親友
翌朝、窓から差し込む柔らかな光が俺の目を覚ました。
朝食の席では、父は昨日と変わらぬ穏やかな表情でコーヒーを飲んでいた。昨夜のことが嘘のように、いつも通りの日常がそこにある。けれど、俺と七海の間には、言葉にしなくても共有している確かな絆があった。学校へ向かう玄関先で、七海と視線が重なる。彼女は少し照れたように微笑み、俺のシャツの袖を軽く引っ張った。
「……悠くん、行ってきます」
「ああ。……気をつけてな」
俺は大学へ、七海は高校へ。それぞれの場所で一日を過ごし、次に会うときを待ちわびる。それがこれからの俺たちの日常になるのだ。
研究室のデスクで今日やるべき作業を整理していると、スマホに七海からのメッセージが届いた。
『今日、放課後に少しだけ寄り道しない?』
その一文だけで、俺は画面を見つめたまま自然と頬が緩んだ。
『じゃあ帰る時間に迎えに行くね』
そう送信するとすぐに返信が来た。
『デート楽しみ』
「……悠、またニヤけてる」
背後から掛けられた声に、俺はビクッとしてスマホを慌てて裏返した。そこにいたのは、研究室の同期であり、高校時代からの腐れ縁でもある美里だった。同じ吹奏楽部で、彼女はフルート、俺はクラリネットを担当していた。同じ木管で学部や研究室が同じこともありなんだかんだ仲がいい。
「なんだよ。別にニヤけてないって」
「嘘つけ。何? 彼女?」
美里は俺に七海の存在を教えたことがない。ただの同期として、いつものからかい半分でニヤニヤと俺を覗き込んでいる。
「ただのちょっとした用事で、帰りに寄り道するだけだから」
「それでなんでそんなにニヤニヤしてるの?」
「……それは、秘密」
俺がぶっきらぼうにそう言うと、美里は「ふーん」と面白そうに鼻を鳴らした。
「じゃあ、どこに寄り道するの? 隠さなくてもいいじゃん」
「……高校」
俺がそう答えると、美里は少し意外そうに目を丸くした。
「高校? ……あ、そういえば今日の帰り、私も図書館に寄る用事があったんだった。本を返さなきゃいけなくてさ。……ねえ、一緒に行ってもいい?」
「……まあ、いいけど」
「よし! じゃあ、帰りはよろしくね。……ていうか、懐かしいな。たまには音楽室にも顔出してみる?」
美里の無邪気な提案に、俺は少しだけ眉をひそめた。前回の訪問時、部活の後輩たちに囲まれて質問攻めに遭った記憶が蘇るからだ。また嵐のような騒ぎに巻き込まれるのかと思うと、内心ではどうしても少しだけ身構えてしまう。
けれど、同時にふと思う。
七海はあの賑やかな友人たちに、俺たちのことをどう説明しているんだろうか。単なる卒業した先輩としてなのか、それとももう少し特別な関係として伝えているのか。そんなことを想像すると、胸の奥がこそばゆくなるような不思議な感覚が湧いてきた。
まぁ、後輩たちの騒がしさは難点だが、音楽室に漂うあの独特の空気感は嫌いじゃない。現役の頃、毎日吸い込んでいたあの懐かしい活気に触れられるのは、正直嬉しい。
「……そうだな。まあ、少し覗かせてもらうか」
俺は覚悟を決め、短くそう答えた。
「……そうだな。まあ、少し覗かせてもらうか」
俺の返事に、美里は「決まり!」と嬉しそうに頷いた。大学の研究室から高校までは歩いてすぐだ。夕闇が濃くなる街を歩きながら、美里は昔と変わらぬ軽快な調子で話し始めた。
「懐かしいね。悠とこんなに長い間一緒に過ごすことになるとは思わなかったよ。まあ、悠のこと男として認識してなかったおかげかな」
美里は極端な男嫌いで、俺に対しては完全に気を許している。だが、さすがにその言い草は引っかかる。
「……仕方ないけど、それはそれで傷つくぞ」
「仕方ないじゃん。部員のほとんどが女子だったから、ほぼ女子校みたいな環境だったし」
「……そのせいで、俺たち男子はいつもヒヤヒヤしてたんだぞ」
俺が苦笑交じりに返すと、美里は「えー、何が?」ととぼけた顔をした。
「何がって、お前ら平気で音楽室で着替えるだろ。こっちは健全な男子なんだから、そのたびに心臓が止まりそうになってたんだよ」
