コーチ
夜、自宅の部屋で静かに楽器をケースから取り出した。長い間吹いてはいなかったが部員たちの演奏を見て久しぶりに吹きたい気持ちになった。手入れはていきてきにしている。
この家は防音処理などはしていないが戸建だし壁が薄いとかもない 少しは外に聞こえるだろうが近隣の迷惑になるほどではないので中学の時から家でもよく練習をしていた。
ひさしぶりに吹くクラリネットは部活に打ち込んでいた当時には全く及ばないが長い時間捧げていたこともあり体は覚えていた。
すると音を聞いて七海はノックもせずすごい勢いで部屋を訪ねてきた。
「……今のって悠くんの音?!」
「そうだけど、ごめん。うるさかったか?」
勉強でもしていたのだろうか。外には響かぬよう配慮していても、家の中ともなれば音はかなり響く。
「違う! うるさくない!」
「そうか、ならよかった。でも、もしうるさかったら遠慮なく言ってね」
「うん、わかった。……って、そうじゃなくて!」
七海は興奮を抑えきれない様子で、俺の手元にあるクラリネットと、俺の顔を交互に強く見つめた。
「悠くんの音を聞くの、初めてだよ!」
彼女の瞳は驚きと喜びでキラキラと輝いている。俺は少しだけ照れくさくなって、クラリネットのリードを指先で軽く整えた。
「ああ……。久しぶりに部員の演奏を聞いていたら、無性に自分でも音を出したくなって。手入れだけは欠かさずにしてたから、まだまともに鳴ってくれたよ」
「まとも、なんてそんな……! すごく綺麗な音だったよ」
七海は一歩近づくと、期待に満ちた表情で俺のクラリネットを覗き込んだ。
「ねえ、ここで聞いてていい……?」
上目遣いでそう言われると、断る理由なんてどこにもなかった。俺は少しだけ照れくささを隠すように、首を小さく傾げた。
「いいけど、数年ぶりだから下手だよ? 指もなまってて、全然思い通りに動かないし」
「えーっ、そんなことないよ。だって今聴いた音、すごく響いてたもん!」
七海は納得がいかないのか、不思議そうに首を傾げた。
「……なんで数年ぶりなのに、そんなに綺麗な音出せるの? ずっと吹いてなかったんでしょ?」
「うーん……そう言われてもな……」
俺は困ったように笑い、楽器のキーを軽く押さえてみた。
「身体が覚えてる、のかな。……あとは、理想の音が頭の中で鳴っているから」
「どんな音?」
「……部活のクラリネットのコーチだった人の音。力強くて、でもどこまでも柔らかい。遠くまで真っ直ぐ響くような、透き通った音だった」
俺は少し遠い記憶を辿りながら、ぽつりと俯いた。
「……『だった』人?」
「ああ。……コンクールが終わってすぐ、病気で亡くなったんだ」
「え……」
「直前まで元気で、コンクールの会場にも聴きに来てくれたんだ。病気だとは聞いていたけれど、詳しくは知らなくて。いつも通り笑っていたから、てっきり治るものだとばかり思っていた」
七海は息を呑んで、俺の言葉を待っている。
「その人も、俺たちの高校のOBでね。現役の時はコンマスを務めていた」
コンサートマスターとはコンサートミストレスと同じ役職だ。男性の場合はコンサートマスター、略してコンマス。女性の場合はコンサートミストレス、略してコンミスだ。
「クラリネットの指導だけじゃなく、合奏全体も指導していた。コーチの指導は本当に的確で合奏を重ねるたびに自分たちが上達していくのがわかった。俺たちの代が東関東大会まで進めたのは、間違いなくあの人のおかげだよ」
「……すごい人だったんだね」
「うん。大学に入って楽器からは離れたけど、どこかで恩返しがしたいとずっと思っていたんだ。だから今回、指導を引き受けた。……正直、俺はあの人にはまだ遠く及ばないと思っている。だからこそ、俺の指導で、後輩たちの可能性を壊してしまわないかという恐怖もあるんだ」
俺がそうこぼすと、七海は真っ直ぐに俺を見つめていた。
「……でも、やるからには理想の演奏を目指して全力で取り組むつもりだよ。それに、たぶん先生も俺のそんな考えを見抜いてこの役を振ってくれたんだと思う。先生はあんな風に飄々としているけれど、人のことはよく見ているからね」
言い終えた俺が少し自嘲気味に笑うと、七海がふいに俺の名前を呼んだ。
「ねえ、悠くん」
「ん?」
「私ね、私たち部員みんなの意思で、悠くんにお願いしたの。だから、どういう結果になっても、悠くんひとりで責任なんて感じないでほしいな」
七海は俺の目を真っ直ぐに見つめ、切実な願いを込めてそう言った。しかし、俺はその言葉をすぐに受け入れることができなかった。
「……それは無理だよ。指導する立場である以上、結果に責任を持つのは当然だ」
俺が頑なに首を振ると、七海は少し困ったように眉を下げたけれど、すぐに言葉を続けた。
「だったら教えて。もしそのコーチの人が指導してくれていた時、もし東関東に行けなかったとしたら……悠くんはそのコーチのことを責めた?」
「それは、違う。あの人の指導のせいじゃないよ」
即座に返した言葉に、自分でも驚くほどの熱がこもっていた。あの人の教えは正しかったし、俺たちが至らなかっただけだ。そう言い切る俺を見て、七海はふわりと優しく微笑んだ。
「なら、悠くんに対する私たちの気持ちも同じだよ」
彼女の静かな言葉が、氷のように固まっていた俺の心にスッと染み込んでいく。
「……ずるいよ」
俺は思わず溜息をついた。七海の論理はあまりにも純粋で、そして何よりも俺の心にある重石を軽くしてくれた。恩師への敬意と、自分自身への過小評価――そんな俺の心の揺らぎを、彼女はすべて見通した上で、心の中で一番ほしいと思ってた言葉を差し出してくれた。
「俺は、あの人のように完璧にはなれないかもしれない。それでも、そうやって言ってくれるお前たちのために、俺の持てるすべての技術と、あの人が教えてくれたことのすべてを伝えたいと思う」
俺は七海の肩に手を置き、今度は迷いのない声で続けた。
「全国行こうな」
七海はパァッと表情を輝かせ、力強く頷く。
「うん……! 悠くんの指導、楽しみにしているね」
彼女の迷いのない笑顔を見て、俺の中で何かが吹っ切れた気がした。恩師の背中をただ追いかけるだけじゃない。俺は、今の俺自身のやり方で、彼女たちの音楽を最高のものにするんだ。
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