放課後①
駅へ向かう道すがら、夜風が少しだけ肌寒いが、それが火照った体にちょうどいい。
「……本当にお疲れ様。今日の合奏、マジで良かったよ」
俺がそう声をかけると、現コンミスでトロンボーンパートの真帆は、まだ夢見心地のような表情で小さく頷いた。
「ありがとうございます……! まだ、自分の手や口が震えてるみたいです。あんなに上手く表現できたの初めてです」
「それはね、悠の指揮が良かったからだよ。こいつの指揮は、人をその気にさせる魔法みたいなもんだから」
美里が冗談めかして言うと、真帆は「確かに……!」と声を上げて笑った。その様子を見て、俺は少し照れくさくなって頭をかいた。
「褒めすぎだ。お前たちが上手かったんだよ」
「ねえ、お腹空かない? このまま帰るのも寂しいし、駅前のレストランで何か食べていこうよ。今日は頑張ったご褒美ってことで、私と悠で奢るから!」
美里の提案に、真帆は一瞬だけ足を止め、恐縮したように目を泳がせた。
「えっ……でも、先輩たちにそんな……私のような後輩がご一緒して、ご迷惑じゃないですか……?」
「迷惑なわけないでしょ。ねえ、七海?」
美里に振られ、俺の隣で少しおどおどしていた七海が、慌てて「あ、はい……!」と応える。
「真帆ちゃん、一緒に行こうよ」
七海が少しだけ甘えるように真帆の袖を引くと、真帆は観念したように、しかしどこか嬉しそうに頷いた。
「……じゃあ、お言葉に甘えて……! 本当に、ありがとうございます!」
駅前のレストランは、家族連れや学生で賑わっていた。俺たちは窓際の四人掛けのテーブルに案内された。メニューを開き、真帆と七海が「何にしようかな」と迷っている間に、美里は慣れた様子で店員を呼び、飲み物を注文する。
「とりあえずみんなオレンジジュースでいいかな? 喉、乾いてるでしょ」
「あ、ありがとうございます!」
料理が届くまでの間、俺たちは今日の合奏の振り返りで盛り上がった。やはり一番の話題は、レスピーギの第二楽章、そのクライマックスの爆発力だ。
「あそこ、低音良かったね」
「悠先輩の指示が完璧でしたからね」
「……ねえ、悠。あんた、いつからあんなに『音を支配する』のが上手くなったの?」
「……支配なんてしてないよ。ただ、みんなが一番出しやすい音を引き出しただけだ」
俺の謙遜を美里は鼻で笑い飛ばす。
「はいはい。あんたのそういう謙虚さが、一番ズルいんだってば」
「美里先輩って、悠先輩のこと、すごくよく見てるんですね……!」
真帆が純粋な目をして言うと、美里はグラスの中のジュースを揺らしながら、少しだけ雰囲気を変えた。彼女の視線がふと、向かいに座る俺の瞳に重なる。
「……ま、腐れ縁だからね。みんなの前では完璧なコンミスでいなきゃいけなかったけど、……悠にだけは、本当の私を見せてたかもね」
美里の言葉に、真帆と七海は驚いたように目を瞬かせた。
「私、悠の前でだけは、泣き言も言えたし、弱い自分もさらけ出せたの。練習終わりの静まり返った音楽室で、不安で押し潰されそうになった時、最後に電話してたのもこいつだったし」
美里は少しだけ皮肉めいた笑みを浮かべ、氷が溶けかけたグラスをいじった。
「あんただけには『大丈夫』って強がる必要がなかったから。だからかな、今のあんたの指導を見ていると、昔、私が欲しかった言葉を全部もらった気分になるんだよ」
「そうだったんですね」
七海が静かに呟くと、美里は少しだけ気恥ずかしそうに視線をそらし、手元のグラスを指先でなぞった。
「まぁね。あいつ、私が折れそうな時、なぜか気づいて隣にいてくれたんだよ。……そんな昔話、彼女の七海ちゃんの前でするようなことじゃないんだけどさ」
「やっぱり悠くんは優しいんだね」
七海のその言葉は、何気ないものだったが、俺の胸の奥を静かに揺らした。
「……優しい、か。そんな大層なものじゃないさ。ただ、隣で一番頑張ってる奴の顔色くらい、誰だって気付くだろ」
俺がそう呟くと、七海は少しだけむくれるように頬を膨らませ、真っ直ぐに俺の目を見つめた。
「悠くんは優しいよ。わたしがどれだけ必死に隠してても、いつもすぐに気づいてくれるもん」
「……っ、それはいいだって、いつも見てるから」
俺たちが自然と顔を近づけ、周囲を忘れて見つめ合っていると、美里が呆れたように溜息をついて、俺の肩をバシッと叩いた。
「ほら、イチャイチャしないの。後輩の前だってこと、忘れてない?」
「……してないよ。ただ話してただけだ」
俺が慌てて身を引くと、美里はニヤリと口角を上げ、俺の反応を面白がっている様子だ。隣で見ていた真帆は、俺たちの様子を微笑ましく見守りながら、少しだけ羨ましそうな、でも温かな声で言った。
「ふふっ……二人を見ていると、本当に仲良しなんだなって伝わってきます。なんだか、見てるこっちまで幸せな気分になっちゃいます」