「あはは! そうだったっけ? 悠は私たちのこと、ちゃんと女だと思ってたんだ」
美里はケラケラと笑い、俺の肩をバンと叩いた。今思えば、あの独特の距離感は異常だった。俺が男子として扱われない快適さはあったが、多感な時期に吹奏楽部の真ん中で揉まれるのは、ある意味で過酷な修行のようなものだった。
「……普段は同性だと思ってたけどな。男子よりエグい下ネタ平気で言うし。でも、流石に意識はするよ」
美里は俺の顔を覗き込むようにして、ニヤリと口角を上げた。
「ふーん。で、興奮した?」
「……おい、やっぱりお前は男子高校生だな」
俺が溜息混じりに返すと、美里はさらに面白がって畳み掛けてくる。
「意識してたくせに。思い出してシコった?」
「訂正する。お前はエロジジイだ」
「ちょっとそれ酷くない? 乙女の純粋な好奇心だよ!」
「今の発言を振り返って、正当な反論ができるか?」
「できないっ!」
美里は開き直ったかのように答えた。俺は呆れながらも、この遠慮のない距離感こそが、彼女との腐れ縁の正体なのだと再確認する。そんな軽口を叩き合える関係は、今となっては貴重だ。
沈黙の間が少し空いた後、美里は悪戯っぽく笑いながら、唐突に爆弾を投げてきた。
「私は風呂までなら一緒に入れるけど」
俺は足がもつれそうになり、思わず彼女の顔を直視した。
「……そこまでいくと、もう先はないぞ。というかお前、ほんとに男嫌いなのか?」
美里はけらけらと笑いながらも、どこか真剣な面持ちで続ける。
「男嫌いだけど、信用してる人なら大丈夫かな。あ、でも私の下着姿思い出してシコっちゃう悠と一緒に入ったら襲われちゃうか///」
わざとらしく頬を赤らめて見せる美里の演技に、俺は呆れ半分、動揺半分で言葉を返す。
「……襲われても文句は言えない状況ではあるけどな」
「じゃあ、襲うの?」
真っ直ぐな視線を向けられ、俺は少しだけ真面目な顔をして答えた。
「襲わないよ」
「なんで?」
「……親友だからかな」
「……いい答えだ。ご褒美に今度奢ってやろう」
「寿司と焼肉、どっちにしようかな」
「……親友だよね、少しは気を遣ってくれてもいいのに……」
そんなやり取りをしながら歩いていると、ふと香ばしい匂いが鼻をくすぐった。視線の先には、高校への通学路沿いに昔からある焼き鳥屋。部活帰り、小腹を空かせた俺たちがよく溜まっていた店だ。
「懐かしいな。……なあ、美里。そこの焼き鳥、食っていかないか?」
「おっ、いいね! じゃあおごりるよ!」
慣れた様子で注文を済ませた。焼きたての煙を浴びながら、俺たちは店の横のベンチで熱々の串を頬張る。変わらないタレの甘辛い香りが、当時の記憶を鮮明に呼び起こした。
「……懐かしいな」
「……本当にね。あの頃の青春時代に戻りたいよ。……正直、恋愛とかしてみたかったな」
美里の珍しく素直な吐露に、俺は少し驚いて串を止めた。
「お前が? ……いや、無理だろ。お前、男嫌いだしどうやって……お前もしかして……」
美里は焼き鳥を一本咥えたまま、呆れたような目を向けてきた。
「女の子に対しては、さすがに欲情しないよ。普通に友達として見てるし」
「いや、そこまで下品なことまでは聞いてないんだけど……」
「男嫌いっていうか、なんていうかさ。グイグイ来たり、下心丸出しで接してくる男が単純に嫌いなだけだよ」
「……それ、世の中の大体の男がそうだぞ」
「悠のえっち」
「……なんだお前、さっきから下ネタ多いけど欲求不満か?」
「そうだね、欲求不満かな。研究ばっかりで3日間一人遊びしてないから」
サラリととんでもない爆弾を投下され、俺は絶句して串を止めた。
「……反撃しようと思った俺がバカでした」
「ふふっ、私に勝とうなんて100年早いよ」
美里は勝ち誇ったように笑うと、残りの焼き鳥を平らげて軽快に歩き出した。相変わらずペースを乱されっぱなしだ。
そうこうしているうちに、母校の正門が見えてきた。夕闇に染まる校舎を前に、俺は守衛での手続きを済ませた。
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