放課後②
店を出ると、初夏の夜風が心地よく火照った肌を撫でた。真帆とは反対方面の電車なので先に別れ、美里と七海はお手洗いに向かった。
トイレで手を洗っているときに七海は、先ほどの美里の言葉を思い出したように口を開いた。
「……あの、美里さん。さっき『私が面白くなくて割り込んでた』って言ってたけど、それって……もしかして、高校時代、美里さんは悠くんのこと好きだったんですか?」
その直球な質問に、美里は悪戯っぽく笑った。
「好きだよ。今でもね」
「え……っ」
七海が手を止め、心臓が跳ねたように表情をこわばらせる。その反応を見て、美里はニヤリと唇を歪めた。
「……親友としてね」
美里の意地悪な言い回しに、七海は安堵と気恥ずかしさが入り混じったような複雑な顔をした。美里は鏡越しに七海の表情を観察し、楽しそうに笑い声を上げた。
「あはは、そんなに怯えなくても大丈夫よ。可愛い後輩の恋敵になろうなんて思ってないから」
七海は鏡の中で視線を合わせ、少しだけ頬を染めながらも、慎重に言葉を選んで尋ねた。
「……あんな風に言われたら、どうしても不安になります。美里さんにとって、悠くんは……やっぱり特別な人なんですよね?」
美里は蛇口を閉め、ゆっくりとタオルで手を拭きながら、先ほどまでの冗談めかした表情から少しだけ静かな眼差しに変わった。
「そうね。悠は、私の人生で一番、音楽に対して純粋にぶつかり合えた相棒よ。……でも、異性として惹かれ合ったことは一度もなかった。戦友、親友、悪友……そんな感じかな。それと、今の私があるのはあいつのおかげだから、恩人でもあるしね」
美里は七海の肩を軽く叩き、鏡に映る二人の姿を眺めた。
「今日はちょっと挑発しすぎた。ごめん。これからは距離感も少し見直すつもりだから。七海ちゃんを不安にさせたくはないからさ」
「……ありがとうございます。美里さんのそういうところ、悠くんと似てる気がします。でもせっかくの親友の関係が離れるのは嫌なので……わがままですけど……」
七海が少し伏し目がちにそう漏らすと、美里は意外そうに目を丸くし、それから力強く七海の肩を抱き寄せた。
「……あんた、本当にいい子だね。悠が惚れ込むわけだよ」
美里はどこか呆れたような、しかし心底嬉しそうな表情で笑った。
「心配しなくても、悠から無理に離れるつもりはないし、私も離れたくはないよ。ただ、あなたを不安にさせない距離感、それくらいは心得てるつもり」
「それなら良かったです」
「あと、私はあなたとも仲良くなりたいって思ってるよ」
七海は少しだけ驚いたように目を見開き、それから花が咲くような笑顔を浮かべた。
「本当ですか……! 美里さんと仲良くなれたら、すごく嬉しいです」
美里は、ふっと少し照れくさそうに視線を逸らし、短く鼻を鳴らした。
「……まぁ、悠の隣にいるのがあんたで、正直ちょっと安心したってのもあるしね。あいつ、放っておくとどこまでも自分を犠牲にするから。……これからは、二人の甘々な雰囲気を摂取させてもらうよ」
美里のまさかの宣言に、俺は思わず吹き出しそうになり、七海はポカンとした後で、顔を真っ赤にして笑い出した。
「えっ……あ、えっと……摂取って……」
七海が戸惑いながらもどこか嬉しそうにしているのを見て、美里は悪戯っぽく肩をすくめる。
「そうよ。さっきまで散々いじって悪かったけど、あんたたちの純度が高い空気感って、なんだか見てるだけで浄化されるのよね。私の乾いた心に、あんたたちのイチャイチャという名の栄養を定期的に補給させて。……ま、目の前で度を越したことしそうになったら、また適度に冷や水ぶっかけるから安心しなさい」
「美里さん、それって結局いじってるだけじゃ……」
俺が苦笑しながら指摘すると、美里は「バレた?」と悪びれもせずに笑った。
「当然でしょ。あんたたち、自覚がないところが一番の罪なんだから。……でも、本当に安心したわ。悠がこうして、自分のことみたいに誰かを大切にできる相手と歩んでいられるなら、もう何も心配ないわね」
