プール②
休憩を終えた俺たちは、プールの奥にあるスライダーの列に並んでいた。先ほどまでは水の中で夢中になって遊んでいたが、少し落ち着くと、今度はあのアトラクションが妙に魅力的に見えてきたのだ。
「ねえ悠くん、今度はスライダーに行こうよ」
七海がプールの奥を指差した。そこには、蛇行しながら水面へと吸い込まれていくスライダーがそびえ立っている。
「七海ああいうの平気なの?」
「せっかくだから一緒に行きた!」
七海は俺の二の腕をぎゅっと抱きかかえ、期待に満ちた目で上目遣いをしてくる。その瞳で見つめられると、疲労感なんて言葉はどこかへ消えてしまう。
「……じゃあ行くか」
「やった! さすが悠くん」
彼女は嬉しそうに俺の手を引き、列の最後尾へと並んだ。近づくにつれて、スライダーから聞こえてくる「きゃーっ!」という歓声や、水しぶきを上げる音が大きくなっていく。
列に並んでいる間、七海は少しずつ口数が減っていった。最初はあれほど乗り気だったのに、いざ自分が滑る番が近づいてくると、少し不安げな表情が混じるようになる。
「……ねえ、悠くん」
「ん? どうした?」
「……下から見てる分には楽しそうだったけど、近くで見ると、やっぱり結構高いね……」
七海が俺の背中に隠れるようにして、スライダーの急な勾配を覗き込んでいる。その仕草がなんだか小動物みたいで、俺は思わず口元を緩めた。
「やめておくか?」
「ううん、やめない!」
彼女は俺のシャツの裾をぎゅっと掴み、きっぱりと首を横に振った。
「……一人で滑るんじゃないでしょ?」
そう言って彼女が俺を見上げる。
「えっとね、後ろから抱きつく形で二人で滑っても大丈夫だって」
「なるほど、後ろから抱きつくのか……」
俺が少しだけ喉を鳴らすと、七海は少し赤くなった顔を隠すように、また俺の背中に顔を埋めた。
「……ダメ? もしかして、悠くん、恥ずかしい?」
「いや……恥ずかしいっていうか、なんというか」
俺が言葉を濁すと、彼女はクスクスと笑い、俺の背中で少しだけ体重をかけてきた。
「悠くんは私のこと、意識しすぎ! ……でも、ほんとに怖いから一緒に滑って ……」
彼女がそう言って、少しだけ俺の手を握る力を強めた。俺の心臓は、スライダーの勾配よりもずっと急な角度で跳ね上がり始めていた。
「……わかったよ。じゃあ、俺が前で滑るから、しっかり捕まって」
俺がそう言うと、七海は安堵したように「うん!」と大きく頷いた。
ようやく自分たちの順番が回ってきた。係員に軽く会釈をして、スライダーの入り口に腰を下ろす。俺が先陣を切って座り、その後ろから七海が回るようにして抱きついてきた。
彼女の細い腕が俺の腹部に巻き付き、体重が預けられる。水着という薄い布地一枚を隔てて、彼女の体温と柔らかな感触がダイレクトに背中へと伝わってくる。
「……悠くん、あったかいね」
彼女が耳元で甘く囁く。その吐息が、今の俺には刺激が強すぎた。
「……七海、あまり密着しすぎないで」
「怖いんだから意地悪言わないでよ……あ、もしかして、悠くんドキドキしてる?」
彼女がわざとらしく俺の背中で体を揺らす。その無垢な悪戯心に、俺の理性が音を立てて崩れそうになる。
「……意識させるようなこと言うなよ」
「ふふっ、今の反応、正直だね」
彼女の楽しげな笑い声に、俺はもう自分が何を言っても無駄だと悟った。
係員の合図で、俺たちの体はゆっくりとスライダーの入り口へと吸い込まれていく。
「……行くよ」
「うん……」
七海は俺の背中に顔をぴたりと押し付けた。
合図とともに、滑り出しはとても緩やかだった。水流に乗って、ゆっくりと闇の中へと吸い込まれていく。
