逃避
あの日から、俺の日常は「完璧な指揮者」という仮面を被ることで維持されるようになった。
家には帰らない。佐伯さんから預かってる彼女の居場所を奪いたくはない。
俺は大学の研究室を拠点に変えた。最低限の着替えとシャワー室があり、生活するには十分な場所だった。早朝、冷たいシャワーで思考を強制的に覚醒させ、何食わぬ顔で練習に向かう。
部活に行けば、何事もなかったかのように七海と対峙する。
彼女はもう、僕とは目を合わせない。俺もまた、指導者としての立場を越えないよう、感情を徹底的に排除した。
「今のフレーズ、アタックが遅い。もっと鋭く」
「テンポを落とす。ここはしっかり溜めて」
指導は表面上変わらない。しかし、
《《僕》》はもう自信がなかった。彼女がかつて僕に見せていた、あの真っ直ぐな瞳も、僕が壊してしまったのだ。そう思うと、胸の奥から湧き上がる自責の念を、僕は必死に理性で塗り潰し続けた。
そんなことが続いたある日、研究棟の渡り廊下で美里に呼び止められた。
「悠。最近、顔色が悪いわよ。何かあったの?」
「……何もない。ただの寝不足だよ」
僕は視線を逸らし、短く答える。美里は僕の顔を観察するように見つめ、鼻で笑った。
「ふーん。今日、練習見に行ってもいい?」
「……いや、練習に集中したいから」
「別にいいじゃない。邪魔はしないから」
美里の瞳には、有無を言わせない強さがある。僕は深く溜息をつき、肩をすくめた。
「……やだと言っても、どうせついてくるんでしょ」
結局強引についてきた美里は教室の隅で練習の様子を見学していた。
練習が終わり、部員たちが賑やかに談笑しながら楽器を片付けていく。僕にとってはその喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように感じられた。僕は誰とも視線を合わせず、手元の楽譜に記された無機質な音符だけを見つめ続けていた。
美里は教室の後方、窓際の隅に腰を下ろしていた。時折向けられる彼女の鋭い視線が、僕の指揮者という仮面を内側から食い破ろうとするようで、僕はひたすら楽譜に視線を固定するしかなかった。
「……今日の合奏、何か随分と張り詰めていたわね」
練習が終わる間際、美里がふと零した言葉が、静まり始めた音楽室に妙な形で反響した。
その時、七海が早々に楽器を片付け、足早に音楽室を後にした。彼女の姿が扉の向こうへ消え、廊下で他の部員たちと重なるような音が聞こえた――その瞬間だった。
張り詰めていた糸が、プツリと切れる音がした。
「――っ」
声にもならない吐息が漏れる。指揮台に置いていた手から力が抜け、膝が音を立てて床に叩きつけられた。全身の筋肉が拒絶反応を起こしたかのように動かなくなる。立ち上がろうと試みるが、重力さえもが何倍にもなったかのように身体が言うことを聞かない。
「悠?!」
音楽室の隅から、椅子の引かれる音がした。美里の足音が急速にこちらへ近づいてくる。
「悠先輩?! 大丈夫ですか?!」
周囲に残っていた数人の部員たちが、異変に気づいて駆け寄ってくる気配がした。彼らの驚きに満ちた声、焦燥した足音、そして名前を呼ばれるたびに遠ざかっていく現実感。
視界が急速に狭まっていく。天井の蛍光灯が、まるで遠い夜空の星のように揺らぎ始めた。酸欠で脳が焼き切れるような感覚の中、僕は床の冷たさだけが唯一の現実として感じていた。
「ちょっと、悠! しっかりして……!」
美里の必死な呼び声が、鼓膜の外側で遠ざかっていく。
僕は、ただ七海が去ったあとの音楽室で、彼女に見られることなく崩れ落ちたという歪な安堵だけを抱えていた。これが、僕が選んだ「完璧な指揮者」の、皮肉な結末だった。
次の瞬間、僕の意識は真っ白な闇の中に沈み込んでいった。
