アンサンブル②
悠くんがリードの湿り気を確認し、私の目を見て合図を送る。その横顔を見つめながら、私は楽器を口元へと運んだ。
(……悠くん。あなたは本当に、自分のすごさを何も分かっていないんだから)
エルガーの『愛の挨拶』。
この曲は、作曲家エドワード・エルガーが、婚約者キャロライン・アリス・ロバーツへの婚約記念として贈った贈り物だと言われている。まだ無名だった彼が、愛する人へ捧げたこの旋律は、やがて世界中で愛される名曲となった。
その物語に思いを馳せると、胸が震える。かつて悠くんが、誰かに認められるためではなく、ただ「誰かのために」と願いながらやってきたことが、今の私たちを支えている。
悠くんの奏でる旋律は、普段の控えめな彼からは想像もつかないほど、雄弁だ。
言葉を交わすときは遠慮がちなのに、楽器を手に取った途端、その音色には溢れんばかりの感情が宿る。彼が紡ぐ音の一つひとつが、まるで「もっと見てほしい」「もっと君に伝えたいことがある」と語りかけてくるようで、私はその熱量に圧倒されそうになる。私は彼のその音を殺さないように、でも彼に負けないくらいの想いを乗せて、旋律を紡ぎ出す。
(悠くんは、こんなにも情熱的な音を奏でる人なんだ)
ときどき、彼が私を見つめる視線を感じる。そのたびに心臓が跳ね上がるけれど、私はあえて目を閉じない。こうして音の対話をしている間だけは、二人だけの境界線が溶け合って、本当の意味で一つになれる気がするから。
彼が奏でるオブリガートが私の旋律を包み込み、引き立ててくれる。その心地よさに、思わず吐息が漏れそうになるのを必死にこらえる。
(ねえ、悠くん。……私、知ってるよ。あなたがどれだけ不器用に、どれだけ真っ直ぐに、私を大切にしてくれていたか)
ただ、今この瞬間、彼の音楽の中に私がいて、私の音楽の中に彼がいる。その事実だけで、胸が熱くて、幸せで、どうにかなりそうだった。
(さっきは自信を持ってって言ったけれど……みんなに悠くんのいいところが知られるのは嬉しい反面、少し苦しいとも思うの。私だけが独占したいって思うなんて、私は酷い女かな)
そんな独りよがりな、でも抑えきれない独占欲が胸をよぎった瞬間、不思議なことが起きた。まるで私の心の揺れを読み取ったかのように、悠くんの奏でる音色が、さっきまでの雄弁さとはまた違う、深く、包み込むような優しさを帯び始めたのだ。
彼の音は、私の心の奥底にある不安にそっと寄り添い、「大丈夫だよ」と語りかけてくるようだった。その繊細な響きに、私の胸はさらに高鳴る。
悠くんは何も言わない。言葉なんていらない。こうして音を重ねるだけで、彼は私のすべてを受け止めてくれているのだと、確信できるから。
フレーズの終わり、二人の息が重なる瞬間。
私は少しだけ、わざと遅れて音を切った。彼が私に合わせてくれるのを確信して、少しだけ意地悪に、でも愛おしさを込めて。
悠くんの音は、すぐに私の音に寄り添ってくれた。
ああ、やっぱり。この人は、どこまでも私のことを分かってくれる。
残響が空気に溶けていくのを待つように、私たちは音を止めた。静寂が訪れた部屋で、私は演奏の熱で上気した顔のまま、目の前の悠くんをじっと見つめる。心臓の音が自分でも驚くほど耳元でうるさく響いている。この高鳴りを彼に聞かれていないといいな――そう願う一方で、悠は私の心の奥底まで全て見透かされているような、目でを向けてくる。
「……七海、俺も七海を独占したいよ」
不意に投げかけられたその言葉に、私は息を呑んだ。
「な、なんでわかったの……っ!?」
「だって演奏が、そう言ってたから」
彼は当たり前のように、けれど愛おしさを込めて微笑む。私の音に、そこまで嘘偽りなく正直な気持ちが乗り移っていたなんて。
「もう……なんで悠くんは、そんなに色々気づいちゃうのよ……!」
恥ずかしさで顔が熱い。私はたまらなくなって、持っていた楽器を机に置き、そのまま彼の胸元に顔を埋めた。聞こえてくる彼の鼓動は、さっきまで二人で奏でていたゆったりとしたリズムとは違う、壊れそうなほど早いリズムで刻んでいた。
「七海は表現力があるからイメージさえ掴んでしまえば一気に変わると思うよ」
少し落ち着いてから私たちは練習へと戻った。
「ここの、冒頭のソロ。ここは安らぎのない逃亡の旅の始まりだ。不安や焦燥、後ろを振り返ってはいけないという緊迫感。だけど、その中には祈りにも似た微かな希望も混ざっている。……七海なら、この最初の数小節で、情景を表現できるはずだ」
「不安と、希望……」
「そう。音を出す前の、息を吸い込む瞬間から表現は始まっているよ」
悠くんの合図とともに、私は息を吸い込む。
紡ぎ出された音は、鋭く、凍てつく夜の空気のような緊張感を持っていた。
「いいよ。……そのまま、不安、そして希望。……そう、その緊張感のまま、次のフレーズへ」
私は頭の中で『エジプトへの逃避』の情景を描き出した。目の前には広大な砂漠が広がり、逃亡の旅路に立ち込める夜霧と、遠くでかすかに揺れる灯火を想像する。
自分が今、本当にその旅路の途中にいるかのように。
感情を爆発させるのではなく、あくまでその情景の中に身を置き、不安と希望を音に変換していく。
(……順調な旅ではない。でも、確かに歩みを止めない)
この、張り詰めた糸のような緊張を維持しながら、その先にある祈りの形を音の粒で描く。
私の呼吸と、悠くんが送ってくる繊細な合図が重なる。
今の私には、まだこのギリギリのバランスを保つのが精一杯だったけれど、少しずつ、演奏が『逃避の風景』に塗り替えられていくのがわかった。
「……いい感じ」
悠くんが小さく頷く。私は少しだけ口元を緩め、冷たく澄んだ音色を重ね続けた。
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