美里のその言葉は、冷やかしの裏側に隠された、親友としての確かな祝福だった。
「……ありがとうございます、美里さん。私、悠くんと一緒に、その……できるだけ『栄養』になれるよう頑張ります!」
七海の健気すぎる宣言に、美里は心底呆れたように天を仰いだ。
「はぁ……もう、二人揃ってバカップルね」
美里はわざとらしく溜息をついてから、少しだけ寂しそうな、けれど温かい眼差しで七海を見た。
「……そろそろ戻ろうか。トイレでこんなに長かったら、外で待ってる悠に『中で何をしてたんだ?』とか『大きい方か?』って勘繰られちゃうよ」
美里のその言葉に、七海は顔を真っ赤にして慌てて頷いた。
「わ、わかりました! 急いで戻りましょう!」
俺が駅の壁に寄りかかり、少し心配になって時計に目をやっていた時、二人が足早に戻ってきた。美里はニヤニヤと楽しそうな笑みを浮かべ、七海は少し気まずそうに俺の隣へ駆け寄ってくる。
「遅いぞ。何かあったのかとヒヤヒヤした」
俺がそう声をかけると、美里が肩をすくめながら、「ただの女同士の密談よ。あんたには関係ない世界の話」と意地悪く言った。
「まぁ、悠。七海ちゃんいい子だから絶対に悲しませるんじゃないよ」
美里はそう言い放つと、ふっと少しだけ表情を和らげた。
「わかってるよ。ただお前変に距離取るなよ」
美里は俺の言葉を耳にすると、ふふっと小さく笑って、俺の肩を軽く小突いた。
「距離を取る……か。あんた、相変わらず鈍い癖に、そういうところだけは鋭いのね」
彼女は夜風に揺れる髪をかき上げ、どこか遠くを見るような、それでいて親友として俺をまっすぐに見つめる瞳で言った。
「安心しなさいよ。今更、あんたとの腐れ縁を断ち切るつもりなんてないから。ただ、七海ちゃんとも仲良くしたいから心配させないようにはするつもり」
「なら良かった。七海とも仲良くしてやってくれ」
美里は俺の言葉を耳にすると、ふふっと小さく笑って、俺の肩を軽く小突いた。
「言われなくてもこんなに可愛い子と仲良くするに決まってるでしょ」
俺がすかさず「七海は俺のだからな」と付け加えると、美里は呆れたように肩をすくめ、わざとらしく大きく溜息をついた。
「はいはい、ごちそうさま。そんなに分かりやすく独占欲出さなくても、誰が親友の彼女を横取りなんてするのよ」
彼女はそう言いながら、その瞳の奥には親友の幸せを喜ぶ温かな色が宿っていた。七海は顔を真っ赤にして、それでも嬉しそうに俺の腕をさらに強く抱きしめる。
「……もう、悠くんってば、美里さんに対してそんなに張り合わなくてもいいのに」
七海が照れ隠しにぼやくと、美里はニヤリと唇を歪めた。
「いいじゃないの。この朴念仁がようやく独占欲なんて可愛いものを見せるようになったのよ。七海ちゃん、あんたのおかげでこの男もだいぶ人間らしくなったわね」
美里はそこで一度言葉を切り、改札へと向かって歩き出した。背を向けたまま、ヒラヒラと手を振る。
「あ、そうそう。悠の恥ずかしい話とか性癖、今度時間がある時に全部教えてあげるからね。期待しててよ、七海ちゃん!」
彼女は最後にもう一度だけ悪戯っぽく振り返り、そう言い放つと、ニヤニヤしながら改札の向こう側へと姿を消した。
静寂が戻った駅前で、俺はガクッと肩を落とす。
「……あいつ、最後まで余計なことを」
横を見ると、七海が頬を真っ赤にしながらも、どこか興味津々といった様子で俺を見つめていた。
「……悠くん、どんな性癖……?」
「違う、全部あいつの作り話だ! 信じるなよ、七海!」
俺の必死の弁明を聞きながら、七海はクスクスと楽しげな声を漏らした。
「ふふっ、楽しみ。美里さんから聞く『私の知らないの悠くん』の姿……」
そう言って俺の腕に体重を預けてくる七海の温もりに、さっきまでの脱力感が嘘のように消えていく。
俺たちは肩を並べて、家へと続く夜道をゆっくりと歩き出した。
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