スライダーの中は少しだけ薄暗く、外の喧騒が遠い。周囲の壁に流れる水の音だけが反響している。狭い空間で、俺たちの距離は極限まで近い。後ろから抱きつく七海の腕が腹部に食い込み、その柔らかい体温が、濡れた水着越しに背中全体を支配していく。
カーブに差し掛かると、わずかに体が振られる。そのたびに彼女の胸元が俺の背中に強く押し付けられ、その感触があまりにもリアルで、俺は視界の先にある光の出口よりも、背中の刺激に意識を奪われそうになる。
「……きゃあああ!!!」
加速とともに、七海の悲鳴が背後から直接耳に届く。
その声に呼応するように、彼女はさらに強く俺の体に密着してくる。背中に押し付けられる柔らかい感触が、加速の衝撃と共に、先ほどよりもはっきりと、容赦なく脳を刺激した。
心拍数は先ほどとは比較にならないほど速くなっていた。
ドキドキ、というよりも、心臓が爆発しそうなほどの高鳴り。俺の心拍数は、限界を超えていた。
「悠くん、楽しいね!」
そう言って七海は体をさらに密着させる。七海が俺の首筋に顔を寄せる。濡れた頬と、冷たい水の感触。そして、抱きしめられることによる熱い温もり。
「……っ!」
激しい揺れの中で、彼女の吐息が俺の耳元をくすぐる。
心臓が口から飛び出しそうなほどの衝撃と高揚感の中、俺たちは猛スピードで光の出口へと突っ込んでいった。
ザバァン!
激しい水しぶきを上げながら、二人はプールへと着水した。
水中で浮き上がり、互いの顔を見ると、七海はずぶ濡れになりながらも、今日一番の無邪気な笑顔を浮かべていた。
「あー! 楽しかった!」
七海は水面から顔を出し、濡れた髪をかき上げる。
「……悠くん、すごく楽しかったね!」
俺はまだ昂る鼓動を隠すように、少しだけ視線を逸らしながら答えた。
「……そ、そうだな……」
「どうしたの? 楽しくなかった?」
「いや……この上なく幸せだった」
俺が正直に言うと、七海は不思議そうに小首を傾げていた。
それからしばらくは、二人で水を掛け合ったり、浅瀬で浮かんだりして、陽が傾きかけるまで遊び尽くした。
「ねえ、悠くん……今日、楽しかったね」
「……ああ、最高だったよ」
「……また、デートしようね」
その言葉に、俺は思わず微笑んだ。
日が傾き、夕暮れに染まる街を歩きながら、ふと、これからのことを考える。
「……そろそろ、県大会だね」
俺がそう言うと、七海は少し寂しげに頷いた。
「うん。……意外とすぐだよね」
「それだけ充実してるってことだよ」
「そうかもね」
彼女は少し照れたように笑うと、俺を見つめた。
「ねえ、東関東大会が終わったら、私の誕生日だね……」
「……ああ、覚えてるよ」
「……楽しみ」
「……俺、七海を全国に連れて行きたいな」
俺が真剣に伝えると、七海は少し不思議そうな顔をして、きっぱりと首を横に振った。
「違うよ」
「……え?」
「私たちが、悠くんを全国に連れて行くんだよ」
その言葉に、俺は一瞬言葉を失った。そして、心からの感謝を込めて微笑んだ。
「……そうか。……ありがとう」
「悠くん」
「ん?」
「悠くんのおかげで、毎日楽しいよ」
「……良かった」
「あとね、お父さんの調子も少し良さそうだから、全国に行けたらお父さんも見に来てくれるといいなって思ってるの」
俺と七海は、ほぼ毎週、七海のお父さんである佐伯さんの入院する病院を訪れている。最近は心配事が減ったからか以前より元気になっていた。
「そうだな。……絶対に見せような、全国の景色」
俺たちは手を取り合い、夜の帳が下りる街を、少し早足で歩き始めた。
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