雨
七海に手を引かれ、俺たちは服飾エリアの大型店舗へと足を踏み入れた。
店内に入った途端、七海のスイッチが完全に入ったのが分かった。先ほどまで俺を揶揄っていた小悪魔的な雰囲気はどこへやら、彼女の目はギラギラと輝いている。
「ねえねえ、悠くん! これ良さそう! ……あ、これもいいかも!」
七海は目を輝かせながら、次から次へとハンガーラックから服を引き抜いては、俺の体に当てがっていく。まるで着せ替え人形のようだが悪い気はしなかった。
「わあ、これも絶対似合うよ! 悠くん、鏡見て! ほら、爽やかでいい感じ!」
「あ、ああ……そうかな?」
「そうだよ! 次はこっちのセットアップね! ちょっと大人っぽく攻めよう!」
彼女はテンションを上げきった様子で、キャーキャーと声を上げながら次々と俺を試着室へと押し込んでいく。店員さんも、そのあまりの勢いに少し圧倒されているようだ。
五着目くらいの試着を終えてカーテンを開けると、七海はまたしても目をキラキラさせてこちらを見ていた。今回渡されたのは、普段の俺なら絶対に選ばないような、少しタイトなシルエットのシャツと、シックなスラックスだった。
「……こ、これも……?」
流石に少し気恥ずかしくなって尋ねると、七海は両手を組んで、これ以上ないほどキラキラした瞳で俺を見つめてきた。
「うん! 絶対似合うと思うもん! お願い、悠くん!」
その上目遣いに、その純粋な期待に、俺は抗う術を持たなかった。
「……わかったよ、着てみる」
俺は観念して試着室に篭り、新しい服に袖を通す。鏡の前に立つと、そこにはいつもより少しだけ背筋が伸びた、見知らぬ自分がいた。
カーテンを開けて姿を見せると、七海はパッと顔を輝かせ、「わぁっ!」と声を上げた。
「……すごい、やっぱり! 悠くん、すっごくかっこいい!」
七海が駆け寄ってきて、俺のシャツの襟元や袖口を嬉しそうに直してくれる。彼女の手の温もりが服越しに伝わってきて、なんだか照れくささで胸が熱くなった。
「……どうかな? 悪くない……?」
「悪くないどころじゃないよ! もう、最高! 私の悠くん、どこまで素敵になる気?」
彼女は本当に幸せそうに笑いながら、俺の腕にしがみついている。その表情を見ているだけで、俺もなんだかこの服が特別なもののように思えてきた。
「……そんなに気に入ってくれたなら、これにしようかな。七海が選んでくれたんだし、これが一番いい気がするよ」
「本当!? やった! ……あ、でもね、せっかくだからもう一着だけ! ……あの、あっちの紺色のジャケットも羽織ってみてくれない?」
「ええっ、まだあるの!?」
「だって、悠くんがカッコよすぎて、もっといろんな服着せたくなっちゃうもん!」
七海は再び意気揚々と服を探しに向かう。
……まあ、彼女がこれだけ楽しそうにしているなら、こういう時間も悪くないかもしれない。
俺は鏡の中の自分を見て、少しだけ微笑んだ。この服を着て、次はこの手を引いて、どこへデートに行こうか。そんな未来を想像しながら、俺は再び七海が持ってきた服を受け取った。
服屋を出て、夜の街へ足を踏み出した瞬間だった。
空はさっきまでとは比べ物にならないほど黒く染まり、前触れもなく空が割れたかのような轟音が響いた。
「わっ……!」
次の瞬間、視界を覆い尽くすほどの土砂降りが俺たちを襲った。傘をさす暇すらない、まさに滝のような雨だ。
「こっちだ、走るぞ!」
俺は七海の手を強く引き、近くのアーケードを目指して駆け出した。
濡れたアスファルトが跳ね上がり、俺たちの靴は一瞬で水浸しになる。
「冷たいっ、うそ、これ無理だよ悠くん!」
七海が笑い混じりの悲鳴を上げながら、俺の背中に隠れるようにして必死についてくる。数分間、ずぶ濡れになりながら走り抜け、ようやく近くの商店街の軒下に滑り込んだ。
しかし、雨足は弱まるどころか、ますます勢いを増している。
「……っくしゅん!」
七海が小さく鼻をすする。彼女の肩が細かく震えている。夏とは言っても雨に濡れたままでは風邪をひいてしまうだろう。
「大丈夫か? 」
俺が慌ててポケットからハンカチを出して彼女の髪を拭くが、焼け石に水だった。
「どうしよう、この雨……しばらく止みそうにないよ」
辺りを見回すが、深夜に近い時間帯の商店街はほとんどの店が閉まり、明かりもまばらだ。
