プール
コンクールから数日後
更衣室を出て、プールの入り口をくぐった瞬間、強烈な日差しとプールの塩素の匂いが全身を包み込んだ。
「うわっ、すごい人! 」
彼女が選んだネイビーブルーのビキニ姿は、いつも制服やジャージに包まれている彼女の凛とした雰囲気とは対照的で、太陽の光を浴びた白い肌が眩しい。周囲からの視線を少しだけ感じたが、七海は全く気にする様子もなく、俺の手を引いて歩き出した。
「悠くん、早く! 」
俺たちは迷わずプールへと向かった。
冷たい水が全身の熱を瞬時に奪っていく。それが心地よくて、思わず笑みがこぼれた。
「冷たっ! ……でも、最高に気持ちいい!」
水中で目を開けると、光がゆらゆらと底に届き、日常の重力がすべて消え去るような浮遊感があった。水中から顔を出すと、七海が楽しげに髪をかき上げながら、こちらを見て微笑んでいる。
「悠くん、水泳得意だったよね? 勝負しようよ!」
「いいよ。何で勝負する?」
「決まってるじゃん、クロールで向こうの端まで!」
七海の提案に、俺は軽く頷いた。合図と共に、俺たちは一斉に水を蹴る。
コンクール期間中、ずっと張り詰めていた神経が、水流となって後ろへ流れていくようだった。七海は意外と泳ぎが速い。俺も負けじと腕を回すが、隣で彼女が楽しげに水しぶきを上げているのを見ると、競い合うことよりも、ただ隣で泳いでいるこの時間が何よりも愛おしく感じられた。
結局、ゴール地点のロープに掴まったのは、僅差で俺だった。
「くーっ! 悔しい! ……悠くん、本気出しすぎ!」
「いや、七海が速いんだよ。あんなに泳げるなんて知らなかった」
「ふふん、これでも小さい頃から市民プールに通ってたんだからね」
彼女は息を弾ませながら、濡れた髪を後ろに流す。水滴が彼女の首元を伝い、鎖骨のくぼみに溜まる様子を、俺はつい見つめてしまった。七海はそれに気づいたのか、わざと俺の顔に向かってパシャパシャと水をかけてきた。
「……っ、こら!」
「ぶっあ」
そのまま、俺たちは水のかけ合いになった。
まるで子供に戻ったみたいに、二人で笑いながら水面を叩く。周囲のカップルや家族連れが楽しげに遊んでいる中で、俺たちもまた、その風景の一部として完全に溶け込んでいた。
「ねえ、悠くん。少し休憩しようよ」
しばらく遊んだ後、七海が提案した。俺たちは流れるプールの端に身を委ね、ゆっくりと一周することにした。
プールの流れに乗って、ただぼんやりと空を見上げる。
「コンクール良かったね」
「そうだな」
七海は俺の肩に頭を預けてきた。彼女の体温が肩を通して伝わってくる。
水の中で、彼女の指が俺の指先をそっと絡めとった。塩素の匂いと、時折肌に触れるプールの流れ。俺たちは何も言わずに、ただその心地よい静寂を楽しんだ。
「悠くん」
「ん?」
「私、あの時……コンクールのステージで、悠くんの指揮を見た瞬間、改めて思ったの。……全国行きたいって」
不意に彼女がそんなことを言うから、俺は心臓が跳ね上がった。
「……一緒に行こうな」
俺が少しだけ照れながらそう言うと、七海は満足そうに微笑み、俺の指をぎゅっと握り直した。
「うん!」
水中の手と手が、より強く結ばれた。
プールの浅瀬で波打つ水面を眺めていた七海が、ふと思いついたようにパッと顔を輝かせた。
「ねね! どっちが長く潜ってられるか勝負しよ!」
「男子の肺活量舐めるなよ」
俺が自信たっぷりに言い返すと、七海は不敵に微笑んで、自分の胸を軽く叩いた。
「ふふん、甘いなー。こっちは現役吹奏楽部員だよ? 毎日楽器吹いて、腹式呼吸で鍛えてるんだから、そう簡単には負けないよ!」
「いい度胸だ。負けた方が、上がった後に冷たいドリンク奢りな」
「いいよ! 悠くん、絶対負けないからね!」
七海が勝気な瞳で俺を射抜く。
俺たちはプールの少し深いエリアまで移動し、顔を見合わせた。周囲の騒がしい喧騒が、少しずつ遠ざかっていくような感覚がある。
「せーの」の合図で、俺たちは同時に水の中へと深く潜り込んだ。
一気に世界が静まり返る。
地上にいた時の賑わいが嘘のように消え去り、聞こえるのは自分自身の微かな鼓動と、水の揺らぐ音だけだ。
俺は視界の中で、七海をじっと見つめた。
彼女もまた、目を開けて俺を見つめ返している。水中で見る七海の顔は、まるで別世界に住む妖精のようだった。濡れて張り付いた髪の先がゆらゆらと揺れ、彼女の瞳が水面に注ぐ光を反射して、吸い込まれるように輝いている。
俺は余裕を見せようと、あえてゆっくりと瞬きをして、余裕たっぷりの表情を作ってみせた。
だが、七海は負けていない。
彼女は俺の目の前までスルスルと泳ぎ寄ると、いたずらっぽく小首をかしげ、水中で「ぷくっ」と小さな泡を吐き出した。
(……くっ、可愛いな)
胸の奥がキュッとなる。
勝負だというのに、彼女が目の前でそんな仕草をするものだから、心拍数が急上昇して酸素を余計に消費してしまいそうだ。
俺は限界まで粘る。現役部員の肺活量は侮れない。七海は苦しい素振りなど微塵も見せず、澄ました顔で俺を見つめている。
時間が止まったような空間の中で、ただ二人の視線だけが熱を帯びて交差していた。
先に限界が来たのは、やはり俺の方だった。
鼻から細く泡が漏れ、肺が空気を求めて警報を鳴らす。
――負けるか。
俺がそう思った瞬間、七海がスッと俺の顔のすぐ近くまで泳いできた。
そして、水中でそっと俺の頬に手を添える。
驚いて呼吸を乱しそうになった俺の目の前で、彼女はまた一つ、小さく泡を吐き出し――そのまま、水中で俺の唇に、ほんの少しだけ触れるようなキスをした。
あまりの出来事に、俺の頭の中は真っ白になった。
次の瞬間、俺は勢いよく水面に顔を出した。
「げほっ、……お前、それは反則だろ!」
水面に顔を出して息を吸い込む俺を見て、七海も遅れて浮上してくる。
彼女は濡れた顔で、最高に悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
「えへへ、悠くんの負けー! ……勝負に勝つためには、手段を選ばない主義なの」
「手段っていうか、今の……完全に卑怯だぞ」
「ふふ、でも嬉しかったでしょ?」
七海は水の透明感に負けないくらいの明るい笑顔で、俺の肩を軽く叩いた。
俺は顔が熱くなるのを感じながら、彼女の頭をぐしゃぐしゃと撫でてやる。
「……色んな意味で負けた気分」
「またの勝負を楽しみにしているよ」
二人の笑い声が、プールの水面に高く響き渡る。
「……じゃあ、約束通り、買いに行くか」
「うん! 私、メロンソーダがいい!」
そう言って彼女が俺の手を引く。
水しぶきを跳ね上げながら、俺たちは売店へと向かって歩き出した。
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