目を覚ましたのは病院の白い病室だった。消毒液の匂いと、規則正しく刻まれる心電図の音が、ここが非日常の世界であることを僕に突きつけていた。
枕元には、険しい表情の美里が座っていた。彼女は腕を組み、窓の外から差し込む鋭い日差しを背負うようにして、じっと僕を見下ろしている。その瞳には、心配よりも先に、僕の無責任な自滅に対する苛立ちが色濃く浮かんでいた。
「……音楽室で倒れたんでしょう。最近碌な生活してないでしょ?大学の研究室で寝泊まりしてるのもバレてるわよ」
美里の声は、どこか冷たく響いた。僕は重い瞼を持ち上げ、掠れた声で何とか応じようとする。
「……ただ少し眩暈がしただけだ」
僕がそう強がると、美里は溜息を吐き、静かに、しかし僕の逃げ道を完全に塞ぐように問いかけてきた。
「悠。……やっぱり、七海と何かあったの?」
美里の問いかけに、僕の心臓が鈍く脈打った。
なんで、そんなに簡単に気づくんだ。僕は努めて冷静を装い、窓の外へと視線を逸らした。嘘をつく気力も、仮面を塗り直す余裕さえ、今の僕には残っていなかった。
「……なんで、気づいたんだよ」
掠れた声でそう尋ねると、美里は心底呆れたように鼻で笑った。
「何年ずっと一緒にいると思ってるの? 雰囲気でわかるよ。それに、一人称が『僕』に戻ってるわよ」
僕は無意識に自分の拳を握りしめた。そうか、僕はまた自分を守るために、あの頃の臆病な殻に閉じこもっていたのか。
「……無理に演じようとしてるのが、痛々しいくらい丸見えよ。で? やっぱり七海と何かあったんでしょ」
美里のその追及は、これ以上ないほど的確で、残酷だった。僕は肩の力を抜き、ようやく折れた。もう、隠すことなんて何もなかったんだ。
「……ああ、あったよ」
僕は天井を見上げた。白い照明が、僕の惨めさを照らし出しているように感じた。
「……ふさわしくなかったんだ、僕は。彼女には、もっと相応しい相手がいる。……別れを切り出されたよ。彼女を苦しめていたのは僕だったんだ。僕が彼女を縛り付けていただけだったんだよ」
絞り出すような僕の言葉に、美里は眉をひそめ、信じられないものを見るような目で僕を見つめた。
「別れを告げられた時、彼女は泣きそうになりながらも、最後は僕を思ってくれた。……本当に、どこまでも優しい人だよ、七海は。だからこそ、僕は彼女にこれ以上迷惑をかけたくないんだ。彼女を僕という呪縛から解き放って、彼女の音楽を、曇らせることなく純粋に愛せる誰かの元へ行かせてあげるのが、僕にできる最後の愛情なんだよ」
美里は冷ややかな溜息をつき、僕の言葉を遮るように身を乗り出した。その瞳には、憐れみよりも強い、激しい苛立ちが宿っていた。
「……本当に、ちゃんと話したの?」
「え……?」
「どうせ、ちゃんと自分の口で聞くこともせず、勝手に決めつけて別れたんでしょう。そんなの、話したうちに入らないわ」
美里の言葉が、僕の胸に鋭く突き刺さる。けれど、僕は首を振るしかなかった。今の僕には、彼女と対峙する勇気も、自分の過ちを認める強さもなかった。
「……もういいんだ。僕が倒れたことを、彼女には言わないでくれ。彼女が責任を感じるようなことだけは、絶対に避けたいんだ」
美里はしばらくの間、僕の顔をじっと見つめていた。その瞳には、呆れと憐れみ、そして少しの怒りが混じっているようだった。やがて彼女は、ゆっくりと立ち上がった。
「……わかったわ。言わないでおく」
美里が病室の扉に手をかける。その背中は、僕が彼女を頼れなかったことへの静かな拒絶のように見えた。
「でもね、悠。あなたのその『優しさ』は、本当にただの自己満足よ」
扉が閉まる音が、病室に再び冷たい孤独を運んできた。
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