「あそこ……」
七海が少しだけ顔を赤くして、通りの向かいにある建物を見つめる。ネオンがぼんやりと雨に滲み、その一角だけが浮き上がって見える。
「七海……あそこは……」
俺は躊躇った。商店街の軒下は冷え込みが激しく、七海の肩は目に見えて震えている。このままここで雨を凌ぐのは無理があるけれど、目の前にあるのは場違いなほど派手なネオンを放つラブホテルだ。
「……うん、そうだよね。ベタだよね、雨に濡れてラブホに駆け込むなんて。ラブコメならここで必ずあるあるの展開だけど、現実にやるとなると……なんていうか、恥ずかしいし……」
七海は照れくさそうに笑いながら、自分の濡れた前髪を指先でいじった。彼女の表情は少し強張っているけれど、その瞳の奥にはどこか微かな期待にも似た熱が宿っている。
「……他意はないからな。ただの雨宿りだから」
俺は自分でも驚くほど硬い声で言った。自分自身の動揺を隠すための精一杯の防壁だった。
「うん、分かってるよ。悠くんがそんな、変なこと考えてないのくらい」
七海は俺の言葉を否定することなく、素直に頷いた。
ホテルのエントランスに飛び込み、自動チェックイン機の前で部屋の鍵を受け取るまでの間、七海の濡れた体が腕に密着していて、その感触だけで心臓が暴れ出しそうだった。
部屋に入ると、そこは外の激しい雨音を完全に遮断した、甘ったるい静寂に包まれていた。
「……すご。ほんとに、ラブホってこんな感じなんだ」
俺はきょろきょろと室内を見回した。間接照明の柔らかな光、壁一面の鏡、そして広すぎるほどのキングサイズのベッド。まるで別の世界に迷い込んだような感覚だった。
俺の言葉に、七海は少しだけ身を乗り出して尋ねてくる。
「……悠くん、初めて?」
その問いかけには、どこか試すような響きが含まれていた。俺は少し照れくさくなって、視線を逸らす。
「当たり前だろ。入る機会なんてあるわけないし」
「ふふっ……そうなんだ。私も」
七海は小さく呟くと、少しだけ安堵したように微笑んだ。
その時、彼女が濡れた髪をかき上げようと腕を上げた拍子に、ブラウスの胸元がより一層肌に張り付いた。
俺は一瞬、息を止めた。水着姿なら今日見ていたが、今、目の前にある光景は全くの別物だった。
日常的な服が雨に濡れ、肌に吸い付くように透けている。その透け感は、水着のような堂々としたものではなく、見えてはいけないものを見てしまったかのような背徳的な甘さを孕んでいた。インナーの淡い輪郭がぼんやりと浮かび上がり、その下の柔らかな肌の質感が透けて見える。あまりの生々しさに、俺は思わず顔を熱くして俯いてしまった。
「……悠くん、どうしたの? そんなに顔を赤くして」
七海が不思議そうにこちらを覗き込んでくる。彼女は自分の服の状態にまだ完全には気づいていないらしい。その純粋な瞳で見つめられると、俺の理性はさらに脆く崩れそうになる。
「……な、ななみ。とりあえず、その服、早く乾かさないと……風邪ひく」
俺は必死に声を絞り出した。視線をどこに置けばいいのか分からず、心臓が耳元で鳴っているようだ。
「え? あ……そっか。そうだね」
俺の視線を追ったのか、七海がようやく自分の胸元に目を落とす。次の瞬間、彼女の顔が茹でタコのように真っ赤に染まった。彼女は両手で胸元を隠し、恥ずかしそうに肩をすくめて身を縮める。
「……っ、ごめん。全然気づかなかった……」
「い、いや、謝る必要はないけど……とりあえず、先に風呂に入ってきてくれ。その間、俺が何か着替えられるものがないか探しておくから」
俺は彼女から視線を外したまま、早口で指示を出した。彼女の姿をこれ以上見ていたら、本当に自分を制御できなくなる。
「わ、わかった。……じゃあ、すぐ入ってくるね」
七海は恥ずかしさを隠すように、足早に浴室へと向かった。
扉が閉まる音がした瞬間、俺はようやく深く息を吐く。心臓の音が、静かな室内でうるさいほどに響いている。
(落ち着け、俺。ただの雨宿りだ。ただの雨宿り……)
そう自分に言い聞かせながら、俺は部屋の中に備え付けられている備品やアメニティを物色し始めた。何とか彼女が着られるものを見つけないと、この状況はあまりに危険すぎる。
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