青春の空気
守衛室を抜けて校舎に入ると、夕暮れ特有の、どこか寂しくも懐かしい静寂が廊下に満ちていた。俺たちは真っ直ぐに職員室へと向かう。
中に入ると、運良く当時の顧問である佐藤先生がデスクで書類を整理していた。
「おっ、悠か。先日も顔を見せたばかりだというのに、随分と熱心だな」
「先生、お疲れ様です。今日はちょっと、懐かしい顔を連れてきまして」
俺が後ろを振り返ると、美里がひょこりと顔を出した。
「先生、お久しぶりです! 半年前の定期演奏会以来ですね。あの時の演奏、最高でしたよ!」
「お、美里か。相変わらず元気そうだな」
先生は目を細めて美里を迎え入れた。美里も大学の課題やら何やらで忙しいはずだが、吹奏楽への情熱だけは、卒業してからも変わらないらしい。
先生と短い挨拶を交わし、俺たちは音楽室へと向かった。廊下の先から聞こえてくる音色は、先ほどより輪郭がはっきりとしている。扉の向こうでは木管楽器の練習が行われているようだ。
吹奏楽部の練習は段階を踏む。まずは個々が技術を磨く『個人練習』を行い、同じ楽器同士で突き詰める『パート練習』へと移行する。さらに、木管や金管といったグループごとに音の重なりを整える『セクション練習』を経て、ようやく全員が揃う『合奏練習』へと繋がっていくのだ。
楽器は違えど、ユニゾンで音を重ねたり、メロディを掛け合ったりする場面は多い。だからこそパートやセクション単位で細かく合わせ、音色の統一感や息の合わせ方を磨く必要がある。その地味な積み重ねこそが、全体の合奏の完成度を左右する唯一の近道なのだ。
廊下の壁にもたれかかり、俺は美里と共にその響きに耳を澄ませる。
「……懐かしいな」
俺の呟きに、美里も静かに頷いた。
「そうだね。地道に練習を積み重ねるの、ほんとに大変だったし……正直、辞めたいって思う時もあったけど、辞めなくてよかったよ」
「確かにな。あの頃の辛かったことも、今となってはいい思い出だ」
美里はふっと微笑むと、俺の方を見て悪戯っぽく肩を小突いた。
「こうして親友もできたわけだしね」
その言葉に、俺は少し照れくさくなって視線を外した。
「……俺はやっぱり、もう一度青春時代に戻らなくていいかな」
「え?」
美里が目を丸くして俺を凝視する。
「一度きりだからこそ、この思い出が眩しく感じられるんだよ。やり直して同じ場所に戻ってこられるかどうかも分からないしな」
俺の少し気障な言葉に、美里は少し呆れたような、でも嬉しそうな顔で笑った。
「そうかもね。……悠らしいよ」
その瞬間、音楽室の中から響いていた木管の旋律がぴたりと止まった。静寂が廊下に広がり、楽器を置く音や、誰かが会話をする微かな気配が扉越しに伝わってくる。
「……今、キリが良さそうだな」
「だね。……じゃあ、行こうか!」
俺は小さく息を吐き出し、覚悟を決めてその扉のノブに手をかけた。
扉のノブに手をかけ、俺はゆっくりと扉を押し開いた。
「……お邪魔します」
音楽室の中に足を踏み入れると、あの頃と全く変わらない木の香りと、どこか熱を持った空気が肺を満たした。練習の余韻が残る静寂の中、中央で譜面を覗き込んでいた七海が、まず最初に俺たちの存在に気づく。
「あ……悠くん……」
七海の小さな呟きを合図に、練習の手を止めていた部員たちが一斉にこちらを振り返る。
「わっ! 悠先輩だ!」
「本当だ、お久しぶりです!」
途端に音楽室が騒がしくなる。七海は慌てて俺の元へ駆け寄ろうとしたが、俺の背後に隠れるように立っていた美里がひょっこりと顔を出したことで、その足がピタリと止まった。
「……えっと、悠くん。その、後ろにいる……人は?」
七海が戸惑いながら美里を指さす。美里は先ほどまでの悪戯っぽい笑みを一瞬で消し去り、後輩の前らしく少しだけ大人びた態度で一礼した。
「こんにちは。卒業生の美里です。悠とちょっと近くまで来たから、顔出しちゃった。練習、邪魔しちゃったかな?」
「あ、いいえ……! お、お疲れ様です……!」
