愛の挨拶
七海は病院の冷たい廊下を、心臓の鼓動を早鐘のように打ちながら駆け抜けた。
美里の言葉が、霧の中を彷徨っていた彼女の視界を切り開いていく。悠が自分を突き放したのは、彼なりの不器用で、どうしようもなく哀しい愛の形だったのだと。
病室の前で、七海は深く深呼吸をした。扉の向こうからは、かすかな心電図の音と、静かな寝息が聞こえる。彼女は震える手でノックをせず、ゆっくりと扉を押した。
悠は窓際のベッドで、点滴のチューブを繋いだまま、どこか遠い世界を見つめるように横たわっていた。その横顔は、かつて二人で過ごした日常で見せていた厳格な姿とは異なり、どこか壊れそうで、守ってあげたいと思わせる一人の少年のそれだった。
気配に気づいたのか、悠がゆっくりと首を向ける。
彼が七海を視界に捉えた瞬間、その瞳に驚きと、隠しきれない動揺が走った。
「……七海? なぜ、ここに……」
彼の声はかすれ、弱々しかった。悠は、まるで何かを恐れるように視線を逸らした。
「……帰ってくれ。君は、もう自由なんだ。僕なんかの隣にいなくても、君はもっと素敵な人と出会える。君を苦しめていた僕とは、別れるのが君のためなんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、七海は胸の奥が締め付けられるのを感じた。
「ごめんなさい。確かにあの時、私は演奏で『ふさわしくない』って言った」
「そう、俺は七海の彼氏にふさわしくない。君には幸せになってほしい。だから……」
「違うの!」
七海の叫びが、静かな病室に鋭く響いた。彼女はベッドの脇に力なく崩れ落ち、震える手で悠のシーツを掴む。
「私が! 悠くんの彼女にふさわしくないって思ってたの!」
「それって……?」
悠が困惑したように眉を寄せる。その無防備な表情を見て、七海は喉の奥を詰まらせながら、必死に言葉を絞り出した。
「私の演奏は雄弁じゃなかった。……いや、本当は言葉で伝えないといけないところを、全部演奏のせいにして、悠くんの指揮に頼り切ってしまった。自分を見せるのが怖くて、音楽という壁の後ろに隠れていただけなの。ごめんなさい……」
悠は言葉を失い、ベッドの上で小さく身を硬くした。
「そうか……でも、僕が君を追い詰めて、苦しめたのも事実だし。僕なんかが七海の彼氏になれたのが、ずっと奇跡だと思っていたんだよ。だから、君がもっと自分らしくいられる場所へ行くべきだって……」
「……ごめんなさい」
七海の震える声が、悠の言葉を遮った。彼女は顔を上げ、涙に濡れた瞳で悠をまっすぐに見つめる。
「私のせいで、悠くんにそんな思いをさせて……ごめんなさい」
七海の号泣は、もう止まらなかった。肩を激しく震わせ、シーツを涙で濡らしながら、彼女は繰り返し謝罪の言葉を零した。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……! …… やっぱり私は悠くんの彼氏にはふさわしくないんだよ……だから……」
「……嫌だ」
か細い、しかし切実な否定だった。悠は七海のシーツを握りしめ、声を上げて泣き出した。
「嫌だ、別れたくない……! ダメなところは全部直すから……お願いだ、一人にしないでくれ……!」
七海は息を呑んだ。いつも冷静沈着で、誰よりも「完璧」であることを求めていた悠が、呼吸も乱し、顔をぐしゃぐしゃにして泣きじゃくっている。その姿は痛々しく、同時に、彼が今までどれほど一人で孤独な戦いを続けてきたかを突きつけていた。
「重くてごめん……こんな惨めなところを見せて、めんどくさくてごめん……」
悠はそう言って、さらに肩を震わせた。七海は呆然としつつも、次第にその震える背中を優しく抱きしめた。
「……僕はそんなに褒められるような人じゃないんだ……こんな僕と付き合うのなんて嫌かもしれないけど、でも……」
ひとしきり泣き続けた後、ようやく静寂が戻った病室で、七海は真っ直ぐに悠を見た。
「……ねえ、悠くん。こんなに泣き虫で、重くて、情けない私で本当にいいの?」
悠は鼻をすすり、赤い目で七海をしっかりと見つめ返した。
「……七海じゃないと嫌だ」
「……私だって、重いし、束縛するし、面倒だし。悪いところだらけだよ。それでもいいの?」
「そういうのも含めて、全部、七海が好きだ」
