アンサンブル①
俺はクラリネットを再び口元に運び、リードの感触を確かめながら七海を見た。
「……よかったら、一緒に吹くか?」
「うん!」
七海は嬉しそうに頷くと、すぐに自室へと駆け戻り、自分の楽器を持って戻ってきた。部屋の中に二つのクラリネットが並ぶ。それだけで、なんだか不思議と胸が高鳴った。
七海は楽器を組み立てながら、ふふっと楽しげな笑みを浮かべる。
「なんか嬉しい。こうやって、悠くんと並んで吹けるなんて。……ねえ、今日は『先輩』って呼ぼうかな? それとも『先生』?」
彼女はイタズラっぽく小首をかしげ、俺の反応を面白がっている。
「……先輩、か」
俺が少しだけ気恥ずかしさを覚えながら呟くと、七海は瞳を輝かせてからかった。
「ふふ、もしかして悠くんって、先輩後輩シチュエーションが好きなの?」
「そ、そういうわけじゃない!」
「じゃあ今度、美里さんから悠くんの性癖、詳しく聞いておこうかな。何かヒントになるかもしれないし」
「やめてください」
俺が必死に制止すると、七海は小悪魔的な笑みを浮かべた。
「えっ、そんなにヤバいの? でも大丈夫だよ。私、悠くんの趣味なら頑張るから」
「変なのはない! ……てか、何を頑張るんだよ!」
「さあ、なんだろうね」
七海は悪戯が成功した子供のように笑い、マウスピースを口元に運んだ。その所作が、今の静かな部屋の緊張感と相まって、どことなく色っぽく見えてしまい、俺は思わず視線を逸らした。
それを七海は見逃さなかった。
「……何か想像した?」
「っ……理性が飛ばないように必死で我慢してるんだからそれ以上は勘弁してくれ」
俺が正直に言い返すと、七海の表情が一瞬だけ驚きに染まり、それからじんわりと嬉しそうな、少し恥じらうような色に変わった。
「……良かった。誕生日までは何もしないって約束したとはいえ、悠くん、全然そういうそぶりを見せないから。私、魅力ないのかなってちょっと不安だったんから」
「そんなことない。こんなに可愛い彼女に魅力がないわけない。……大切だからこそ、今はまだ傷つけたくなくて、必死に自分を律してるんだから」
俺が真っ直ぐに伝えると、七海は頬を真っ赤に染め、俯いた。
「……そう言われたら、何も言い返せないじゃん」
「ごめん。……でも、それくらい七海のことが大切だから」
俺が少しだけ気恥ずかしくなって謝ると、七海は長い睫毛を揺らして、小さく呟いた。
「……私だって、我慢してるんだよ……」
その言葉はあまりに小さく、静かな部屋に吸い込まれるように消えた。
「え?」
俺が聞き返すと、七海はハッとした顔を上げて、慌てて楽器を口元に構えた。
「な、なんでもない! ……それより、 練習するよ! 」
そう言って強引に話題を切り替え、音を鳴らそうとする彼女の耳まで、赤く染まっているのが見えた。
「……おう、そうだな。じゃあ一回、基礎練習から入るか」
俺がそう切り出すと、七海もホッとしたように小さく頷いた。
「そうだね。……やっぱり、基本が一番大事だもんね」
俺たちは並んでロングトーンから始めた。七海の音色は、さっきよりも少しだけ力強く、そしてどこか芯が通ったような響きをしている。俺も負けじと音を重ねる。久しぶりに吹くクラリネットは、指先から伝わる振動が懐かしく、そして何より心地いい。
ひと通り練習を終えると、俺はふと提案した。
「……基礎もいいけど、せっかくだし何か合わせられる曲でも吹かないか? 何か吹きたいものとかあれば」
「じゃあ……さっきの基礎練習用の教材に入ってるやつ、一緒に吹かない?」
「へえ、今でも使ってくれてるんだな」
「うん! これ、基礎練習に必要な要素が全部詰まってるから。後輩たちにも『ここの課題にはこの練習がいいよ』って提案しやすいし、パートのみんなもすごく助かってるよ。……ただ、これって市販されてないから、原本は学校に保管して、みんなはコピーして使ってるんだけどね」
そう言って、七海は使い込まれてクタクタになった、プリントアウト済みの楽譜が入ったファイルを取り出した。俺はそれを見て、嬉しくなった。
「これだろ?」
俺は部屋の棚から、全く同じ内容が綴じられた、少し年季の入った『原本』をスッと取り出して見せた。
「……えっ!? なんで悠くんがそれを持ってるの!?」
「ほら」
俺がファイルの表紙を七海の方へ向けると、彼女は目を丸くして身を乗り出した。
