悠の聖域
「じゃあ家をよろしくね」
玄関先で両親を見送り、重厚なドアがバタンと閉まる音が響いた瞬間、俺たちの「二人だけの三日間」という、甘く密やかな時間が幕を開けた。
「……行っちゃったね」
「うん。……なんだか、さっきまでと空気が違うみたいで、急に心臓がドキドキしてきたよ」
七海が俺のシャツの裾を、まるで迷子のようにぎゅっと掴む。その控えめな上目遣いに、俺はさっきの抱擁の余韻を鮮明に思い出して、また顔が熱くなる。両親がいないこの広い家は、どこか閉鎖的で、俺たちの距離を物理的にも心理的にも、限界まで近づけてくれるような錯覚に陥らせた。
リビングのソファに腰を下ろし、俺は躊躇いながらも七海を膝の上に乗せた。恥ずかしさで耳まで赤くしながらも、七海は素直に俺の首に細い腕を回し、その華奢な体を全面的に委ねてくる。
「……悠くん、大好き」
「……俺もだよ。世界中で、誰よりも」
愛おしさがこみ上げ、俺たちは他愛ない話をしながら、時折くっついたり、抱きしめ合ったりして過ごした。窓の外には夕闇が迫り、部屋の照明を少し落としたリビングには、二人だけの甘い熱気が充満していく。
しかし、七海は時折、意識がどこか上の空になっているようだった。俺の背後にある大きな本棚の方に、不安げで、でも何かを探るような視線をチラチラと向けている。
(……何か、気になる本でもあるのかな?)
俺は彼女の背中を撫でながら、何気なく尋ねた。
「どうかしたか? そんなに本棚を見て」
「えっ?! な、なんでもないよ! ただ、本が並んでるのが綺麗だなって思って……」
七海は肩を跳ね上げ、明らかに挙動不審な態度をとった。視線は泳ぎ、指先で俺のシャツを無意識に弄っている。
「……そ、そうか? 最近触ってないから少し埃っぽいかもしれないけど」
「そ、そうなんだ!」
彼女のあまりの不自然さに、俺は一抹の違和感を覚えた。だが、今のこの甘い空気を壊したくなくて、それ以上追及することを避けた。
その時、静寂を切り裂くように、俺のスマホの着信音が響いた。画面には『大学研究室』の文字が踊っている。
「……え、大学から? 」
俺は眉をひそめながら通話ボタンを押した。
「……はい、もしもし。はい、悠です。……え、今からですか? いや、その……はい。……分かりました。すぐに行きます」
電話の向こうから聞こえる教授の声は焦燥しきっており、断れる空気ではなかった。通話が終わった瞬間、リビングの空気が冷めた。七海は不安そうに俺の顔を見つめていた。
「どうしたの? 悠くん」
「……ごめん、七海。大学の研究室に急なトラブルで呼び出されちゃったんだ……データが飛んだとかで、どうしても今すぐ来てくれないかって」
「今から……? そっか……」
七海の瞳に、みるみる寂しさが浮かんでいく。その潤んだ瞳を見ていると、背負ったリュックを投げ捨てて彼女を抱きしめたくなった。
「本当にごめん。……すぐ片付けて帰ってくる。それまで、待っててくれるか?」
俺は七海の頬を優しく撫でた。七海は少し寂しげに、でも健気に微笑んで頷いてくれた。
「分かった……。気をつけて行ってきてね。……私、お家でおとなしく待ってるから……あ!」
「どうしたの?」
「な、なんでもない! ちょっと、忘れ物を思い出しただけ!」
彼女はさっきよりもさらに動揺しているように見えた。俺は不思議に思いつつも、時間がない焦りから、七海を一度強く抱きしめ、急いで身支度を整えた。
玄関に向かう俺の背中を見送りながら、七海は胸の中で大きく息を吐き出していた。
(この際だから……お義母さんに教えられた「あの場所」をチェックするしかない)
悠くんがいない今こそ、隠された秘密を確認する唯一無二のチャンスだった。
俺は大学への道を急ぎながら、なぜか背筋がゾクゾクする不吉な予感に襲われていた。
(七海視点)
玄関のドアが閉まり、静寂が家の中を満たす。悠くんの足音が遠ざかり、完全に姿が見えなくなったことを確認してから、私は大きく息を吐き出した。
心臓がうるさいほどに鳴っている。期待と、背徳感と、そして大好きな人の秘密に触れることへの言いようのない高揚感。
「……ごめんね、悠くん」
私は小さく呟くと、すぐさま彼の部屋へと向かった。
寝室に入ると、そこには彼が普段過ごしている気配が色濃く残っていて、それだけで頬が熱くなる。お義母さんが教えてくれた言葉を脳内で反芻した。
『本棚の右から三番目。一番下の段。分厚い辞書の裏』
逸る気持ちを抑えながら本棚へ歩み寄り、一番下の段に腰を下ろす。辞書を指先で少しずつずらしていくと、その奥から小さな木の箱が姿を現した。
「……あった」
手に取った箱はずっしりと重い。
恐る恐る蓋をゆっくりと開ける。そこには、漫画本や、小さな冊子がギッシリと詰め込まれていた。
「……うわっ、すごい量。悠くん、こんなに溜め込んでたんだ……」
中身を手に取ってみると、ページをめくる手が止まらなくなる。表紙には過激なタイトルが並び、中身も想像していたよりも遥かに「大人」な内容だった。
大学生と高校生が織りなす危うい恋の物語や、同棲するカップルの甘く激しい日常。ページをめくるたびに、私の顔は火を噴くように熱くなっていく。特に、女の子が男の子を積極的にリードして翻弄する展開の漫画が、何度も読み返した形跡があるのか、ページが少しだけくたびれていた。
「……悠くんって、本当に結構エッチだったんだ」
赤面しながら呟いたけれど、不思議と嫌悪感は湧かなかった。むしろ、安心した。
「悠くんもちゃんと男の子なんだね」
箱の中身を確認すればするほど、彼がどんな刺激に弱くて、どんなシチュエーションに胸を焦がしているのかが手に取るように分かってきた。
(あ、この漫画の女の子の雰囲気、どこか私と似ている)
そうか、そういうことか。
「……なるほど。これが悠くんの……性癖なんだ」
確かに少し恥ずかしいけれど、でも……悠くんは、私に対して決して強引なことはしなかった。私が望むかどうかも分からないのに、自分の欲望を押し付けようとはしなかった。
「悠くんは、こういう目的で私を選んだわけじゃなかったんだもんね……」
むしろ、私を大切に想うあまり、自分の中のそんな「男の子の部分」を必死に抑え込んでいたんだ。そう思うと、胸の奥から熱くて甘い感情が込み上げてくる。
彼はヘタレなんじゃない。私を愛しているからこそ、不器用になってしまうんだ。
「これ……もし私が、漫画の女の子みたいに仕掛けたら、悠くんはどんな顔をするんだろう」
(悠視点)
「ひぃっ……!」
大学の研究室で、唐突に襲ってきた寒気にも似たゾクゾク感に、思わずその場に立ち止まって声を上げた。
「ど、どうしました?」
前にいた後輩の男子学生が、不思議そうに俺の顔を覗き込んでくる。俺は自分の肩をさすりながら、困惑したように首を振った。
「いや……いきなり背筋がゾクゾクして」
「大丈夫ですか?じゃあ早く終わらせて早く帰りましょう」
読んでくださってありがとうございます。
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