悠の力強い言葉に、七海は小さく微笑んだ。
「私も……悠くんが好き。だから、重くていい。たくさん束縛して。……私は、指導が嫌だったんじゃないよ。私が上手くできなくて、迷惑をかけている自分が許せなかったの」
「迷惑なんて、一度も思ったことはない。……僕の方こそ、上手く指導してあげられなくてごめん」
悠の言葉に、七海は首を振った。
「私が勝手に背負い込んでいただけよ。悠くんにずっと注意していたけれど……悠くんだけじゃなくて私も、自己肯定感が低かったみたい」
二人は静かに肩を寄せ合った。
病室の窓からは、街の明かりが穏やかに瞬いているのが見えた。二人の間の激しい嵐のような涙が引き潮のように去り、ようやく落ち着きを取り戻した静寂が、以前とは違う柔らかさで満たされている。
七海は、少しだけ離れた距離から、弱々しくも真っ直ぐに悠の顔を見つめた。紅潮した瞳で、彼女は勇気を振り絞るように唇を開いた。
「……あの、悠くん。こんなことを聞く権利なんて、私にはないかもしれないけれど……」
七海は指先を不安げに絡め合わせ、俯きながら続けた。
「私が勝手に別れるなんて言って、あなたを傷つけた私が言うことじゃないのは分かってる。……でも、……また、彼氏になってくれませんか?」
七海の声は小さく、消え入りそうだった。自分たちが積み上げてきた「別れ」という名の壁が、どれほど彼を傷つけたかを思うと、その言葉はあまりに厚かましいものに感じられたからだ。
しかし、悠はきょとんとした表情で目を瞬かせたあと、小さく笑った。その笑みには、先ほどまでの悲痛な泣き顔は影を潜め、どこか晴れやかな色が宿っていた。
「……なに言ってるんだよ」
悠は弱々しいながらも、七海の手をしっかりと握り返した。
「俺は一度も、君に別れてなんて言われてないよ」
「え……?」
七海が驚いて顔を上げると、悠は優しく目を細めた。彼はゆっくりと息を吐き出し、七海の指先をなぞるように握り直す。
「だって、あの時の演奏だけじゃ、君の本当の気持ちなんてちゃんと伝わっていなかったみたいだし。僕が勝手に勘違いして、変に距離をとっていただけだよ。君に責任なんてないんだ」
七海が感じている重苦しい罪悪感を、まるで洗い流すかのように、悠は穏やかな声でそう言った。彼女の心を縛り付けていた鎖が、その言葉一つで音を立てて外れていくのがわかった。
「……悠くん」
七海の目から、安堵と切なさが混じった新しい涙がこぼれ落ちる。七海は悠に強く抱きついた。
「え、どうし……」
悠の言葉は、七海が重ねた唇によって遮られた。
それは単なる挨拶のようなキスではなかった。今まで言葉にできなかった不安、独りよがりな解釈、そして彼を傷つけてしまった後悔――それらすべてを彼に伝えようとするように、七海は何度も、何度も悠の唇を求めた。
そこには、言葉にできないほどの愛おしさと、もう二度とこの手を離さないという彼女なりの強固な決意が滲んでいた。
悠もまた、彼女の情熱に引き寄せられるように、点滴のチューブが絡まるのも構わず、震える腕でその背中を抱きしめ返した。彼女が自分を求めているという事実が、悠の胸の奥を激しく揺さぶる。唇が離れても、七海は額を彼の額に押し当てたまま、荒い吐息を交わしながら何度も何度も、確かめるように彼に唇を寄せた。
「これからは思ったこと、伝えたいことは、全部ちゃんと自分の言葉にして言うから……」
七海は荒い息を整えながら、悠の瞳をまっすぐに見つめて誓った。音楽や、曖昧な態度という壁の向こう側に逃げるのはもう終わりにすると誓った。二人の間に積み重なった誤解の正体は、お互いを思う気持ちがすれ違いだった。
悠は、七海の熱を帯びた瞳に自分の姿が映っているのを見て、心からの安堵とともに微笑んだ。
「うん。……愛してるよ、七海」
「悠くん、愛してる。……もう絶対に、離さないから」
七海はそう言い終えるのと同時に、また悠の唇を求めた。
今度は先ほどよりもずっと優しく、慈しむようなキスだった。二人の吐息が溶け合い、病室の冷たさを完全に塗り替えていく。
何度も、二人は互いの名前を呼び合い、言葉を重ねた。愛しているという言葉を口にするたびに、二人の絆はより一層、固く結び目を作っていく。
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