「作曲・編曲……『加藤悠』……? え、どう言うこと?」
「作った」
「作った!? 悠くんが!?」
「うん。なんだか市販のやつだと、自分たちがやりたい練習内容に対して微妙に足りないことが多くてさ。それならいっそ作ったほうが早いかなって思って」
俺が当たり前のように答えると、七海は信じられないものを見るような目で、表紙に記された自分の名前と、俺の顔を交互に見た。
「でもまさか、今でも使ってくれてるんだな。すぐ使われなくなると思ってたから」
俺が自嘲気味にそうこぼすと、七海は手にしていた楽譜のファイルを静かに机の上へ置いた。そして、俺に向き直ると、姿勢を正して小さく深く息を吸った。
「……加藤悠さん」
さっきまでの柔らかい空気とは違う、凛とした真面目な声色。その響きに、俺は少し面食らって身構える。
「どうした、そんなに改まって」
俺の問いかけには答えず、七海はただ真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「まずこれは後輩としての言葉。今回の指導を引き受けてもらうずっと前から、私たちは……私は、ずっとあなたに支えられていました。本当に、ありがとうございます」
その言葉を聞いて、俺の作ったものが今の彼女たちの成長の糧になっていて素直に嬉しかった。
「……こちらこそ、ありがとう。俺の書いたものなんかが誰かの役に立てていたなんて、嬉しいよ」
熱くなる胸の奥を隠すように礼を言うと、七海は一度視線を落とし、それから改めて俺を射抜くような眼差しを向けた。
「……そして、ここからはパートナーとしての言葉」
「え……?」
「私は怒ってる。悠くんは、自分の価値を低く見積もりすぎ」
「いや、そんなことは……」
「今は、黙って聴いて!」
「……ごめんなさい」
怒気を含んだその声に、俺は思わず居住まいを正す。七海は俺の目を離さず、一言ずつ丁寧に言葉を紡いでいった。
「悠はいつも『なんでもないこと』みたいに言うけれど、誰かのためにそこまで動けるなんて、本当にすごいことなんだよ。私に対しても、いつも私のことを一番に考えてくれてる。後輩のことも大切にして、仲間や遊人に対しても陰でずっと支え続けて……そんな人、なかなかいないんだよ?」
七海は本気で怒っているようだった。
「美里さんも言ってたけど、悠くんはいつも自分のことを後回しにしすぎなの。だから、ちゃんと自分の評価を受け取って。みんな、悠くんをすごいって思ってるし、心から感謝してるから。だからあんな風に言うんだよ」
言い終えると、彼女は少しだけ表情を和らげ、潤んだ瞳で俺を見つめた。
「……私は、悠のことが大好き。彼女になれて本当によかった。最高に幸せだよ。私にはもったいないくらい、いい彼氏だよ。……ねえ、悠」
彼女は一歩だけ距離を詰め、俺の顔を覗き込むようにして言った。
「私のこの気持ちを、絶対に否定しないで」
そのまっすぐな願いに、俺は何も言い返せなかった。
「……ごめん」
「もしまた同じように自分を下げるようなこと言ったら……その時は、悠のこと襲うからね」
それは冗談などではなく、その視線は真剣そのもののだった。
「誕生日なんて待ってあげない。悠が自分に自信が持てないなら、力ずくでも教えるから。……こんなに深く愛してくれる人が、今ここにいるんだってことがわかるまで」
七海の真剣そのものの瞳に射抜かれ、俺は息を呑んだ。彼女の言葉には、俺を想うがゆえの力強い意志が宿っている。
「……ごめん」
俺は素直に、自分の弱さを認め、彼女の愛を受け入れた。
「わかってくれた?」
その問いかけに、俺はゆっくりと頷く。
「うん。ありがとう、七海」
張り詰めていた空気が、ふっと緩んだ。七海はいたずらっぽく笑うと、少し気まずそうに、けれど楽しげに話題を変える。
「あはは、また脱線しちゃったね。……じゃあ、これ。エルガーの『愛の挨拶』を吹きたいな」
「わかった」
俺は楽器のリードを湿らせ、七海が選んだ楽譜に視線を落とした。
彼女の顔を見つめながら、俺は心の中で誓う。この真っ直ぐで、俺のためにあそこまで言ってくれた七海という存在を、誰よりも大切にしようと。彼女の音に自分の音を重ねながら。
「……いくよ」
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