親友の失恋
夜の静寂が、部屋をより一層孤独に感じさせる。七海はベッドの端に座り、ただぼんやりと窓の外を眺めていた。あれから悠は、一度も家には帰ってきていない。悠の両親には「大学の研究室で研究に集中する」と連絡を入れているようだが、七海にはそれが、自分から距離を置くための言い訳のように思えてならなかった。
部屋の空気が、悠の香水の残り香と、彼の温もりを思い出させる。あの日、音楽室で交わしたあの演奏と、胸を締め付けられるような別れ。七海の中で、悠への想いは募るばかりだった。
その時、静寂を破るようにスマートフォンの着信音が鳴り響いた。美里からの電話だった。
「七海ちゃん。今どこ?」
「……自分の部屋にいます」
「あなた、悠とはそれでいいの?」
電話越しでもわかるほど、美里の声は鋭く、そしてどこか怒りを孕んでいた。
「何か……聞いたんですか?」
七海の鼓動が早まる。沈黙のあと、美里が吐き捨てるように言った。
「さっき、目を覚ました時に聞いたわ」
「目を覚ましたって……?」
「悠が倒れたわ。過労よ」
七海は一瞬、息を呑んだ。心臓が跳ね上がり、血の気が引いていくのがわかった。
「大丈夫なんですかっ……?」
「……一応大丈夫よ。今から会える?」
「わかりました。駅に向かいます」
七海は上着を羽織るのももどかしく、夜の街へ飛び出した。
駅の改札前。美里は仁王立ちで七海を待っていた。合流するなり、美里は七海の手を引き、人気のない広場へと連れて行った。
「七海ちゃん、率直に聞くわ。あなたが悠に『ふさわしくない』と別れを告げたって聞いたわ。……本当に、それが理由なの?」
七海は俯き、震える声で絞り出した。
「……はい。悠くんは、私には勿体なすぎます。『私は彼にふさわしくない』。彼が注いでくれる愛情や信頼は、私なんかが受け止めていいものじゃない。……私よりずっと素敵な人の隣にいた方が、彼は幸せになれる。私にできることなんて、彼の手を離すことくらいしか……」
その言葉を聞いた瞬間、美里は思わず天を仰いだ。そして、堪えきれないというように強く言い放った。
「馬鹿じゃないの! ……あいつも全く同じことを言ってるわよ!」
「え……?」
七海が顔を上げる。美里は信じられないものを見るような表情で、悠の言葉をなぞった。
「あいつも『僕は彼女にふさわしくない』って言ってるの。彼女を苦しめたのは僕だ。僕のような独りよがりな男は、彼女には相応しくないから身を引くのが愛だ、って。……あなたたち、二人揃って何やってるのよ!」
美里は七海の肩を強く掴み、その瞳を真っ直ぐに見つめた。
「あなたたちは、勝手に相手を聖人君子に祭り上げて、自分を卑下しているだけよ。相手が何を望んでいるのか、対話もせずに。悠はあなたを愛しているからこそ、あなたの未来を奪いたくないと勝手に判断した。あなたも、悠を愛しているからこそ、自分が重荷になると勝手に判断した。その『相手を思う心』が、完全に食い違って、ただのすれ違いの壁を作ってるだけじゃない!」
七海は言葉を失った。目から大粒の涙が溢れ出し、頬を伝う。
「……話しなさい。ちゃんと、自分の言葉で」
美里の怒りは、やがて痛々しいほどの優しさに変わった。
「悠は『自分が倒れたことを彼女に知らせないでくれ、責任を感じさせたくないから』なんて、今でもあなたの幸せを願っているわ。……それが本当に、あなたたち二人が望んだ『別れ』なの?」
七海は唇を噛みしめ、強く首を振った。
「……違います。私は……彼の隣にいたい。彼が私のことを好きだと思ってくれているのは、わかっています。……でも、私は悠くんの隣にいていいんでしょうか。私が隣にいたら、また彼を苦しめてしまうんじゃないかって……」
「いいから行きなさい」
美里は七海の背中を力強く押した。
「病院へ行って、そのくだらない自意識をぶつけてきなさいよ!これ以上、私をイライラさせないで」
美里の叱咤に、七海は深く頷き、病院へ急いだ。
美里は冷たい夜風に吹かれながら、頬を伝う涙を拭うことさえせず、静かに夜空を見上げた。
あいつが七海ちゃんと付き合ってるって聞いたとき、本当に嬉しかった。あいつの顔が、今まで見たこともないくらい幸せそうだったから……
その瞬間だった。胸の奥にずっと潜んでいた、気持ちに気づいた。
私は悠のことが好きだったんだ
ようやく理解した。なぜ自分がこれほどまでに悠の痛みに敏感で、彼が少しでも笑うだけで安堵し、彼のために何ができるかを追い求めてきたのかを。それは単なる親友としての情けや同情ではなく、確かに「恋」と呼べるものだった。
美里は、これまでの記憶を一つずつ紐解いていく。
辛いときに彼がかけてくれた何気ない一言が、どれほど自分の崩れそうな心を支えてくれていたか。
(私、あいつに何度も助けられてきた。……なのに、結局、あいつを支えてあげられたのは、私じゃなかったな)
自分の感情に気づくのがあまりにも遅すぎた。いや、どこかで気づかないフリをしていたのかもしれない。悠が七海と出会い、彼女の隣で穏やかな表情を見せるたび、美里は自分の想いを心の奥底に閉じ込めてきた。
(……あいつの幸せを応援しよう)
美里は震える息を吐き出し、最後にもう一度だけ夜の街を見渡した。溢れ出した涙は、これまで悠を想って押さえ込んできた、長い歳月の重さそのものだった。
(……これからも「親友」でいよう)
その言葉は、自分自身に言い聞かせるための呪文のようだった。悠と七海の幸せを一番近くで見守り、何かあればいつでも『親友二人』のために手を貸そう。
「……あいつら、幸せにならなきゃ承知しないから」
誰に聞こえるでもなく、小さな決意を夜風に溶かす。美里の歩く足音は、もう迷うことなく、確かなリズムを刻んでいた。
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
★評価やブックマークで応援していただけると更新の励みになります!