真帆の純粋な感想に、七海は真っ赤になって俯き、俺は気恥ずかしさを隠すように咳払いをした。
「……すみません」
俺が肩をすくめると、美里はいつの間にか頼んでいたハイボールを飲み干し、少しだけ意地悪く、でも確かな温もりを込めた口調でこう付け加えた。
「まったく、付き合いたてのカップルかよ。そんなに見つめ合って、発情してるの?」
美里の口から放たれたあまりに直球な言葉に、空気が一瞬で凍りついた。真帆はポカンと口を開け、七海は顔を真っ赤にしてフリーズしている。
「……おい、美里。二人は未成年だぞ。少しは言葉を選べ」
俺が低い声で窘めると、美里はハイボールのグラスを揺らしながら、悪びれもせずに鼻で笑った。
「悠、あんたも硬いなあ。女の生々しい下ネタくらい、あんたなら熟知してるでしょ? 」
「……言いたいことは分かったけど、いきなり後輩に下ネタぶっこむな。場を考えろ」
俺が鋭く釘を刺すと、美里は小さく溜息をつき、わざとらしく肩をすくめた。
「……分かったよ。そんなに怒らないで」
美里はわざとらしく両手を挙げて降参のポーズをとった。
「あまり俺の彼女を心配させないでくれ。あまりにも酷いと、親友とはいえ、距離を置かないといけなくなるぞ」
俺が真剣な眼差しでそう告げると、美里は一瞬だけ表情を曇らせ、すぐに少し寂しげな苦笑を浮かべた。
「それは困るからやめる。悠を失うのが一番痛いからね」
「素直でよろしい」
俺がそう返すと、場の空気が少しだけ緩んだ。今まで二人のやり取りを少し緊張した面持ちで見守っていた七海が、気を取り直したように俺の方を向き、恐る恐る口を開いた。
「……あの、美里さん。……高校時代の悠くんって、どんな感じだったんですか? 美里さんに対してのことはなんとなく分かったんですけど……みんなに対してとかは、どういう人だったんでしょう?」
その質問に、美里はハイボールのグラスをテーブルに置き、懐かしむような目で俺を見た。
「高校の頃から今と変わらず『朴念仁』だったよ。周りがどんなに騒いでも、自分の中に流れる音楽のことになると周りが見えなくなるタイプ」
美里は楽しげに語り始めた。
「でもね、不思議とみんなから頼りにされてた。悠は、口数こそ少ないけど、部員の悩みとか、楽器の不調とか、誰よりも早く気づくんだよ。みんなの前で大きな声で励ますことはしないけど、休憩時間にそっと隣に来て、『今のフレーズ、こうしてみたらどうだ』って一人ひとりに寄り添うような助言をしてたかな」
「へぇ……やっぱり、悠くんらしいですね」
七海が嬉しそうに微笑むと、美里は少しだけ意地悪く目を細めた。
「そうよ。だから女子部員からもよく相談を持ちかけられててね。私はそれが面白くなくて、よくわざと割り込んだりしてたんだから。まあ、本人は全く気づいてなかったけどね」
「……そんなことあったか?」
俺が首をかしげると、美里は「ほら、そういうところ!」と呆れ顔で笑った。
「七海ちゃんもそう思わない? こういう、自分のことになると極端に鈍いところ。でも、周りの人を大切にするその誠実さがあるから、わかる人には好かれるタイプ」
七海は俺の顔をじっと見つめ、少しだけ困ったように、でもとても愛おしそうに微笑んだ。
「確かにそうですね。……悠くんって、自分以外の誰かのことならすごく繊細なのに、自分のことになると本当に、驚くほど気づかないんですから」
「誰かが部活で少しでも疲れた顔をしていると、悠はすぐに休憩を促したり、飲み物を差し入れたりして。でも、悠自身が無理をしていても、なかなか周りに弱音を吐かない……。だからこそ、みんな『この人のために頑張りたい』って思ってた」
美里がそう言い終えると、テーブルには一瞬、柔らかな静寂が訪れた。美里は遠くを見つめるような瞳のまま、かすかに唇を緩める。
「……あの頃はね、悠は強いって思ってた。でも今ならわかるわ。あれは強いんじゃなくて、ただの不器用な優しさだってこと。自分の痛みより、仲間の輝きを優先しちゃう、救いようのないお人好しなのよね」
「そんなことないよ」
俺が少し照れくさそうにいうと、彼女は「なに照れてるのよ」と笑い、再びハイボールを一口含んだ。
「七海ちゃん。あなたも気づいてるでしょ? この男は自分が壊れる寸前まで、他人のために手を尽くしちゃう性格。だから、これからは悠が無理をしそうになったら支えてあげてね」
「はい……! もちろん、わたしが一番そばで見てますから」
「……二人とも、心配かけて悪いな」
俺がそう素直に認めると、美里は「やっと素直になったね」と、まるで長年の荷が下りたような晴れやかな表情で笑った。
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