七海は緊張した面持ちでぺこりと頭を下げる。俺はそんな七海の頭を軽く撫で、隣に並んだ美里を部員たちへと紹介した。
「こいつは美里。高校の時からの友達で、俺たちの代のフルートのパートリーダー兼コンミスだった人だよ」
「え!コンミス?!」と後輩たちがざわめく。
コンミスとはコンサートミストレスの略。簡単に言えば、演奏全体をまとめる役職のことだ。
悠たちの代は、この学校が初めて東関東大会への切符を掴み取った伝説的な世代だ。そんな大きな壁を突き破った代のコンミスが、今こうして目の前にいる。その事実が、後輩たちにとってどれほど凄まじいことかは言うまでもない。
「うそ……美里先輩って、あの初めて東関東大会に行った代の……?」
「すごすぎる……! 私たち、今年も東関東大会行けるように頑張ってます!」
後輩たちの目が一気に尊敬と熱狂の色に染まり、美里は少し面食らいながらも、悪戯っぽく笑みを浮かべた。七海もまた、目を丸くして美里を見つめている。彼女にとって、今の目標である東関東大会という大きな夢を現実に変えた先輩の姿は、どう映っているのだろうか。
「あの……美里先輩、その……どうやって、合奏をまとめていたんですか?」
今のフルートのパートリーダーと思われる生徒が恐る恐る尋ねると、美里は少しだけ表情を引き締め、音楽室を見渡した。
「……まずは、自分が一番妥協しないことかな。あと、隣のメンバーをどれだけ信頼できるか。信頼し合えば音は自然に合ってくるよ。隣の人を信用することがつながっていって、メンバー全員を信頼することにつながる」
その言葉は、伝説的な代を率いたコンミスとしての、確かな重みを持っていた。音楽室が静まり返り、後輩たちがその言葉を噛み締めるように頷く。
「あとは楽しむことかな。辛いことも多いと思うけど、こんなに大人数で何かをする機会って、大人になるとなかなかないから。今しかできないことを楽しまなくちゃね」
美里の言葉に、後輩たちから「あ!それ、悠先輩もこの前言ってた!」と次々に声が上がる。
「え、そうなの? なんだ、もう悠が言ってたのか」
美里は少し意外そうに俺の方を見て笑うと、懐かしげに目を細めた。
「この言葉ね、私がコンミスとして行き詰まって、すごく落ち込んでた時に悠が言ってくれたの。……本当に、その一言に救われたんだよね。だから、みんなも辛い時は抱え込まず、仲間を信じてしっかり頼るんだよ」
元コンミスの先輩からの言葉に、後輩たちは深く頷き、音楽室の空気が温かな空気に包まれる。そんな中、俺の隣にいる七海が、何かを我慢するようにモジモジと俺のシャツの裾を握りしめていた。
「……七海、どうした?」
俺がそっと声をかけると、七海は少し視線を彷徨わせ、小さな声で呟いた。
「……ううん。ただ、悠くんが他の女の人とあんなに楽しそうに話してるの……少しだけ、複雑だな、って」
七海はボソボソと本音を漏らす。
(うちの彼女可愛すぎだろ……)
正直、俺に独占欲を持ってくれて嬉しかった。
「美里は親友だし、お互いを異性としてみてないよ。あいつは多分俺を女だと思ってる」
俺のその言葉に、七海はきょとんとした表情で俺の顔を見上げた。一方で、それを聞いていた美里は
「女だなんて思ってないよ。……異性と思ったこともないけど」
「ほらな」と俺が肩をすくめると、七海はクスクスと笑い出した。さっきまでの張り詰めたような空気が、美里の軽口によって少しだけ解けていく。
「……ごめん、ちょっと嫉妬しちゃった」
七海は少し照れくさそうに笑う。
そんな様子を少し離れたところから見ていた美里が、呆れたような、しかしどこか温かい笑みを浮かべて口を挟む。
「ん? なにその甘い空気。ねえ、この二人って……もしかしてすごく仲良いの?」
美里の鋭くも茶化すような指摘に、音楽室の後輩たちが一斉にこちらを注目する。視線を浴びて七海が恥ずかしさで耳まで真っ赤にするのを見て、俺はもう観念した。
「……ああ、紹介が遅れた。こいつは俺の彼女、七海だ」
