不穏な音
音楽室を満たす空気は、日を追うごとに洗練されていった。トロンボーンの真帆をはじめ、パートリーダーたちの表情には確かな自信が宿り、私たちが懸命に積み上げてきた練習の成果が、合奏という名の大きな潮流となって、確かな「音」として結実し始めていた。
けれど、私だけは、その眩しい上昇気流のなかで、一人だけ底なしの沼に沈みゆくような感覚に苛まれていた。
ソロパートは、今の私にとって、美しくも残酷な試練でしかなかった。
練習のたび、悠くんは私のそばにやってくる。そして、誰よりも注意深く、私の演奏に耳を傾ける。彼のアドバイスは、いつも的確で、かつてないほどに優しい。突き放すようなことは一度もなく、まるで壊れ物を扱うように、彼は丁寧に、何度も何度も、私の心と指先に寄り添おうとしてくれる。
「七海、今のフレーズ、もう少しだけ息の圧力を抜いてみて。……そう、そこ。その柔らかさを覚えておいて」
彼の指導の声が、鼓膜を震わせる。
それがどれほど幸福なことか、私は痛いほど分かっている。他の誰でもない、悠くんが私の音を形作ってくれるのだ。こんな贅沢な場所が、この世のどこにあるだろう。
けれど、その優しさが、今の私を窒息させる。
(……また、期待に応えられなかった)
私がイメージ通りの旋律を奏でられず、呼吸が乱れるたびに、悠くんはやさしく指導してくれる。ただ、柔らかい微笑みを浮かべて、「もう一度だけ、一緒にやってみよう」と繰り返す。
その慈愛に満ちた眼差しを見るたび、私の胸の奥では、どす黒い自己嫌悪が鎌首をもたげる。
(どうして、そんなに優しい目で見つめるの?)
私がふがいないばかりに、貴重な時間が浪費されていく。彼が本来、指揮台で全体を見守るべき時間を、わたしのために割かせてしまっている。彼が私に注いでくれる真っ直ぐな愛情と信頼が、今の私には、何より重たい重石として肩に食い込んでいた。
「悠くんは、私に期待しすぎている」
そう呟くのは、彼に対する裏切りではない。むしろ、彼をあまりに愛しているからこその、私なりの防衛反応だった。彼はこれ以上ないほど最高の彼氏だ。でも私はその隣にいていい存在なのだろうか。
練習を重ねれば重ねるほど、指先は氷のように冷たくなり、喉は緊張で硬く閉ざされていく。
そう思ってしまってから思うような演奏をすることができなくなってしまった。そのたび、私は確信する。
(……汚している。私が、悠くんの音楽を汚している)
練習室の椅子に深く腰掛け、私は楽器を膝の上に置いた。
隣で楽譜を整理する悠くんの横顔が、今はなぜか遠く感じる。彼が優しいからこそ、彼は私の微かな苦悩に気づいてしまう。彼が私を愛しているからこそ、彼は私の不甲斐なさを許してしまう。
もし彼が、もっと厳格な指揮者だったなら。
もし彼が、私の才能の限界を突き放して、別のソリストを指名してくれたなら、私はどれほど救われただろうか。
そんな身勝手な考えが頭をよぎるたびに、罪悪感で胃が焼けるように熱くなる。
自分はどれほど厚かましいのだろう。彼という最高のパートナーを得ながら、なおも彼に「私を諦めること」まで求めてしまうなんて。
「七海? 顔色が少し悪いみたいだけど、休憩する?」
悠くんが、心配そうに私の頬に手を伸ばそうとする。その手が肌に触れる前に、私はとっさに顔を背けてしまった。
彼の温もりに触れたら、今のこの張り詰めた糸が切れてしまいそうだったから。もし今、彼が「大丈夫だよ」と優しく抱きしめてくれたら、私はそのまま、すべてを投げ出して泣きじゃくってしまう。
そんな醜い姿を、彼には見せたくない。私の弱さは、彼にとってのノイズでしかないのだから。
「……ううん、大丈夫。まだできるから」
精一杯の強がりで笑ったつもりだったが、その声は自分で聴いてもひどく掠れて聞こえた。
悠くんは少しだけ寂しげに眉を寄せたが、すぐに「そうか」と言って、再び優しく譜面に視線を落とす。
(そうじゃないの、悠くん)
心の中で、私は叫ぶ。
私のことが好きなら、私なんかに構わないで。
あなたの隣に立つにふさわしい人にはなれない。
音楽室の壁に吊るされた時計の音が、秒針を刻むたびに、私の焦燥は加速していく。
外はもう、夕暮れ時の淡い光に包まれている。練習が終われば、私は家に帰らなければならない。そこでまた、悠くんは私に優しい視線を向けてくれるのだろう。
(私には、もう無理だよ)
自分の吐息が、まるで他人事のように冷たく感じられる。
悠くんが奏でる旋律は、いつも透明で、高潔で、誰に対しても開かれている。それなのに、私だけが、その光の中で陰に怯えている。
壊れるのは私だけでいい。このままでは悠くんの音楽までが、私という欠陥品によって台無しにされてしまう。
そんなことだけは、何としてでも避けなければならない。
私はゆっくりと立ち上がり、再びクラリネットを口元へ運ぶ。
手は震え、呼吸は浅い。それでも、私は音を出す。
悠くんを絶望させないために。
この愛おしく、残酷な時間を、いつか訪れるはずの終焉を、まだどこかで予感しながら。
(悠視点)
音楽室の窓から差し込む午後の光は、もはや温もりを持たない。
僕の目の前で、七海が楽器を構える。その所作は、僕が知る限り、もっとも美しいものの一つだったはずだ。けれど、今は違う。かつての流麗さは霧散し、どこか硬質で、守るべきものをすべて置き去りにした戦士の鎧のように見えた。彼女が呼吸を整えるたびに、僕の胸の奥で、張り詰めた何かが音を立てて軋む。
(……また、彼女の表情が曇った)
彼女は音を外さない。リズムも正確だ。けれど、「魂の声」が、きれいに削ぎ落とされている。ただ楽譜に忠実な、淀みのない、空虚な音の羅列。それが今の彼女の演奏だったはずだ。
俺が彼女を苦しめてる。上手く指導してやれない。
俺は七海の彼氏にふさわしくないのかもしれない。
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