面台を片付け、部室の明かりを落とした。
出口へ向かう帰り道、自分の足音がやけに頼もしく聞こえた。
明日の今頃、俺たちはどんな表情をしているだろうか。
どんな結果が待っていようとも、俺たちの音楽は間違っていなかったと、そう胸を張って言えるはずだ。
「よし……帰ろうか」
待っていた七海に声をかける。
「うん!」
明日、すべての力が発揮できることを願って。
俺たちは家路を急いだ。
家につき、リビングに入ると、仕事から戻っていた両親がソファでくつろいでいた。
「ただいま」
「おかえり。……いよいよ明日だね」
母さんがキッチンから顔を出し、父さんがテレビから目を離して俺たちを見た。
俺はカバンから、招待状のチケットを取り出した。
「これ、明日のチケット。二人とも、来てくれない?」
テーブルに置かれたチケットを見て、父さんが少し照れくさそうに笑った。
「実は楽しみにしてたんだ。悠に明日の予定聞かれた時にもしやって思ってね。七海ちゃんソロ吹くんだろ?」
父さんの言葉に、横にいた七海が嬉しそうに微笑んだ。
「はい!悠くんにたくさん教えてもらったので楽しみにしていてください!」
七海が俺の方を見て、照れ隠しのように肩をすくめる。その無邪気な笑顔に、俺は思わず口元を緩めた。
「悠がそんな顔をするなんて、本当に充実した夏だったんだね」
母さんが優しく微笑んでお茶を淹れてくれる。
「……青春に戻ったみたいだった」
「私も悠くんと青春できて充実してました」
七海が弾んだ声で答える。家族の温かい言葉が、今日まで張り詰めていた心の緊張を少しだけ解いてくれた。自分たちを応援してくれる家族がいること。そして、そのすぐ隣に、七海がいること。それがどれだけ心強いことか、改めて噛み締める。
夕食の後、俺たちはリビングで少しだけ明日の流れを確認し合った。七海の表情には、まだわずかに緊張の影が残っている。
「……明日の朝、早いね」
七海が少しだけ甘えるように俺の服の裾を引いた。
「しっかり休めよ」
俺がそう声をかけると、七海は少しだけ残念そうに、でも素直に「うん……そうだね」と頷いた。彼女の瞳には、まだ名残惜しそうな光が揺れている。
俺が部屋へ向かおうと背を向けた、その時だった。
「……ねえ」
「ん?」
振り返ると、七海は少し俯いたまま、両腕を自分の胸元でぎゅっと抱きしめるようにしていた。
「……一回だけ、抱きしめて」
彼女の小さな声が、静かな廊下に響いた。明日の大舞台へのプレッシャーが、その言葉の裏に滲んでいる。
「……ああ」
俺は何も言わず、彼女の元へ数歩歩み寄った。彼女の肩が小さく震えているのを見て、俺は迷わず七海を優しく、しかししっかりと抱きしめた。
七海もすぐに俺の背中に腕を回し、顔を俺の胸に強く押し付けた。彼女の髪から漂うシャンプーの香りが、俺の鼻腔をくすぐる。
「悠くん……あったかい」
彼女の甘い吐息が首筋にかかる。いつもは凛と振る舞う七海が、こうして俺の腕の中で完全に無防備になっている。その事実に、俺の心臓は高鳴り、全身の血が熱くたぎるのを感じた。
「明日は、俺がずっと見てるから。大丈夫だよ」
俺が彼女の髪をそっと撫でながら囁くと、七海の腕がさらに強く俺の背中に回った。まるで俺の一部になろうとするかのように、彼女は俺のシャツを掴む力を強める。
「私、頑張る……」
「……頑張らなくていい。俺は一緒に舞台に立つの楽しみなんだ。だから七海も楽しんでくれたら嬉しいな」
夜の廊下で、二人だけの静かな時間が流れる。全国への夢も、明日の緊張も、今はすべてこの腕の中の温もりに溶けていくようだった。
しばらくそうして抱き合っていたが、七海がゆっくりと体を離すと、目元を少しだけ赤くしながら俺を見上げた。
「……ありがとう。落ち着いた」
「ああ。……じゃあ、明日の朝、また」
「うん。……おやすみ、悠くん」
彼女は満足そうに小さく微笑むと、今度こそ自分の部屋へ向かうために背を向けた。その足取りは、先ほどよりもずっと軽やかで、力強いものになっていた。
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