俺がはっきりとそう告げた瞬間、音楽室の空気は一瞬の空白を経て、爆発的な歓声に包まれた。
「ええっ!?七海ははぐらかして教えてくれなかったけどやっぱり!?」
「うわあ、マジで!? やっぱりそうだったんだ!」
後輩たちが「隠してたなー!」と冷やかしの声を飛ばす。七海は顔を真っ赤にしてうつむきながらも、俺に寄り添う体勢を崩そうとはしない。
「ごめん、隠してたのか」
「ううん、いいの。本当のことだから……」
「練習中邪魔して悪かったな。外で待ってるから」
俺がそう言って退散しようとすると、後輩たちが一斉に食い下がってきた。
「練習見ていってくださいよ! アドバイスください!」
「というか指揮振ってください!」
「美里先輩、フルート吹きませんか?」
俺が苦笑して「おいおい」と困り顔をしていると、美里が隣でニヤリと笑った。
「いいよ。せっかくだし、合奏しようか」
「え? まじで?」
「うん。久しぶりに吹きたいな。……ねえ、悠。指揮振って」
思わぬムチャ振りに、俺は思わず眉をひそめた。
「なんで俺なんだよ」
「私より悠の方が指揮、上手いじゃない。……それに、私はコンミスとして『トップ』で吹きたいんだよね」
トップ――客席から見て指揮者のすぐ左に位置する、全演奏の要だ。合奏はすべて指揮者に合わせると思われがちだが、実際にはテンポ感はそのトップに座るコンミスの音に合わせる。指揮者の役割はあくまで音楽の「表現」の舵取りであり、同じ楽曲でも指揮者によって表情が全く異なるのは、その表現の引き出し方が違うからだ。
美里は、トップとして踊るように軽やかに音を紡ぎ、その場の空気を支配して全体をまとめるのが天才的に上手い。対して俺は、音楽の方向性を明確に導き、説得力を持たせる指揮に定評があった。そのため悠は先生がいない練習の時は指揮を任されることがあり、かつての俺たちは、その役割分担で東関東大会という高みを目指したのだ。
「……はぁ。じゃあ、少しだけな。あんまり期待するなよ」
俺が観念して承諾すると、音楽室から歓声が上がる。
「わあ、悠先輩の指揮だ!」
「美里先輩と合わせるの、すっごく嬉しい!」
「金管と打楽器も呼んでくる!」
美里は手慣れた様子で学校備品の中からフルートを受け取った。手入れが行き届いているせいか今も変わらず素晴らしいコンディションを保っている。
「で、なんの曲やるんだ?」
悠の問いに、七海は少し緊張した面持ちで譜面台を指差した。
「今年の自由曲……」
俺は譜面を覗き込み、わずかに目を見開く。廊下で聞こえていた旋律、そして今の木管の響き。
「さっき少し聞こえてたけど……もしかしてレスピーギか?」
「……うん」
七海が小さく答えたのは、オットリーノ・レスピーギ作曲、交響的印象『教会のステンドグラス』。
それは、俺たちがかつて東関東大会の舞台で命を燃やした、思い出深い名曲だった。
第一楽章『エジプトへの逃避』は、クラリネットのソロから幕を開ける。イエス親子が迫害から逃れる逃避行の場面だ。寂寥感を漂わせる旋律の中に、運命に抗うような芯の強さが同居しており、極めて高い表現力が求められる。
そして続く第二楽章『大天使ミカエル』は、天使とサタンの熾烈な戦いを描く。荒れ狂う木管の速い連譜に、唸りを上げるホルン、地鳴りのような低音、そして天高く響き渡るトランペット。全楽器に高度なテクニックを要求する、吹奏楽屈指の難曲だ。
俺たちの代は、この二つの楽章にすべてを懸けていた。
「……なるほどな。今年は、もっと先を狙うってことだな?」
俺がそう確認すると、七海は真っ直ぐに俺の目を見つめて頷いた。
「うん、そのための曲。この曲で勝負する」
その瞳には、かつて俺たちが見ていた景色よりもさらに先を見据える、強い意志が宿っていた。
「……わかった。じゃあ、やるか」
読んでくださってありがとうございます。
面白いと思っていただけたら、
★評価やブックマークで応援していただけると更新の励みになります!




