指揮者
退院から数日、悠は再び部室の指揮台に立っていた。コンクールという大舞台が目前に迫り、部員たちの熱気は最高潮に達している。
部活全体の演奏は以前とは別物のように向上している。特に七海のソロが一番変わった。
あのすれ違いから、楽しかった思い出、言葉にならなかった寂しさ、突き刺さるような孤独、そして未来への切実な希望。それらを載せた彼女の演奏を初めて聴いた時、悠は指揮棒を持つ手が震え、目頭が熱くなるのを止めることができなかった。七海が持つ本来の実力が、感情という命を得て、今、完璧なまでに開花している。
「……金管、ここはみんなが主役だ。だからと言って乱暴にならずに、もっと華やかに! 音の芯を飛ばすように響かせてくれ」
悠が指揮棒を止め、熱のこもった声で指示を出す。
「「はい!」」
力強い返事が部室に響く。悠はすぐに視線を木管セクションへと移した。
「木管、ここは原曲ではヴァイオリンの旋律だ。フレーズを途切れさせず、もっと流れるように……溶け合うような響きを意識して」
「「はい!」」
悠は指揮棒を細かく動かし、今度は全体の土台を支えるパートへと意識を向けた。
「低音部、最後の音が落ちないようにしっかり圧を保って。ホールの一番後ろまで音が届くイメージで、最後まで息を吐き切るんだ!」
「「はい!」」
悠は満足げに頷き、指揮棒を高く掲げた。
「よし! じゃあ、最後にもう一回、最初から通すぞ!」
「「「はい!!!」」」
部員たちの声が一つに重なる。合奏を重ね、みんなの演奏がまとまってくると返事すらも息ぴったりになる。
全曲を吹き終えた後、部室には心地よい余韻が漂った。悠は指揮棒を静かに下ろす。
「よし、今日の合奏はここまで。お疲れ様。……みんな、本当にどんどん上達しているよ。このまま気を抜かずに頑張ろう。本番が近いから、とにかく体調管理だけは各自で徹底してな」
「はい! ありがとうございました!」
練習を終えた部室には、楽器を片付ける音とともに、心地よい疲労と確かな手応えが満ちていた。
「悠先輩、あれから体調は大丈夫ですか?……」
真帆が心配そうに近づいてきた。悠は努めて明るく、肩をすくめた。
「……心配かけてごめん。でも大丈夫だよ。今はもう、かなり快調だよ」
「……良かったです。あの時、七海ちゃんもすごく元気なかったから……二人の様子、見ていてヒヤヒヤしてたんですよ」
悠は苦笑する。「迷惑かけたね」とつぶやくと、真帆は首を振った。
「いえ、こちらこそいつもご指導ありがとうございます。……あ、そういえばコンクールの本番はどうするんですか?」
「ん? もちろん、客席からみんなの演奏を聴きに行くつもりだけど?」
悠の言葉に、真帆は目を丸くして立ち止まった。
「えっ……? 指揮、振らないんですか?」
「俺は顧問じゃないしね。本番は先生の指揮で挑むのが筋だろう?」
「だって、先生も……」
「すまん、まだ伝えられてなかったんだ」
後ろを振り返るとちょうど先生が立っていた。
「悠、コンクールの本番……指揮をやってくれないか?」
悠は驚きで言葉を詰まらせた。
「え、いやいや……! 学校の顧問の先生が振るべきですよ。俺なんかがそんな大役、務まるわけがない」
「だが、今の部員たちが最も慣れ親しんでいる指揮は、君のものだ。今の彼らの音を最大限に引き出せるのは、君しかいない」
「でも……! 本当にいいんですか? 一度正式に指揮者が決まると、大会ごとの変更なんて簡単には……」
悠の懸念に対し、先生は穏やかに笑った。そして、少しだけ複雑そうな表情で、自分の右肩にそっと手を添えた。
「構わないさ。元々、君にお願いするつもりでいたんだ。実のところ、最近この肩を痛めてしまってね。タクトを振るには、少々厳しい状態なんだよ。部員たちにも話してあってみんな賛成してくれた」
その言葉に、悠は息を呑んだ。部員たちが既にこのことを知っており、自分に託してくれたという事実に、目頭が熱くなる。
「……わかりました。俺が、最高の舞台に連れて行きます」
悠の言葉に、先生は満足そうに目を細め、深く頷いた。
放課後、悠と七海は、佐伯さんの入院する病院へと向かった。
病院の長い廊下を歩く間、二人は何度も手を取り合った。七海との一件があって以来、直接お見舞いに訪れることができていなかったため、悠の心臓は早鐘を打っていた。それでも七海の手が優しく握り返してくれることで、彼はどうにか足を進めることができた。
病室の扉をゆっくりと開けると、窓辺のベッドに腰掛けていた佐伯が、柔らかな笑みを浮かべて二人を迎えた。悠は傍らに立つ七海の手をしっかりと握り直すと、少し緊張しながらも、背筋を伸ばして一歩踏み出した。
「……佐伯さん、ご心配をおかけしました」
悠は深々と頭を下げ、七海もまた、その横で静かに一礼した。
二人はありのままを報告した。父と娘として、またOBと現役生として、すれ違ってしまったこと。互いに「自分なんて」と自信を失い、音楽の陰に隠れて逃げていたこと。そして、ついに互いに真っ直ぐ向き合い、これからはどんな時も言葉で想いを伝え合うと決めたことを。
悠は顔を上げ、佐伯の瞳を真っ直ぐに見つめて言葉を紡いだ。
「佐伯さん。俺は、彼女を傷つけ、遠回りさせてしまいました。娘さんを託される者として、もっと誠実に向き合うべきでした。……これからは、七海と、そして佐伯さんとも、ちゃんと話し合っていきます。未熟な俺ですが、どうか今後も交際を許していただけないでしょうか」
その言葉には、かつての迷いや弱さはなかった。ただ、一人の男として、愛する人を一生かけて守るという重い決意が宿っていた。
佐伯は穏やかな瞳で二人を交互に見つめ、静かに頷いた。その表情に責めるような色はなく、ただ二人がたどり着いた結論への慈しみがあった。
「……話してくれてありがとう。実に不器用な二人らしいね」
部屋には柔らかな陽光が差し込み、二人の影を優しく溶かしている。佐伯は少し間を置いて、問いかけた。
「もう、二人の間に蟠りはないんだね?」
悠と七海は顔を見合わせ、同時に小さく頷いた。
「はい。もう迷いません」
「なら良かった。二人で乗り越えたんだろ? ……きっと、前よりずっと強くなったんじゃないかい」
佐伯は慈しむような笑顔で続けた。
「悠くん、君のことは最初から信用している。それにこうやって、二人の足でまた訪れてくれた。衝突し、それを乗り越えた君たちなら、今後またどんな困難があっても大丈夫だ」
そして、彼は二人を優しく諭すように言葉を添えた。
「これからは、相手のことだけじゃなく、自分のことも信用してあげるんだよ。お互いが自分自身を信じられた時、二人の絆は初めて完成するんだから」
その言葉は、まるで音楽の調律のように二人の心に深く響いた。
「「はい!」」
病院を出た二人は、眩しいほどの陽光の中へ、同じ歩幅でゆっくりと歩き出した。
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